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和気清麻呂 [歴史への旅・貴族の時代]

戦前の歴史教育では、道鏡の悪企みを打ち破り、萬世一系の天皇家を守った忠臣として和気清麻呂の名は欠かすことのできないものだった。具体的にどうやって守ったかというと、「血縁のないものは天皇になれない」という八幡神の「お告げ」を、迫害を恐れず正直に伝えたと言うことであるから、この話自体が神話でしかない。宇佐八幡宮神託事件と言われるものであるが、これでは歴史として扱い様がないから戦後の歴史教科書には名前も出てこない。

しかし、和気清麻呂という人物が実在し、神話的な業績が伝えられるほど大きな働きがあったこともまた事実の反映だろうと思われる。続日本紀には宇佐神宮の神託以外にも何度か和気清麻呂が出てくる。

もともと和気の一族は備前磐梨郡あるいは藤野郡あたりの地方豪族だった。その元をたどれば、おそらく製鉄技術を持って大陸から渡来した一族だっただろう。渡来系として知られる秦氏と近く、また先祖神に鐸石別命とか稚鐸石別命といった石にちなんだ名前が出てくることから推察される。藤野郡の地方豪族は七世紀になって大和族の支配が全国に及ぶとこれに従属して地方官となって行った。国司は中央から派遣されるが、郡司は土着の豪族に与えられた地位である。平城京が出来て律令制が整って来ると地方官はその子女を釆女あるいは衛士として都に送ることが義務付けられた。磐梨別乎麻呂の娘、広虫とその弟清麻呂が都に出仕したのは七五〇年頃のことだ。

大和の国は豪族の連合体から天皇家を中心とする統一国家への変貌を見せており、行政を担当する官僚の出現が必要だった。それまでは、蘇我、物部といった有力豪族の連合体で出来ていた政権を大和朝廷が単独で支配するようになり、独自の政策を、有力部族に頼らずとも隅々まで行き渡らせることが出来る機構が生まれていた。しかし、そういった機構の実質は権力を持った有力者が握り、政争が繰り返されることになった。藤原不比等、長屋王、藤原四兄弟、橘諸兄、そして藤原仲麻呂と、目まぐるしい政権の変遷があった。奈良時代というのは皇位をめぐって大和族内での争いが絶えず、血を血で洗う内紛の連続だった。十七条憲法も律令も、下々に与えられた法であり、天皇や有力者を規制する条項は何も無いのだから止むを得ない。

清麻呂が出仕して登用されたのは兵衛という警備担当の下級職で従八位下の位階だったはずだ。年季があければ国に帰ることも出来たのだが、姉弟は都に残った。文書が巧みだったので、おそらく当番表の作成とか見回り計画の設定とかの、計画管理の手腕を認められたのだろう。当時、読み書きのできる人はそう多くなかった。文章力、企画力が評価され、七六五年には従六位になっている。従六位は少佐であり、衛士から番長、少志、大志、少尉、大尉を経なければならない。四年に一度の進級試験があったのだが、全部合格したとしても本来ならここまでで二〇年かかるはずだ。それを一五年で駆け上がったのだから異例の出世ではある。中国の制度をまねていたが、科挙ほど厳格なものではなかったようだ。高官の師弟でないものは、清麻呂のように従八位から試験で進級しなければならなかったのだが、高官の師弟はもっと上位から始められる隠位の制があり、地位は世襲的側面も含まれていた。

清麻呂の場合も、孝謙天皇のお側付きとなった姉広虫の引きがあったことは十分伺える。女官の場合、位階を世襲できないのだが、試験制度はなく、気に入られれば役割りに合わせて位階が上がり、弟への配慮を天皇に頼むことも出来たはずだ。孝謙天皇も、藤原仲麻呂の傀儡から離脱し、自分なりの政治を進めるために子飼いの官僚を必要としていた。藤原仲麻呂の乱があって、その後の混乱を治めるには有能な官僚が役立ったから、このときの貢献も大きかったと思われる。それまで藤野別真人清麻呂などと呼ばれていたはずだが、このころから和気宿禰清麻呂を名乗るようになっている。

