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ヤマト王権の成立は七世紀 [歴史への旅・古代]

考古学的検討と中国文献から、日本の古代は、海峡国家から北九州へと発展したことがわかる。そうすると、卑弥呼の邪馬台国が九州にあったことも確実ではあるが、ここからヤマト王権による統一国家への過程がまだ解明されていない。九州王朝説では「磐井の乱」がヤマトの制覇であるとしているし、「壬申の乱」が王朝交代だと言う説もある。

しかし、二王朝の対決といった構図を確認するにはには、あまりにも痕跡が少ない。これが邪馬台国九州説の弱点だと言える。武器の発達も十分ではないし、文字がなくては統制のとれた軍事組織も作れない。この時代の戦争は、小競り合いの連続のようなものにならざるを得ない。決着には長い年月がかかり、したがって大きな痕跡が残るはずだ。二大王朝の対決には無理がある。

日本の王権が王朝などと言える確固としたものになるのはもっと後代のことだと考えるべきだ。小国の分立が続いたが、これらの小国は時には争いもしただろうが、基本的には共存が続いた。これは銅鉄の流通があったことから演繹される。それが、徐々に一つの王朝にまとまっていったのである。

4世紀に騎馬民族が流入すると砂鉄を使った鉄の精錬が始まった。金属が国産化されると、海峡国家の必然性が失せていった。大きな平野があり水源の得やすい畿内の生産力が高まっていったのは当然だろう。古墳文化が発展し、九州をしのぐようになっていったが、どちらもまだ王朝と呼べるような強固なものではなく、したがって対決的な大戦争は起きない。古墳は大和に多いが、実は全国各地に分布している。大規模古墳も備前に多かったりするので、ヤマト王権が全国を支配していたことを示すものではない。この当時の王権がどのようなものであったかは、万葉集からもうかがえる。

万葉集の一番目の歌:
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籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも
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籠(かご)よ 美しい籠を持ち 箆(ヘラ)よ 美しい箆を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ きみはどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? この、そらみつ大和の国は、すべて僕が治めているんだよ 僕こそ名乗ろう 家柄も名も
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これが本当に雄略天皇の歌であるかどうかは疑問があるのだが、天皇が一人で畑に出かけ、女の子に声をかけている。大和全域を治めているのは自分であると自己紹介しなければならない。5世紀の王権とはこの程度のものだったのだ。日本全国と言わず大和と言ってもいるのも注意点だ。

日本書紀の592年には蘇我馬子が崇峻天皇を殺害した記事があるが、特に大事件にはなっていない。後には全国を支配し、特別な家系とされる天皇家ではあるが、この時点ではまだ数ある有力豪族のひとつにすぎず。たまには部族間の争いで殺されることもあったことになる。6世紀の王権はまだこんなものだった。

日本書紀は8世紀になって書かれたものであるから、崇峻を天皇などとしており、馬子は家臣ということになっているが、実際にはヤマトにいくつもの部族があり、そのうちの有力なものが大王と名乗ったに過ぎない。万世一系は日本書紀がこれらを結び付けた後付けのつながりである。だからあちこちに齟齬が生まれる。

崇峻天皇が殺されたあとも不可解な経緯が続く。女帝となる経緯も定かではない。先々代の天皇の妻でもあり妹でもあった、額田部皇女(39)、すなわち推古天皇である。これも蘇我馬子の指図によるものだ。天皇家を上回る権力を持っていた蘇我氏が臣下であったと言うことがむしろ疑わしい。

推古天皇の死後、皇位についたのは孫の田村皇子(35)で舒明天皇になった。蘇我氏の統領は蝦夷である。どういうわけか舒明天皇(37)は若くもないバツイチ女、寶女王(37)を皇后にする。10年後、舒明天皇(48)が死んだときに、子である古人大兄皇子に継がせず、寶女王(48)が皇極天皇となった。

