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戦争の歴史 [歴史全般]

歴史は言うまでもなく戦争だらけではあるが、いったいどのようにして戦争が生まれたのだろうか。ものごとには全て始まりと終わりがある。ならば戦争の存在が終わることはあるのだろうか。戦争が終わるとすればどのようになくなるのだろうか。戦争の歴史を少しつぶさに見てみよう。

もちろん戦争の始まりは喧嘩であっただろう。話は単純で腕力の強いものが勝つ。これが喧嘩の常識だ。しかし、単に自分の腕力だけに頼らず、助っ人をかき集めるというやからが現れると、当事者自身の腕力よりも、いかに多くの助っ人を用意できるかが喧嘩の決め手になった。喧嘩はだんだんと規模を拡大して行った。

槍や刀などの武器が発達すると、腕力というよりも、こうした武器の数、武器を使う人数が重要となり、ますます多くの人を巻き込んだ、大規模な喧嘩が行なわれるようになった。こうなると喧嘩には、政治的要素が入ってくる。喧嘩の首謀者には、多くを従わせる統率力、喧嘩の正義を確信させる弁舌のさわやかさが、重要になってくる。武器の使用により、争いには必ず死人がでることにもなった。こうして生まれた「政治と結びついた多くの死傷者を出す喧嘩」が戦争である。ただの大喧嘩ではない。

喧嘩の原因には様々なものがあった。宗教とか民族の対立は現代にも残された紛争の原因ではあるが、これを直ちに戦争に結びつけるのは早計である。仏教と神道のように共存できたものもあるし、多様な民族が交じり合って暮らしている例は多い。紛争の原因と戦争の発生は別物である。あらゆる利害の不一致が戦争の原因となった。

人類が一人一票などと言う決定方法を思いついたのは、まだずっと先のことである。古くは、相互に利害が異なる物事を決着するには、専ら神の御宣託が用いられていた。しかし、次第に変化が始まり、人類は物事を巫女の言葉よりも戦争で決着することを好むようになっていった。とりわけ、どちらに政治力があるかを如実に示すことが重要な、王位をめぐる争いには、戦争が有力な解決方法となった。社会の発展とともに戦争の規模は、どんどん大きくなっていった。

しかしながら、助っ人の数には実は限りがあった。大声で指揮しても、声の届く範囲は限られている。第一、助っ人を頼むといった戦争の準備にも話し合いが必要だった。オルグ活動、日頃からの付き合いには、もちろん限りがある。戦争の規模にはおのずと限りがあったため、日本では奈良・平安時代の戦争は言って見れば小競り合いの積み重ねであり、勝負がつくには長い年月がかかった。まだ戦争は万能ではなく、大化の改新のように、政治決着には、戦争よりもむしろテロが有効だったことも多い。

戦争の規模のさらなる拡大は、朝廷子飼いの武人では無く、新興勢力である武士によって行われた。御恩と奉公の主従関係でしっかりと結ばれた独特の倫理観を共有しており、理由を問わず主君の戦闘に無条件で参加するのであるから、オルグ活動に時間が要らない。こうして武士の登場により小競り合いの積み重ねではなく、一気に勝敗を決める大軍勢の「合戦」というものが可能になった。戦争は政治対立のさらに有効な決着方法となったのである。神様のお告げは完全に問題解決の手段からははずれた。

この時代に特徴的なことは、数ではなく、超人的な豪傑を獲得することが戦争の決め手であったことだ。豪傑を何人かで取り囲んでも、最初に踏み込んだ一人は必ず殺される。誰しも殺されたくないので踏み込まない。だから烏合の衆よりも強い一人の豪傑が有用だったのだ。豪傑としても、自分の戦闘ぶりを主君にしっかりと認識してもらう必要があったので、戦場では大声で名を名乗り一対一で対戦することが多かった。豪傑が倒されればあとは散を乱して逃げ出すと言う事が多かったようだ。