孝謙天皇は女帝であり、草壁皇子の皇統を次代に引き継ぐ使命を帯びて即位したのだが、未婚で自分には子孫がおらず、見通しが立たなかった。相次ぐ内紛・粛清で継承権者も枯渇し、天武系列は自滅しかかっていた。血を血で洗う抗争にも疲れ、仏教への傾斜を強めていたところに現れた道鏡を重んじるようになった。藤原仲麻呂の指図で淳仁天皇に譲位をして上皇となっていたが、これにも不満を持っていたのだろう。仲麻呂を追放して自ら重祚して称徳天皇に返り咲いた。しかし、皇太子を選任できない状況は変わらず、皇位承継への展望を失った称徳天皇は、日本をチベットのような祭政一致の仏教国として行くことを思いついた。

一方で留学生や識者の間では唐に習った専制国家としていく方向が模索されていた。世襲権力を無色の官僚が支えて行くという形態だ。宗教国家か専制国家か、この分岐点に立ち、祭政一致の実現を拒否する矢面に立ったのが清麻呂だったのではないだろうか。

称徳天皇自身は仏教に帰衣し、天皇でありながら道鏡を師とする出家の身であった。しかし、国全体としては、チベットのようには宗教化しておらず、皇位をめぐって、新たな政争の元になるのは明らかだった。抵抗が強く、そう簡単に宗教国家に進むことは出来ない。「道鏡を皇位につければ天下泰平」と言う宇佐八幡宮の神託というのは、これを進めるための方策の一つだっただろう。この神託を確認する任務が清麻呂に与えられた。この出発を前に、清麻呂は従五位下に進級し、貴族の中に入ることになった。六位までは地下と言われる一般人である。広虫は常に天皇の身辺にあったし、孝謙上皇とともに出家したりしている。称徳天皇は清麻呂を協力者とみなしていたように思われる。

宇佐八幡宮の神託を確かめに行けとは、どういうことだったのだろうか。宇佐に行っても八幡神に会えるわけがない。巫女の口から出てくる言葉は同じはずだ。称徳天皇は、清麻呂の報告を皇位禅譲に官僚たちを同意させる儀式として演出するつもりだったのではないだろうか。清麻呂は出発までにかなりの時間を取っている。この間、周囲の官僚たちとの議論を繰り返し、重大な結論を出したに違いない。なにくわぬ顔で出発して、八幡神のお告げとしての報告で、祭政一致路線を挫折させたのである。

八幡神と対話してきたなどといい加減なことを言うな、とはいえない。対話を命じたのは天皇なのである。自らの策略を逆手に取られた称徳天皇の怒りを買い、清麻呂は大隈に流された。この時の称徳天皇の宣命は、感情的な怒りに満ちたものであり、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)、別部広虫売などと改名させたりもしている。しかし、抵抗の大きさを思い知らされ、祭政一致自体はあきらめざるを得なかった。やがて称徳天皇の死去で、祭政一致路線は自滅した。日本にはそれほどに根付いた宗教基盤がなかったから所詮無理な体制だったと言うことだろう。称徳天皇が後継者を決められなかったことから、皇統は天智系の光仁天皇に移った。

清麻呂は中央に復活する。しかし、天皇家を守った功労者という評価が当時からあったわけではなさそうだ。従五位に戻されたが、十年後の七八一年、桓武天皇が即位して、従四位下に進級するまで官位は据え置かれている。道鏡も下野薬師寺別当に左遷はされたが、処罰されたわけでもなく、道鏡事件の真相については謎が残る。とりわけ、最初に神託を持ち込んだ習宜阿曾麻呂がその後多島守そして日向守に栄転していることなどは、事件そのものが道鏡追い落としのために仕組まれた罠だったという説を生み出している。

桓武天皇は母親が渡来氏族であったため、皇位継承者とは見なされず、大学頭などの官職についており、清麻呂とは同僚といった関係にあった。父親の白壁王が光仁天皇となり、皇后井上内親王が廃されることで、予期せず即位することになってしまった。陪臣が必要となった桓武天皇は、かねてその力量を知っていた清麻呂を登用することにした。

桓武天皇の信任を得た高官としての、清麻呂の活躍はむしろここから始まる。播磨・備前の国司となり行政手腕を発揮した。具体的に何を整備したかは記録が明らかでないが、藤野郡は和気郡と改められたのだから、多いに功労があったのだろう。

