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日清戦争・成歓の闘い [歴史への旅・明治以後]

大日本帝国の歴史は戦争の歴史である。開国以来日本は戦争を重ねてきた。その第一歩が日清戦争であり、日清戦争の緒戦が成歓の戦いであり、そのまた最初の衝突が世に言う安城渡の戦あるいは佳龍里の戦闘である。華々しく戦争の世界にデビューした日本の姿を伝える講談調の書き物には事欠かない。どれもが、待ち伏せして襲い掛かる清国兵の大軍、軍人戦死第一号である松崎大尉の鬼神の奮闘、死んでも喇叭を吹き続けた壮烈喇叭手など、様々なエピソードを持って語られ、日本が輝かしい最初の勝利を手にした事を伝えている。

しかし、事実は多少異なり、実はこの戦闘で、見方によれば日本は負けたのではないかということが今からここに書く主題である。戦闘詳報や当時の新聞記事などを調べて、定説と異なる結論を得たのだ。というより、この戦闘はあまりにも伝説化されていて批判的に検討されたことがなかったのではないだろうか。

日清戦争は1894年8月1日に始まり、翌年4月17日に終わった日本と清国の戦争である。明治維新で中国、朝鮮より一足早く近代化を成し遂げた日本は、早速西洋国家の後追いで対外進出を始めた。明治維新早々に征韓論というのがあって、朝鮮に攻め込むことが議論されたが、結局は政府内部でまとまらず、逆に国内で分裂して、西南戦争を始めてしまった。それがこんどは「朝鮮の独立を守るために清国と戦う」などと言うことになった。宣戦布告文の草案が何種類かあって其の中には「清国及び朝鮮国に対して宣戦を布告する」なんてのもあるくらいだから実にいい加減な理由付けだ。

そのころ朝鮮では東学党の農民一揆があちこちに起こり政情不安であった。朝鮮は清国に援助を求めた。清国は朝鮮の「宗主国」を自認しており朝鮮に問題が起これば軍が駆けつける安保条約のようなもので結ばれていた。ところがこの状況に対して、清国軍では日本人の安全は守れないとして、(例によって)在留邦人の保護という理由をつけて日本も清国を上回る大軍を朝鮮に派遣してしまった。広島にあった第5師団に大島義昌が率いる混成旅団が編成され、これに広島11連隊と岡山21連隊が属した。喇叭手美談で知られる木口小平も白神源次郎も21連隊の兵卒である。

広島は、山陽鉄道が開通して広島までの鉄道が使える様になったので、兵器・兵員の集中拠点として大変都合がよかった。広島から宇品港を出て朝鮮半島に出撃することも出来る。日本軍は西郷隆盛らが征韓論で作戦検討したとおり、仁川に上陸し、そのまま京城まで行ってしまった。朝鮮王宮に押し入り、朝鮮軍を武装解除して国王を捕虜にしたのだからこれは日朝戦争と言っても良いはずのものだ。抵抗が少なかったので華々しい戦闘にはならなかった。それでも1等卒早山岩吉が戦死しているし韓国側にも戦死者が出ている。この時点ですでに戦死第一号が松崎大尉であると云う定説が崩れる。


捕虜にした国王に「清国軍を追っ払って欲しい」と言わせて、これで清国に対する宣戦布告の理由が出来た。宣戦布告文案からは「及び朝鮮国」が抜けた。大義名分が出来たのが7月23日、7月25日には清国が日本に対抗して増援兵を送るために英国からチャーターした輸送船を襲っていきなり千人以上を殺してしまった。日本軍は真珠湾でもそうっだったが、不意打ちを食らわすのが得意の戦術で、思いっきりひっぱたいておいてから、「喧嘩だ。さあかかってこい。」と叫ぶのである。豊島沖海戦と呼ばれる輸送船襲撃事件は、まだ宣戦布告も出していない時点だから実に乱暴な話だといえる。沈む輸送船から投げ出された千名の清国兵を助けず皆殺しにしてまったのは残虐行為だが、当時のいい加減な国際法には違反していないそうだ。