645年に乙巳の変が起こり、テロで蘇我入鹿を殺した。皇太子であり、次期天皇が見えている中大兄皇子がテロを行う必然性は見られない。蘇我に代わり、どこからとも知れず現れた藤原鎌足が指図するようになった。大化の改新といったものが行われたとするが、内容的にはこの時代のものではあり得ず、書記は正直な記載をしていないことがはっきりしている。

寶女王は退位させられ、弟の軽皇子が孝徳天皇(49)になった。現職の天皇が退位するなどと言うことは前代未聞だ。この間の事情はもちろん伏せられている。孝徳天皇には有間皇子という跡継ぎがいたのだが、中大兄皇子(29)が皇太子になった。孝徳天皇は傀儡であり中大兄皇子が実権を握ったと言うことだ。

中大兄は歴代天皇が都した飛鳥から難波に都を移させたのだが、何を思ったのか、またすぐに飛鳥に戻ってしまった。実際に何が起こったのかよくわからないが、中大兄皇子が役人全部、天皇の妃まで引き連れて飛鳥にもどったので孝徳天皇は置き去りである。万世一系、天皇が支配しているなどという描像とは全く合わない。

10年で孝徳天皇(59)が死んだが、皇太子は即位せず寶女王(62)が再び皇位につき、斉明天皇となった。皇太子と言うのは正式に予定された次期天皇であるはずだ。「そのほうがやりやすかった」ですむ話ではない。天皇になることを辞退したはずの中大兄皇子(39)が、また皇太子になった。これも前代未聞であり、いかにも奇妙な人事だ。

中大兄皇子は日本書紀を見る限り対外政策に熱心なのだが、562年に任那日本府が滅びても何の対策も取っていない。660年に百済が滅びた時にも知らん顔をしている。むしろ唐との接触に熱心で、皇太子時代に4回にわたって遣唐使を派遣している。ところが、百済遺臣が反乱を起こしてから支援で唐とは対立関係に入る。政策に何の脈絡もない。

朝鮮半島に出兵したことになっているが、指揮を執っているのが下級官吏だったり、のんびりと湯治しながら九州に行ったりで現実性が薄い。戦闘記述も他人事のようである。白村江で大敗北を喫したにもかかわれず、中大兄は責任を取らずに称制し、さらに即位する。日本書紀の記述が、まともな合理性を持つのは天武期になってからである。7世紀以前から朝廷が確立していたことを前提にする記述は悉く合理性がない。

実際には九州にも大和にも小国が分立し、有力なものが大王を名乗ったりすることが6世紀まで続いた。7世紀には徐々に、富を集中させたヤマトに政権を収斂させて行った。この過程を合理化するためのストーリーが形作られ神話となっていった。出雲の豪族に配慮して国産みの神話を作り、九州の部族とは、神武東征でつながりをつけ、最終的には日本書紀という形で統一国家への合意をしていったのである。

日本書紀はある意味で、各部族が合意した統一国家への合併協定である。もちろんこの間、違った歴史を主張する部族もあったが、それは強制的に統合された。日本書紀が編纂される少し前708年の大赦で禁書を所持していたものは大赦の対象から外すという記事がある。書記とは異なる歴史書もあり、異論を唱えて「挾藏禁書」の罪に問われた人が実際にいたということだ。これも6世紀にはまだ単一王権による支配は完成していないことを示す根拠である。

各地の部族が折り合いを付けて、ヤマト王権を統一国家の王権と認めるようになったのは日本書紀の編纂される少し前、天武がヤマト族の覇者となり、初めて天皇を名乗り出した頃と言うことになるから7世紀である。日本書紀がすべてフィクションだというわけではない。文字が使われ出してからは断片的な記録はあったはずだ。しかし、そのつなぎ合わせが作為の結果だ。継体を五代の皇孫としたり、天武を天智の弟としたりしたのがそれにあたる。

ヤマト王権は5世紀から徐々に発展し、九州や出雲と折り合いをつけて、次第に全国に政権合意を広めていった。その完成は実に7世紀、日本書紀完成の直前である。具体的で詳細な記述に惑わされてはならない。もとになった記録から取ったものであっても、そのつなぎ合わせは政治的合意によるものであり、大王を血縁関係で結んだのは創作である。
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