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人間魚雷 回天の悲劇 [歴史への旅・明治以後]

第二次世界大戦中、大日本帝国は人間魚雷回天を使った攻撃を行った。イスラム国同様の自爆兵器である。搭乗員は志願して出撃したのだから、死ぬこと自体は必ずしも本人の意に反することではなかったかもしれない。しかし、全く無駄な死に方をしなければならなかったのは悲劇である。

魚雷は多量の爆薬を積み、一発で巨艦を沈めることができる強力な武器だが命中率が低い。瞬時に敵艦に届くわけではなく、何分後かの敵位置を予測して発射するしかないし、接近を探知すれば急旋回をしたり砲撃をしたりして魚雷を避けることも出来るからだ。もし、人間が操縦しておれば、軌道修正して確実に命中することができる。敵空母の数隻も沈めれば形勢は一挙に逆転する。そういった軍の安易な発想を現実にしてしまったのが回天である。

実際には目論見どおりに行かなかった。148基の回天が出撃したが、99基が母艦とともに沈没したり、整備不良で発進できなかったりした。敵艦に近づいて発進できたのは49基だけで、大きな獲物は捕らえられず、給油艦一隻、揚陸艇一隻、護衛駆逐艦一隻を沈め、数隻を小破しただけに終わった。防衛研究所による計算では命中率は2%であったと言うことだ。

回天は九三式魚雷を人間が操縦できるようにしたものだ。この魚雷はエンジンを空気ではなく純酸素で燃焼させると言う高度な技術を使ったもので、日本が唯一実用化していた。高出力になりしかも航跡ができない。燃料が燃えても水と二酸化炭素ができるだけで、二酸化炭素は水に溶けるから空気の気泡んいよる航跡が発生しないのだ。直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、48ノットで疾走する。

しかし、酸素は少しでも油があると爆発させるし、火が付けば鉄をも燃やしてしまう。取扱いが極めて難しく、船上での整備が難しかった。これが各国が使用をためらった理由なのだが、日本はなんとか実用に持ち込んだと言う。しかし、実際には整備不良による事故も頻繁であった。回天も訓練中にすでに15名の搭乗員が事故死することになったし、母艦から発進できなかったものも多い。

九三式魚雷に操縦席を付けて人間魚雷にすることは実は簡単ではない。魚雷の本体に外筒を被せて一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けなければならない。重量と推進抵抗が増えるので、48ノットであった最高速度は29ノットになってしまった。当時の駆逐艦は35ノットくらいの速度だったので、艦速よりも遅い魚雷ということになってしまう。

外筒の厚みが薄いと水圧に耐えられないが、分厚くすると重量も増える。結局水深80mが限度と言うことになった。これは母艦である潜水艦の行動を大きく制約する。母艦が深く潜れなくなってしまったことで敵艦に近づくことが難しくなってしまったのだ。

多量の爆薬を積みながら小破で終わることが多かったのは、逃げる標的と似たような速度では、「突っ込む」ことにならず、側面接触になるからである。側面接触の場合手動で自爆するがもちろん効果は小さい。このように回天は技術的にすでに無理がある兵器だった。それにも拘わらず出撃させたのである。

速度が遅いため当初は敵基地に侵入して停泊している艦船を狙うものであった。ところが泊地への潜入も極めて難しいと言うことがわかった。小さな船体だから揺れが激しい。潜って視野の狭い潜望鏡を覗いていたのでは、自分の位置すら把握できないし、入り組んだ湾に潜入などできるものではない。真珠湾攻撃の九軍神がすでに特殊潜航艇で失敗を経験している。

航行している敵艦を狙うとすれば、艦砲の届かない位置、20㎞も離れたところから「発射」されなければならない。回天は潜水艦の外側に取り付けられており、一度浮上して乗り込む必要があるからだ。20km離れていると高いマストに登れば見えるが海面位置ではもちろん敵艦は見えない。ジャイロコンパスを頼りに方角を定めて近づいていく。ある所で潜望鏡を上げて敵艦を発見せねばならないのだが、揺れと視野の狭さでこれがなかなか難しい。ぐずぐずしているうちに見つけられて砲撃されて沈没することも多かった。敵側は望楼から何人もで監視しているし、浅く潜ったところで航空機からは丸見えである。

回天は軽量化のため脱出装置を持たず、所定時間を過ぎるとガスが充満し、呼吸できなくなるので一度出撃すればどっちみち死ぬしかない。敵艦を見つけられなかった場合には秘密保持のために自爆する。45分以内に爆発音が聞こえたら攻撃成功と判断したらしい。多くは45分以後の爆発、つまり単なる自殺に終わった。結局、なんとか発進できた49基のうち敵に邂逅できたのは8基だけだし、当初の目論見どおりに突撃できたのは4基に過ぎない。

自分の身を犠牲にして戦ったと言うことになってはいるが、現実には単なる自殺である。これは戦死全般の現実でもある。戦死と言えば鉄砲を打ちまくり、奮闘の挙句に自分も弾に当たって死ぬといったイメージを持つが、現実には、ほとんどの兵士が、一発も弾を撃たず、その前に死んだ。

輸送船の船底に詰め込まれたまま沈んだし、無理な行軍の過労で簡単に病死した。アメリカ軍が上陸前に行った爆撃・砲撃で多数が死んだ。太平洋戦争では餓死が圧倒的に多い。徴兵されて南方に行かされて死んだ兵士140万人のうち実際に一発でも弾を撃ってから死んだ兵士は1%もいない。回天だけが悲劇だったわけではない。

これは太平洋戦争が負け戦であったからではない。終始日本軍が優勢だった日清戦争ですら戦傷死が1417人に対して戦病死が11894人もいる。9割が戦病死だった。戦争に行くということは戦わずして死にに行くと言う事なのだ。戦争とはいかに愚かなものだろうか。戦争は、「やらない方がいい」などと言う程度のものではなく、絶対にやってはならないことだ。



回天による全攻撃成果(出撃148基、発進49基)
1944年11月20日:給油艦ミシシネワ撃沈
11945年7月24日:駆逐艦アンダーヒル撃沈
1945年1月12日:歩兵揚陸艇LCI-600撃沈
1945年1月12日:輸送艦ポンタス・ロス小破
1945年1月12日:弾薬輸送艦マザマ大破
1945年1月12日:戦車揚陸艦LST225小破
1945年7月24日:駆逐艦R・V・ジョンソン小破
1945年7月28日:駆逐艦ロウリー小破
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