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降伏しなかった日本兵 [歴史への旅・明治以後]

8月15日に日本が降伏して第二次世界大戦は終わったとされているが、兵士たちにとって実際に15日で終わったわけではなかった。軍隊組織は温存されており、上官の命令に従わされる状態は続いた。だから中国では多くの日本兵が終戦後も八路軍と戦わされた。南方でもアメリカ軍の捕虜とならず戦い続けさせられた兵士はたくさんいた。15日以後に出撃した特攻隊もあった。兵士にとって終戦は単純なものではなかったのである。

南方戦線のように組織が壊滅したような所でも、投降するのは簡単ではない。いきり立ったゲリラ兵が米軍の制止も聞かず投降者を撃ち殺す事例はいくつもあった。日本軍は手を上げて出てきた敵兵を平気で射殺していた。『生きて虜囚の辱を受けず』という先陣訓は捕虜の扱いの常識となっていた。敵前逃亡として日本軍から撃たれることもある。投降するには相当な決心が要ったのである。

1960年になって、終戦を知らずに隠れていた日本兵が見つかり大きな話題になった。皆川文蔵さんと伊藤正さんはグアム島で15年間の逃亡生活を続けていた。1972年には横井庄一さんが28年目に発見され大いに驚かれた。これらの人々は、人目を避けて密林に隠れていた。終戦に確信が持てなかったし、投降する勇気を出すことも出来なかったのである。

横井さんの「恥ずかしながら戻ってまいりました」という言葉に象徴されるように、密林に隠れていたことを恥とする気持ちが残っていた。的確な情報分析が出来なかったことの現れでもあり、優柔不断だったことを示しているからだ。それでも、こういった人たちの逆境で生きようとする力、そのための創意工夫にはむしろ感銘を受けた人が多かったと思う。馬鹿馬鹿しい戦争に動員され戦後も隠れ続けていたことへの同情もあった。

さらに遅くまで密林から出てこなかったのは30年後に現れた小野田寛郎さんである。しかし、小野田さんの場合は、これまでの人たちとは扱いが違った。任務に忠実を貫き30年間闘い続けた英雄的な軍人という受け止め方だ。当時始まっていた戦争を正当化する右傾化の風潮に合致したからでもあるが、異常な持ちあげられ方をされていた印象がある。密林に隠れ、米軍との戦いを続けていたわけではないのに「戦い続けた」はないだろう。

終戦後もなぜ降伏しなかったのか。小野田さんの手記によれば、残置諜者として遊撃戦指揮の任務を与えられたから、あくまでもゲリラ戦を継続したのだという。第八師団長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。」と言われたそうだ。

しかし、この話はどうもおかしい。戦況劣勢で玉砕覚悟の戦闘を鼓舞する立場の当時の師団長が「玉砕は許さん」などと言うものだろうか。小野田さんは陸軍中野学校を出ていることが強調されるが、実は非常に特殊なスパイ組織といったものではない。情報科は幹候の兵科の一つであり、普通に各部隊に配属されて情報収集を担当する。小野田さんはフィリピンに着任したばかりで、まだ将校に任官もしていない。兵隊としての身分は曹長だ。陸軍中将の師団長が一兵卒と直接面談したりするはずがないではないか。

ゲリラ戦を展開するためなら、別の所に派遣するだろう。ルパング島のような末端の小島にゲリラ戦を継続する戦略価値があるとは考えられない。だから「遊撃指揮の任務」は疑わしい。小野田さんの他にフィリピン派遣軍で「遊撃指揮の任務」を与えられたなどと言う人はだれもいない。ゲリラ戦を展開する命令を受けたと言うのはおそらくウソである。

情報将校は師団司令部から各部隊に派遣される。第八師団はマニラ北東部を担当していたが、配下の独立歩兵第359大隊は第二中隊をマニラ湾の入口にあるミンドロ島に派遣した。ミンドロ島中隊は第二小隊を周辺にある小さな島ルバング島に警備隊として配置した。駆け出しの情報将校に大きな任務を与えたリしない。小野田さんは出先のそのまた出先の警備隊に配属されたのである。ルパング島に派遣された情報将校の任務としてはマニラ湾に襲来する敵の動向を伝えることくらいだ。

ルバング島には歩兵第二小隊(約50名)の他に飛行場隊、航空情報隊がいたがいずれも上級指揮官がいない小部隊だ。小隊長は早川茂紀少尉である。小野田さんが少尉になって1ヶ月、2月28日から米軍の攻撃が始まった。3月1日には米21連隊第1大隊が全く抵抗を受けず無血上陸している。

小野田さんは3月2日に15名の部下とともに上陸米軍に夜襲を試みたが、米軍は一旦海岸線に後退していたので戦闘にはならなかったと言う。3月3日に偵察に出かけたが日暮れで谷底に閉じ込められ、翌日戻った時には早川小隊は壊滅していた。これも怪しい。二人しかいない少尉は指揮官としての任務があり、偵察に出かけたりしないはずだ。米軍は海岸線にいるのだ。どうして谷間に閉じ込められる事態になるのか。