清国軍は京城に攻め込むというようなあつかましいことは出来ずに京城のかなり南にある牙山を本拠に農民一揆の討伐を行っていた。増援軍は皆殺しにしてしまったから、当面は数的にも日本軍が有利である。早期の開戦が望ましい。日本としてはまず牙山の清国軍を叩こうと言うことで混成旅団が南下した。23日の王宮占拠から25日の豊島沖海戦、29日の成歓の戦いまでの実に素早い動きは充分に計算された計画に基づくものであったことがうかがい知れる。時期早尚として一時は退けた征韓論から20年。練りに練った作戦を展開したのだ。

素早い動きが出来た理由の一つは、もうひとつの日本の得意技、「補給をしない」と言うことである。太平洋戦争では補給のことをよく考えていなかったために負けたようなことを言うが、実際はよく考えた上で補給はしないことにしたのである。大島旅団からの補給の要請に対して、答えた大本営の6月29日の訓令はそれを明確に述べている。補給隊を送れば、その補給隊の食料まで送らなくてはならなくなり、きりが無い、戦争と言うのは補給無しで身軽にして始めて戦えるものだ。補給の要請なんてとんでもない。もうこれからはこんなことを言って来るな。そんな事をあからさまに書いている。

というわけで、食料や馬は原則現地調達つまり略奪でやることになった。確かに理屈は通っている。登山隊のことを考えれば、ほとんどの人員はベースキャンプから第一、第二キャンプへの補給隊になっている。山頂へのアタック2人に対して50人からの登山隊を組織する。まともに補給すれば50人中2人しか戦わないことになるのだ。逆に言えば古来、遠征軍とか侵略軍とかは全て略奪でやって来たということだ。日本軍はこれを徴発と言っているが、徴発とは強制的に入手することで値段は買い手が勝手に決める。値段をゼロにすれば強盗である。

補給を徴発でまかなうと言うのも実は楽ではない。それはそうだ。だれだって略奪されるのは好きではない。当然、現地の人は軍隊を見れば逃げ出すし、食物は隠す。馬なんかを取られたら農耕も出来なくなるから大変だ。徴発された人足は当然隙を見て逃げ出す。木口小平も白神源次郎も、第3大隊に入っており、隊長は古志正綱少佐であった。生真面目な人で上層部の信用も厚かったので、旅団が苦労して略奪した50頭ばかりの馬と人足をこの第3大隊で預かっていた。ところが牙山に向かって進軍し始めて3日目の夜、この馬と人足に荷物ごと逃げられてしまった。そのため混成旅団は食料不足に陥ってしまった。参謀長長岡外史に怒られた古志少佐は責任を感じて自殺してしまう。これが日本軍戦死の実質二人目であるがもちろん公式には戦死とはなっていない。第3大隊は大隊長不在のまま戦場に赴くのである。この混乱が第三大隊の兵士たちに無残な死に方が生れた遠因とも考えられる。

混成旅団の戦闘詳報によれば、7月28日は素砂場で野営し、7月29日早朝2時に牙山に向けて出発した。出発時刻からもわかるようにこれは単なる行軍ではなく夜襲をねらった出撃である。宣戦布告はまだだが、情況はもう開戦したも同じで、清国兵はおそらく牙山の手前に進出して来ていて明け方に成歓あたりで衝突することが予想された。連日雨が降り続いていたので、道は糠り、闇夜の行軍である。安城渡で河を渡った。ここでは戦闘は行われていない。この戦いを安城河の渡河作戦とする書き物は、詩吟の定番である「松崎大尉戦死の詩」など全て間違いと言うことになる。

ここから成歓までは田圃の中の細い一本道となる。いくらなんでも敵が山峡の要害で待ち受ける成歓まで、この細い道を縦列になって歩いて行く手はない。旅団は二手に分かれ、主力左翼隊は山伝いに東に迂回して成歓の東から攻撃する。右翼隊は陽動作戦でそのまま街道を進んで成歓の西に出るということになった。白神たちの第3大隊は右翼隊で、先頭は松崎直臣大尉が率いる第12中隊。後に続くのが10中隊と9中隊、第7中隊で、工兵中隊や衛生隊が後尾になった。おそらく木口は第12中隊、白神は第9中隊にいたと思われる。報告に出てくるのは将校ばかりで兵卒については所属すらなかなか明らかにできない。