七八六年には従四位上で摂津太夫・民部卿となり、神崎川と淀川を直結させる工事を達成した。奈良の都は大和川の堆積が進み、下流の河内湖へ淀川水系の水が流入することによる氾濫が日常的となっていた。淀川水系の水を大阪湾に流すことで、大和川の逆流を防いだのだが、同時に淀川水系を使った物流路を作ることにもなり、後の長岡京、平安京の造営への布石ともなった。

七八八年には、上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうとしたがこれは失敗している。九〇〇年後、中甚兵衛の新大和川工事が行われたのと同じルートであるから目の付け所は良かったが、当時の技術に台地の岩盤は固すぎたのである。しかし、むしろ延べ二三万人を投じた大工事撤収の手際よさに着目すべきだろう。こういった工事は、政策担当者の意地で長引いて、政権の崩壊要因となったりするのが普通だからだ。清麻呂の見極めは的確だった。あくまでも冷静な計画判断力が発揮できる人物だったのだ。

奈良仏教の悪弊も有り、部族政治の呪縛が続くだけでなく、流水事情が悪くなった奈良は疫病にも悩んでいた。なんらかの解決策が必要であり、その一つとして、長岡京への遷都が検討されていた。淀川の物流も使えるようになり、難波宮の資材を長岡京の造営に再利用するといったアイデアも清麻呂が提案したものだと言われている。こうした長岡京造営への実務上の効労が桓武天皇の信頼を高めていった。

河川工事で学んだことは大きく、これをもとに長岡京の建設を中止して平安京の造営を建議した。平安京は桂川と賀茂川に挟まれ、さらに南には淀川の大きな水流があるので都の中に縦横に流水を巡らすことができる。これなら、大きな人口が張り付いても、疫病に対策に悩むこともないだろう。七九三年には自ら造営太夫となり建設計画を推進し七九四年に平安遷都にこぎつけた。和気朝臣清麻呂の位階も従三位になった。これは皇族でない官僚としては最高位だと言える。

それまでの政治というのは、すべからく権力闘争であり軍事だった。それ以外で功労を挙げた人はいなかったと言っても良い。和気清麻呂には民政という新しい分野を切り拓いたとという独創性がある。最下位から最高位まで民政功労で昇った事跡が後日の神話的な伝説を生み出したのだろう。

備前磐梨から中央政界に踊り出て、世襲貴族の仲間入りをしたかに見えた和気氏も、平安京で藤原氏の天下となってからは、政治的には、あまり出番がなかった。しかし技術的・学術的伝統を保持した家系となり、医学薬学を担当するようになって行った。代々典薬頭などを勤めている。和気種成の「大医習業一巻」が和気医道の集大成だろう。その後、もう一つの医道家系である丹波氏と合流して半井を名乗るようになり、明治になるまで半井医道が将軍家御用、和漢医学の中心であった。本家は半井になって、江戸に移ったが、傍系の和気氏も畿内の医道系で続いたようだ。江戸時代の百科事典「和漢三才図会」の序文は京都の和気仲安が書いている。

現在「和気」という姓は全国に600位あり、畿内全域に少しと、あとは岡山、愛媛、栃木に集中的に存在している。畿内の和気氏は、おそらく半井から外れた傍系の子孫だろう。愛媛の和気氏は讃岐国那珂郡の因支首(いなぎ・おびと)が八六六年に和気公の姓を賜ったことによるもので、清麻呂とは別系統になる。清麻呂が都で初めて和気を名乗ったのであるから、清麻呂が備前の出身であったにせよ、もともと岡山に和気を名乗る一族があったわけではない。岡山県和気郡には和気町もあるが、ここには「和気」を名乗る人はいない。

しかし、清麻呂の系統から、平安末期に武士となり、備中で帰農した一族があり、寛永年間に児島湾の干拓を始めた和気與左衛門が知られている。児島湾は当事、倉敷。松島村あたりまで入り込んでいた。弟の六右衛門清照は備中高松城付近に広がっていた沼地の干拓を行った。岡山の和気氏は彼らの子孫と考えられ、松島村と高松村にその系図が残っている。

栃木県の和気氏は「ワキ」と読み、塩谷郡の高原山麓に分布している。玉生村に系図があるが、これによれば清麻呂の子孫、典薬頭和気葉家が、「罪なくして下野国塩谷郡に流さる」ということが栃木和気氏の祖ということである。代々高原山神社の神官を務めているので、親族だけでなく、氏子へも苗字分けして広まったかも知れない。現在栃木県が「和気」姓の最も多い県となっている。
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