雑兵と呼ばれる狩り出された農民の役割は、戦闘よりも、むしろ武将のための馬の世話や食料、武器の運搬に終始していた。雑兵が武将を倒すと言うことはあまり無かった。装備が格段に違うし、食い物も違う。馬の後を追って戦場に走るだけでへとへとになるし、最初から戦意などないからだ。この時代の戦争は、武士たちの争いであり、もちろん、とばっちりを食うことはあったが、一般人は傍観者でも有り得た。

劉備も曹操も頼朝も、戦国の武将は全て豪傑を召抱えたがった。しかし、世界史的に見れば、こういった豪傑主義よりも、集団戦術のほうが強力であることは明らかだ。ローマでは、軽量で鋭い鉄製の武器が出来るようになる段階で、次第に集団戦法が生み出されるようになった。文化的にも文書指示が普及して、歩兵の集団訓練が出来たからだ。武器さえよければ特に超人である必要はない。ローマの歩兵軍団は、相手がどんな豪傑であろうとも長い槍で一気に集団でぶつかる戦術を取り、圧倒的な強さを見せた。

日本で最初に集団戦術を取り入れたのは、武田の騎馬隊であるとされているが、これは怪しい。世界では騎馬が戦力の決め手となったが、日本馬は背も低く蹄鉄も無かったし、舌鐙では戦闘的な乗廻しは難しい。むしろ騎馬の武将の指揮のもとに、歩兵が長槍を戦闘に突撃したと言うのが実際だろう。戦国時代の末になるとこのような集団戦術が徐々に普及した。徴兵された雑兵の活用であるが、まだ十分な威力を持つものではなかった。織田信長の強さは、雑兵の位置づけを変え、刈り集めの百姓動員ではなく、常備兵力として集団訓練したことによる。

集団戦術を決定的にしたのは鉄砲の登場であった。弾込めに時間がかかり、発射も不安定だったが、集団に組織すれば一斉射撃でどんな豪傑も殺傷することが出来た。当時の鉄砲の射程は数十メートルで弾込めに2,3分かかったので、例え三段撃ちを行ったとしても効果があったのは緒戦の一斉射撃だけであっただろう。しかしいきなり多数の武将を戦死させられては相手側の打撃は大きい。鉄砲の過多が戦争の勝敗を決めるようになっていった。こうなってくると鎧や兜は役に立たず、むしろ機敏な動きを妨げるだけのものとなる。豪傑の活躍する場も無くなってしまった。徴兵され戦争に巻き込まれる人は格段に増えた。

世界では鉄砲の発達とともにますます集団戦術が発達し、銃撃部隊が戦争の中心になり、戦争は政治問題の唯一の解決手段として定着した。戦勝国は賠償金を取り、領土・資源を獲得し、国民生活は豊かにもなった。国民戦争と言われる概念が生まれ、一般の人々も戦争に巻き込まれることになった。国民全体を動員することに成功したナポレオンの強さは、傭兵に頼る王国軍を圧倒した。政治はすなわち戦争であるという時代になったし、人々にとって戦争に参加することは生きた証であり、美徳とさえなった。正々堂々と戦って勝利することが正義とされたのである。市民生活においても決闘が紛争解決の正式手段とされた。しかし、日本では徳川300年の太平時代となり、さらなる戦争の発達は無かった。

幕末の戊辰戦争を経て、日本でも戦争の仕方は大きく変わり、西南戦争では徴兵された歩兵による銃撃戦が士族の抜刀隊を圧倒した。世界からは遅れたが、日本もたちまち戦争の世界に飛び込んで行き、一番遅くまで戦争の世界にしがみくことになった。時代は戦争万能の時代であり、物事を最終的に決着させるには戦争によるほかない。平和は戦争によってのみもたらされると多くの人が信じていた。