20分ほど歩いて秋八里の手前600mの所まで来た。「キリン洞」と書いているが「佳龍里(キョロン)」だろう。雲の切れ目に弦月が出てうっすらと物が見えるようになった。前方30メートルのところに家が何軒かあり、そこに清国軍の「師」旗が2本見えた。と思ったら急に家の蔭から射撃が始まった。猛烈な射撃でおそらく400人からの軍勢だと判断したと報告しているが、戦闘詳報は必ず敵を多く報告するものだ。小屋の後ろに隠れるくらいだから実際には200人くらいだっただろう。清国軍の突然の射撃に反撃する形で戦闘が始まったとしている。木口小平はおそらくこの一斉射撃で死んだのではなかろうか。喇叭を吹く余裕はなかった。中隊長の松崎大尉もこの時死んだだろう。松崎大尉は日清戦争の戦死第一号ということもあって、その戦死は美化されて大々的に語られている。突撃してサーベルで切りまくったことになっているが、それではこの突然の一斉射撃とつじつまがあわない。戦死第一号はこの200丁以上の銃による30mの至近距離からの一斉射撃によるものと考えるしかないからだ。

第12中隊は道路から田圃に飛び降りて左側散開して伏せた。後続の中隊もそれぞれに田圃の中に入って泥まみれで散開して前方の家屋に向かって射撃しながら突撃の体制を準備した。第7中隊と第10中隊の一部は右側に回って射撃した。3時45分、突撃命令で600人が一斉に襲い掛かった。このとき進軍喇叭が鳴り響いたことは従軍した新聞記者が記録している。部隊が突撃すると清国軍はかなわぬと見て背走した。暗くて敵味方入り混じった状態では追い討ちの射撃も充分には出来なかった。一応は敵を追い払ったのだから日本軍の勝利ではある。しかし、清国側の記録では、逃げる日本軍を水構に追い落して打撃を与えて、さっと引き揚げたと言うことになっている。

この「水構に追い落として」と言うところは日本側の記録にも出てくる。21連隊の戦闘詳報にも時山中尉以下24人が溺死した書いてあるが詳しい情況は書いてない。いくつかの通俗本ではもう少し詳しく説明してある。当日は闇夜であり、泥まみれで突撃の際、増水した田圃は渕との区別がつかなかった。第7中隊の時山少尉は第7中隊と第10中隊の1分隊づつ計23人を率いて右翼側から突撃する命令を受けたが、そこは運悪く渕になっており、深みにはまって全員が沈んでしまったと言う。重い装備を背負って、泥沼に踏み込んでしまったのだから泳ぎ様も無い。溺死が多かったことからこの戦いを渡河作戦だとする解釈が生れたのだが事実は異なる。

当初の報告では時山中尉は行方不明で、溺死の事実は隠されていたが、正式な報告でははっきりと溺死と記述している。これには、敵の死体を数えたら将校1と兵卒20でしかなかったことがからんでいる。この日の日本軍の損害は合計35名だから溺死の24名を除外しないと清国軍より大きな損害となる。結局、佳龍里で戦死は将校1兵卒5で日本軍の勝利が正式報告と言うことになった。激戦と言われるにしてはあまりにも少ない損害と驚かざるを得ない。

通俗本の溺死状況をはじめ、よく言われている成歓戦の様子は疑わしいところがかなりある。「時山中尉が第7中隊と第10中隊の2分隊を率いて」と言うのも実に妙だ。時山中尉は第3大隊第7中隊の第1小隊長で、配下に5分隊70名ばかりを指揮しているのである。戦闘のさなかに自分の小隊の1分隊だけと全く別の大隊の1分隊を率いて行動するわけが無いだろう。戦闘詳報にある「第7中隊の1分隊と第10中隊の1分隊を右翼に増強し」を勝手に時山中尉に結びつけたものだろう。屍体検案書が残っている溺死者は2人だけだが二人とも第9中隊だ。一方、野戦病院の記録からは第12中隊3人第10中隊3人第7中隊1人がこの日全体の戦死者になっている。第9中隊は戦死の記録がなく、死亡15名だからほぼ全員が溺死である。結局、時山中尉とあと7人の第7中隊員と第9中隊の15人が溺死したことになるが、これは別段時山中尉に率いられての特別の行動ではないだろう。白神源次郎は第9中隊だから溺死したものの1人と考えられる。

