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古代日本の政変と疫病 [歴史への旅・古代]

医薬の知識が全くなかった時代には病気に対して「おまじない」しか打つ手はなかった。伝染病の被害はことさら大きなものであっただろう。しかし、伝染病はどこからか病原菌が伝わってこなければ蔓延しない。実は原始時代には伝染病は多くなかったのではないかとも思われるのである。

一番古い伝染病は結核で、弥生人の人骨からもカリエスが見いだされる。しかし、縄文人にはこれが見えない。結核は移住してきた弥生人が持ち込んだものだ。伝染病が流行するには条件があり、必ずしも病原体がありさえすれば広がるものではない。結核の発生が多くなったのは、産業革命で劣悪な環境の中での長時間労働に人口が集中したことによるものだ。青空のもと野外で農作業に従事する限り、結核が重大な伝染脅威になることはなかった。

咳逆つまりインフルエンザは渡り鳥が運ぶから、どこへでも飛んでいく。日本にも古くからあったに違いない。日本書紀にも疫病のことは早い時代から何度も出てくる。病名は特定できないが、インフルエンザであったことは十分考えられる。

赤痢が文献に出てくるのは、三代実録の貞観三年(861年)であるが、それ以前から痢というから消化器系の病気で、中に死に至るものがあったからこれは赤痢だろう。上下水道が十分でなかったから、都市に人口が集中すれば当然のごとく発生する。そのため遷都が必要になった。しかし、一気に全国に広まり、人口を左右するような爆発的流行は起こらなかった。

人口を減らすような大流行は14世紀の黒死病(ペスト)が知られている。世界人口を4億5000万人から3億5000万人にまで減少させたほどだが、これはネズミを保菌者としてノミが媒介するものだった。中国に始まり、ヨーロッパで爆発的に増殖して世界中に広がった。しかし、日本は流行を免れた。日本に繁殖していたのはヒトノミであり、ネズミとヒトの両方に寄生するケオプスネズミノミが日本にはいなかったからである。

人から人への空気伝染の場合、動物の生態とはかかわりなく、防ぎようもない広がりを見せる。伝染経路としては国際交流がその発端になる。新たな伝染病がもたらされた場合、免疫が皆無だから爆発的な流行になる。南米のアステカ文明が滅びたのもスペイン人が持ち込んだ痘瘡(天然痘)による人口減少が寄与している。

日本でも、最初に起こった危機的大流行は痘瘡(天然痘)によるものである。それまであった風土病的な伝染病や結核では、爆発的な流行は起こらない。インフルエンザも繰り返されてある程度の免疫下地が形成されている。しかし痘瘡に対する免疫は皆無だった。朝鮮との交流が増えて、仏教伝来と時を同じくして痘瘡が持ち込まれ、日本最初の疫病大流行となった。

『日本書紀』敏達天皇十四年(585年)の記事がによれば、膿疱(できもの)が出来て死ぬものが充ち満ちた(發瘡死者充盈於國)。身を焼かれ打ち砕かれたようになり泣きわめいて死んで行く(身、如被燒被打被摧 啼泣而死)という症状の重さを持った膿疱であることと、致死率の高さからこれは痘瘡であると推定されるのである。

これをめぐって、古来神をあがめず仏教などというものを取り入れるからだとする物部氏と、仏像を焼いたりしたから疫病が流行るのだとする蘇我氏の対立となった。大和政権の成立期における一大政争は悠長な宗教抗争ではない。痘瘡による全滅の危機を感じ、生き残りをかけた争いだったのである。

奈良時代、735年にも大流行があった。流行は九州から始まり(大宰府言。管内諸國疫瘡大發)夏から冬にかけて豌豆瘡(わんずかさ)が流行り、死者を多く出して(自夏至冬。天下患豌豆瘡[俗曰裳瘡]夭死者多)賦役を免除しなければならなかった(五穀不饒。宜免今年田租)と続日本紀は書いている。豆のように盛り上がった瘡だから痘瘡であることに間違いないだろう。一般には裳瘡(もかさ)とも言われていた。

2年後の737年にも再び九州から疫病が流行して農民の多数が死んだ(大宰管内諸国。疫瘡時行。百姓多死)。このときは流行が各地に広がり、平城京でも皇族や政治の実権を握っていた藤原四兄弟が相次いで死ぬという大惨事になった。橘諸兄による政権への移行という転換をもたらした。大流行の2年後には免疫が残っているから、同じ流行が繰り返されるとは考えにくい。疫瘡と言うだけで、豌豆瘡という言葉は使われていないから、これは症状がよく似た麻疹(はしか)であったと考えられる。成人の麻疹は重症化して死亡することも多い。

疫瘡の大流行は平安時代995年にもあって、赤斑瘡(あかもがさ)と表現されている。盛り上がるよりも赤く広がるという特徴に合致するから麻疹である。この時も政権中枢の大混乱をきたした。中納言以上の上達部14人の内8人が死んで藤原道長が一気に政権を握るきっかけとなった。

痘瘡の方が致死率が高く、治ったとしても「あばた面」が残る。麻疹は幼少の時にかかれば軽く済むことも多い。こんなこともあって、痘瘡が最も恐れられた疫病であった。痘瘡には二度かからないことが知られており、軽く患ることで重症を逃れようとする試みはあったが、人痘接種による予防は致死率20%ほどもある危険なものだった。日本でも緒方春朔が試みたりしている。

人間には発症しない牛痘を使って疑似的な毒素で免疫を発現させるという画期的なアイデアで種痘を開発したのはジェンナーであるが、王立学会には認められず、1798年に「牛痘の原因と効果についての研究」を自費出版してこれが普及した。歴史を左右するほどの大病を安全に予防できるようになったと言うのは驚異的な出来事である。1823年に来日したシーボルトによってこの知識は伝えられたが、実際に摂取されたのは1849年にドイツ人医師モーニッケによるものが最初である。痘瘡への関心は非常に高かったから日本での種痘は急速に広まった。日本では1955年以来発生を見ていない。

いまでこそ痘瘡は絶滅した病気だが、日本史においては何度も歴史を動かす決定的な要因として働いたのである。
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