西洋諸国から学んだのは散兵狙撃と密集突撃の戦術である。特に後者は大日本帝国の殆ど唯一の戦術として用いられて行く。前方に展開する敵に対して、縦列のまま密集して一斉突撃する。もちろん、先頭の何人かは撃たれるが大部分は敵陣に踊りこむことが出来る。これには一種の心理戦が含まれ、勇敢に素早く進むほど損害は少なく、躊躇があるほど損害が大きくなる。突撃されて浮き足立てばもちろん命中率も下がるので、思い切って突撃すれば先頭にさえ被害が無いことも多かった。日清戦争は大日本帝国がこの突撃戦術に確信を持つ根拠になった。以来、帝国陸軍の根幹は戦争の技術ではなく「必勝の信念」に置かれるようになった。

鉄砲の出現で鎧兜が役に立たなくなったのと同様に、大砲の出現は城壁をも無用にした。やわらかい地面に穴を掘った塹壕のほうが砲撃から身を隠すには適することがわかった。塹壕陣地の登場である。日露戦争では機関銃が登場し、もはや歩兵の突撃では突破できないほどの速射が行われるようになった。日本軍は犠牲を増やすことでこれに対処し、多くの戦死者を出しながらかろうじて勝った。勝ったことで学ぶチャンスを逸してしまった。日露戦争を見学した欧米各国では早急に軍備を転換し、第一次世界大戦では塹壕を掘って縦深陣地を構築し、機関銃を装備してマジノ線など互いに突破できない防衛線を築いた。戦場はどちらも攻撃できない膠着状態を生じた。ものごとの決着をつける手段としての戦争は万能ではなくなって来たともいえる。防衛のための軍備という概念はこの時代の産物である。

この当時から、あまりにも多くの死傷者を出す戦争に対する疑念が起こって来た。もはや戦争の勝利が無条件の正義ではなくなってきた。理想論として戦争の廃絶が言われだし、パリ条約や国際連盟の結成が行われた。一方で、資本主義の発達により、植民地を獲得することが先進国の宿命であると考えられ、帝国主義国間の争いは、戦争によるほか解決の手段がないとも考えられるようになった。戦争が、政治問題の最終解決手段であるとの認識は依然として維持されたのであるから、平和は理想論に過ぎなかった。

第一次世界大戦で導入された塹壕陣地による防衛戦も突破できないわけではなく、迫撃砲による近接砲撃で機関銃座を一つ一つ潰して行き、最後に歩兵が突撃するという方法が有効だった。しかし、砲弾を大量消費する迫撃砲攻撃は補給が大問題で、兵站を無視した日本軍では十分に行われず、損害を無視した突撃が相変わらず繰り返された。もっと有効な戦術は戦車による制圧である。戦車による攻撃が登場すると、突破できない防衛線は無くなってしまった。戦争の仕方は、またもやすっかり変わってしまったのである。しかし日本は、旧態依然とした「必勝の信念」による突撃にたよるままだった。

野戦で戦車がいかに力を発揮するかは、ノモンハンでのソ連軍との衝突で惨々思い知らされたのだが、このことは終戦まで秘匿された。国家分裂状態の中国軍との戦闘では突撃戦術がまだ有効だったが、強国との戦争にそんなものが通じるわけがない。太平洋戦争でアメリカと日本の歩兵の激突は一回も無かった。ガダルカナルでは一方的に歩兵の突撃を繰り返したが、ただ戦死者を増やすばかりで何の成果もなかった。

さらに大きな変化をもたらしたのは、航空機の参入である。大量の航空機による戦闘部隊ができると、海戦でも陸戦でも航空機による攻撃が決め手となった。真珠湾で米空母を破壊できなかったことで、すでに日本海軍の敗北は決定的だった。航空機による都市空襲が行われるようになると、兵士たちだけでなく、一般市民にも被害を拡大し、多くの一般人が戦争で死亡するようになった。

陸上戦闘は、航空機と戦車で決着が着く時代になった。徹底した爆撃のあと、戦車に先導されて上陸する歩兵の役割は残敵掃討だけである。アメリカ軍にもパラオや硫黄島で戦死者が多数出ているが、これは指揮官の作戦ミスに過ぎない。残敵を過少評価して、戦車を十分配備せずに歩兵を上陸させてしまったのだ。戦車も航空機もない状態で、勝つ見込みもなく戦わされた日本軍兵士はまさに犬死であったが、アメリカ兵も死ななくて良い所で多く死んだことになる。これらの戦闘に学んで沖縄では十分な配備を行なったので、もはや米軍は上陸で大きな損失を出すこともなくなった。