ではどのようにして溺死することになったのだろうか。軍の記録以外にも一次資料はあって、大阪毎日新聞の高木利太、東京日日新聞の黒田甲子郎がこの日従軍している。二人とも進軍喇叭の響きを文章に伝えているが、喇叭手のことについては何も触れていない。これからも喇叭手美談が現場で生まれたものではなく、内地で作られたものであることがわかる。注目されるのは黒田甲子郎の記事で「一部は少く背進し瀦水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来るを以ってここは畢竟枝隊の敗戦と見受けられたり」とあるから、戦闘詳報には一言も書いてないが、日本軍が一時的にせよ「背進」つまり逃げたことは確かだろう。清国側の記録の通り、逃げる時に水溝に落ちたのかあるいは、攻撃の時に落ちたのかのどちらかだろう。

水死体を実況見分した報告書によれば17体を発見した場所は安城川の支流につながる水構で、佳龍里からは北に400mほども離れている。だから、「突撃」で落ちるには少し遠すぎる場所だ。行軍隊列が長くなって、戦闘が始まった時点では9中隊7中隊はまだ川を越えずにいたとも考えられるが、工兵隊、衛生隊が渡河して川堤に布陣したのだから、これらの中隊はもっと前進位置になければならないし、実際10中隊7中隊の分隊は右翼へ回って射撃している。つまり、ここの地形としては退却する以外に水構に落ちることは出来ないのである。

さらなる疑問は緒戦の部分にもある。清国軍は堂々と「師」の旗2本を掲げているのだから「伏兵」はないだろう。そもそも、佳龍里の集落は成歓街道からは100mも離れている。ただまっすぐ行軍していたのでは30mの距離には近づけない。清国軍は単に野営していたのではないか。まだ宣戦布告前で開戦はしていないし、真夜中の三時だ。「師」の旗2本を見て、日本軍はこっそり近づいて寝込みを襲おうとしたのではないだろうか。街道からはずれ30mまで近づいたところで清国軍は日本軍の襲来に気づき、あわてて撃ってきた。こう考えないと30mの至近距離から待ち伏せしていた400名が一斉射撃したことになり、先鋒の12中隊で戦死者が僅かに4名しかいないのは説明がつかない。

計画的な一斉射撃ではなかったがかなり猛烈な射撃と思われたので、日本軍も慌てて一旦は逃げた。なにしろこれまで一度も本格的な戦闘を経験したことのない兵隊たちだ。先頭部隊である12中隊が攻撃を受け、続く10中隊も浮き足立った。まだ川堤から遠くないところにいた7中隊、9中隊は、慌ててばらばらに逃げようとして一部が転落した。これが9中隊7中隊にまたがって溺死者が出た理由だ。しかし、清国軍は追ってこなかったし、日本軍の軍勢は倍以上あり、優勢なので体制を整えて反撃することにした。日本軍が再び前進すると清国軍は撤退していった。...というのが本当のところではなかろうか。突撃したと言う日本軍の本隊では戦死者が殆ど出ていない。最初の射撃戦以外に清国軍の攻撃はあまりなかったとすると12中隊の戦死者4名はやはり最初の射撃の時のものに限られる。攻撃を受けた第12中隊第1分隊の木口小平は、弾丸が心臓を貫く即死で、進軍喇叭を吹く前に死んだ。進軍喇叭を吹いたのは12中隊にいたあと二人の喇叭手北田文太郎か奥津友太郎だと言うことになる。

あまり華々しくもない最初の戦闘も軍国日本としては美化せざるを得なかった。逃げて溺れた戦争も武勇伝に変えられてその後の戦争のモデルとなったのである。
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