本隊は壊滅しても、手勢を集めて執拗に攻撃するのが日本軍の筋だった。しかし、小野田さんたちは山に籠ったままで、出撃していない。ルバング島では3月4日以後、まったく戦闘はなく、早くも3月19日には米軍に移動命令が出て3月末にはフィリピン人に島をまかせて出て行ってしまった。ゲリラ戦どころか、結局一度も米軍とは戦っていない。戦後ルバング島には港湾とレーダー基地が作られたが、小野田さんは山岳地帯にいてこれには近づいていないから情報収集もやっていないことになる。

終戦直後の帰投勧告で9人が投降、翌年2月に2名、4月に31名が投降した。小野田さんたちは終戦を信じず戦い続けたと言うが、終戦を知らなかったわけではない。4人は最初から孤立していたのではなく、他の兵士たちとの連絡もあった。ではなぜ投降しなかったかと言うと、おそらく戦犯訴追を恐れたのだ。フィリピンでは住民の虐待、略奪が盛んに行われた。投降した兵士も何百人もが戦犯に問われることになった。投降すれば無事に日本に帰れるわけではなかったのである。

略奪や住民虐待、慰安婦強制などに対する罪悪感を持たせない軍隊教育の異常さが問われるのだが、命を捧げる覚悟の皇軍兵士には略奪も強姦も許されるという考え方は日本軍のには一般的だった。現地では多くの兵士が平然と徴発や虐待使役にかかわった。ルバング島に食料の補給などなかったから、日本軍はすべて住民から強奪していたのである。

住民虐待に関して、身に覚えがあると簡単には投降できない、早川小隊の赤津勇一一等兵、島田庄一伍長、小塚金七上等兵が投降の機会を逃し、指揮命令系統にはないのだが少尉である小野田さんがリーダーになった。横井さんたちとの違いは、自給自足ではなく武装して住民から略奪を続けてていたことだ。小野田さんたちが戦った相手は米軍ではなく住民だったのである。

戦後も略奪を続けたから、当然住民の自警を恐れなければならなくなった。閉鎖的な集団を私的に形成していたようにも思われる。赤津さんへの「いじめ」もあり、離脱しようとした赤津さんを何度も連れ戻したりしている。四人は住民から奪い、報復が怖くて隠れていた。住民をドンコー(土人野郎)と呼んで蔑視していたといい、住民を襲うことに罪悪感がなかったようだ。それが帝国陸軍の常態ではあった。小野田さんたちに殺された住民は30人にものぼるというから驚く。

島田さんと小塚さんはフィリピン軍の討伐隊と戦って死んだといっているが、フィリピン軍が討伐隊を出したことは一度もない。ルバング島で演習をした時にいきなり撃たれて応戦しただけの事らしい。小野田さんたちが討伐隊だと勘違いしたのだ。強盗・殺人は兵士であろうと許されるものではない。討伐されるだけのことはやっていたからだ。

人間は元来保守的な生き物だ。略奪で食物を奪い、密林で野宿する。そんな毎日を続けていると、それに慣れてきてそこに安住してしまう。横井さんのように栄養失調になったりせず血色も良かった。生活のパターンを崩せず、さらさらと水が流れるように30年間が過ぎて行ったのではないだろうか。途中でグループを抜けた赤津さんへの憎悪の激しさも、こうした日常からの離別に対する抵抗から来るものだ。

小野田さんたちがルバング島に潜んでいることは、発見の何年も前から話題になっていた。臆を超える多大な予算を組んで日本から捜索隊が送られた。マスコミの報道は完全に先走っていた。小野田さんが出てこないのは命令に忠実だからだという憶測で全ての記事が書かれるようになった。どうもこれは外務省に誘導されたものらしい。小野田さんの発見は戦後の総決算という意味合いが込められ出したのだ。マルコス政権と日本外務省の間で戦後補償の落としどころが模索されていた。

捜索隊の呼びかけに答えなかったことに対して、上司の命令がいるのではないかといった事が新聞記事で言われ、第八師団情報部の谷口義美元少佐が捜索隊に加わったりした。しかし小野田さんは谷口少佐の部下ではなく面識もほとんどないはずだ。小野田さんの上司は第二中隊長の塩野中尉だし、その上は大隊長大藪富雄少佐のはずだから谷口さんは直属の上司でも何でもない。

小野田さんは終戦は信じなかったと繰り返している。しかし、作家の山田順さんが少年時代に風呂で背中を流しながら尋ねた時には、終戦を知っていたと答えている。たぶん知っていただろう。島民から強奪したのは食料だけではない。トランジスタラジオを手に入れて、日本のニュースは全部知っていた。新聞を読んで日本でオリンピックがあったことも、万国博のことも知っていた。

小塚さんが死んで以来、現実世界への復帰を考えるようになった。情勢の変化にともない、戦犯訴追を受けずに帰国できる可能性を感じたのだ。当時のフィリピンはマルコスの独裁政権で、日本からの円借款で経済を立ち上げようとしていた。どうしても日比友好を謳わねばならなかった。上からの命令にあくまでも忠実は独裁政権の求める人間像でもあった。マルコスは一切の罪を免除すると声明した。もちろんその陰には日本外務省との裏交渉がある。この情報が小野田さんが出てくるきっかけになったのは言うまでもない。