このように歴史を一貫して戦争は進化してきた。逆に言えば、戦争は決して永久不変なものではなく、政治問題の解決手段として有効であったから、発達したものでしかないことがわかる。現代における戦争も、この観点で見直す必要がある。政治問題の解決手段として有効でなくなった時には、もはや戦争の必然性がなくなるのだ。

今の大国間の全面戦争では核ミサイルで全て決着が着く。しかし、核兵器の使用は世界の批判を浴びて政治的には損失が大きく、実際には使えない。政治的批判が大きく高まってしまえば政治目的は達成できないのだから、核兵器には政治問題の解決能力が無いのだ。それでは通常兵器のミサイルが有効であるかというと、そうでもない。高度に発達したミサイルは、標的よりも値段が高いと言う矛盾に突きあたる。戦争は大きな転換点に行き着いた。

航空機とミサイルで全て決着がつく時代の戦争というものは余りに戦費が高くつく。ミサイルや核兵器などは維持管理だけでも、とんでもない財政負担になる。戦争は武器の発達を促し、武器の発達とともにその規模を拡大してきた。その武器が、実際には使えないほど発達してしまったということだ。戦争への参加範囲も拡大し、一般市民を必ず巻き込むので、周到な世論誘導がなければ、戦争を始められない。これもたやすくは無い。

日本は日清戦争で戦費をはるかに上回る賠償金をせしめて、それが製鉄所建設などの工業化の源泉になったのだが、戦費を上回るような賠償金を取るなどということは、もはや出来ない。戦争は、勝っても負けても大きな負担になることが明らかになった。徴兵も容易でなくなり、戦死者家族に対する補償なども大きな財政負担になる。多くの問題を一挙に解決する手段として際立っていた戦争の有効性は失われてしまった。戦争には、政治問題の解決手段としての能力がなくなったのである。

この70年、大国どうしの全面戦争は一度も起きていない。もちろん地域紛争のようなものは続いているが、雌雄を決する対決は無かった。戦争を始めるより、なんとか折り合いをつけたほうが安上がりに決まっているからだ。弱小国への侵略でさえ、結局採算が合わずにアメリカはベトナムから撤退した。大国による小国支配は残っているが、採算性が高い、巧妙な方法に転換している。多国籍企業による資本提携やマスコミ支配といったやり方だ。

こう考えると、今各国にある軍備は実は無駄なものであることがわかる。イラクやアフガニスタンで武力は使われているが、問題をこじらせるだけで、政治問題の解決には何等役に立っていない。各国が実際には役に立たない軍備に多額の予算をつぎ込むのは愚の骨頂であり、軍事産業に対する奉仕でしかない。戦争の歴史は、もはや終わったのである。

日本国憲法が戦争を放棄しているのは、決して理想論だけから来るものではない。現実的に歴史的役割を終えた戦争を見放したのである。宗教や民族の対立は依然としてあるが、戦争でそれらが解決するとは誰も思わないだろう。資源が全くない日本にだれが攻め込むものか。日本が資源国に攻め込んだとしても、代償があまりにも大きく、それに見合う利益が得られるはずもない。

しかし、戦争で利益を得る人と犠牲を払う人が別であることから、戦争の危険は全く無くなったわけではない。戦争で利益を得る人が突っ走ることはできる。それでも、多くの人々を戦争に引きずり込むことは、難しくなって来ている。日本国憲法の下で、遅々とした発展ではあるが、人々の意識は高まり、たやすく命を投げ出さないようになって来てはいるからだ。

戦争の現実が見えず、まともな判断ができないバカだけが戦争を煽るが、やがて人類がそれを見破ることは確実である。日本国憲法の先見性は、改めて評価されるだろう。
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