小野田帰還には多くの演出がある。良く知られている小野田さん発見当時の敬礼写真などは、当日の写真が失敗で、翌日もう一度軍服を着て撮り直したものだ。横井さんの復帰も知っていたから、そのやり方も十分に検討したものだとうかがえる。谷口元少佐からの命令伝達を要求したのも新聞記事がヒントになったからだ。谷口さんは捜索隊の一員として新聞にも名前がでていて小野田さんはこれを知っていた。

しかし、この演出は小野田さんが一人で考えたものではない。帰国後4か月で手記を書いているが、もちろん30年も文字を書いていない人にそんなことができるはずがない。ゴーストライターがいたことは公然の秘密だ。その二ヶ月後にはブラジルに移住した。手記の内容には数々の矛盾があったが、これでそれを追及されることが無くなった。一連の動きを誰かが仕組んだ事は間違いがない。

小野田さんの利用は計画されたものだ。後年、再び帰国した時には日本会議に参加し、「従軍慰安婦はいなかった」「慰安所は饅頭を食べさせるところだと思っていた」などと白々しいウソを発言している。帰国前後にはすでにつながりが出来テいたことがわかる。「残置諜者」、「命令に忠実な兵士」などは、実はマルコスと日本政府・右派勢力が作り上げた虚構のストーリーなのである。
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731部隊とHIV感染 [歴史への旅・明治以後]

日本でのHIV感染・エイズは血液製剤から始まった。血友病患者に投与した血液製剤にHIVウイルスが含まれていたからだ。危険を知りながら売り続けたミドリ十字という会社の悪質性が問われ、さらにこの会社に731部隊関係者が多かったことが知られている。人体実験をいとわない残虐性から、さもありなんと思われるのだが、どういった経緯で731部隊がHIV感染を引き起こす血液製剤に結び付いたかは、あまり語られていない。ミドリ十字に731部隊関係者が多かったのは偶然ではない。

戦争での兵力の損傷は敵の弾に当たるだけではない。日清戦争の統計が明らかにされているが、戦死1417名に対して戦病死が11894名もある。体力を消耗した状態で伝染病に罹患することが多かったからだ。伝染病は敵の弾より怖かった。だから清涼な飲料水を確保して防疫に勤めることは作戦上きわめて重要なことであった。そのために軍隊には軍医部とは別に防疫給水部が置かれた。

陸軍は20余の師団の集まりを方面軍としてまとめ、そこに軍医部とか情報部とかいった直属の部隊を置いた。普通、師団長は中将、直属部の部長は大佐かせいぜい少将である。ところが関東軍の防疫給水部(731部隊)の長・石井四郎だけは中将であり、師団長並みの階級を持っていた。軍医のトップ、軍医総監と同じということになる。

なぜ石井だけが中将なのか。実は石井が率いていたのは、各方面軍を横断した生物兵器・細菌戦の秘密組織なのである。残虐な細菌戦は国際法にも違反しており公然とやるわけには行かなかった。戦局不利な日本軍は生物兵器、化学兵器に活路を見出そうとしていたのだ。関東軍防疫給水部は隠れ蓑に過ぎない。

裏組織が形成され、実際には各方面軍の防疫給水部は石井が取り仕切っていた。一般に731部隊と言われるが、南方軍の9420部隊や南支邦の8604部隊も石井の配下だったのだ。各地の防疫給水部を連絡する役割は軍医学校・防疫研究所にあり、ここで石井の秘書的な役割を果たしていたのが後にミドリ十字の社長になった内藤良一である。

731部隊の隊員は戦後、細菌戦や人体実験などの証拠を隠滅して内地に戻ったが、戦犯を逃れるために組織的な連絡を続けた。内藤は経歴的には731部隊に属したことはなく、英語に堪能だったのでGHQに入り込み、細菌兵器の調査にかかわることになった。内藤を通訳としたサンダース中佐らの調査は731部隊に筒抜けになっており、石井らは追及の手を逃れた。翌年にはトンプソン中佐らが調査して731部隊の存在などが明らかになったが、内藤の工作で結局731部隊は戦犯にならなかった。研究資料との引き換えで取引されたのではないかと考えられている。

防疫給水はどの軍隊でも必要であり、極東米軍でこの任務を担ていたのは406部隊だった。406部隊が731部隊に結びついたきっかけはジフテリア禍事件だろう。近年、「ジフテリア禍事件----戦後史の闇と子どもたち」(かもがわ出版)が出版され、このことが初めて明らかにされた。伝染病地帯に上陸する事になった米軍部隊の防疫のため、早急な予防接種が必要になった。米軍の要請に答えて、治験なしで早急な予防接種薬の製造を引き受けたのが戦犯を逃れた731組織だ。人体実験で培ったチフス防疫で実績を示し、当時まだ日本では作られたことのないATPジフテリア予防接種薬を作ることになった。

このジフテリア予防接種薬が84名の子供たちを殺したのがジフテリア禍事件である。世界最大の予防接種事故でありながら、事実は長らく隠蔽されてきた。「日赤医薬学研究所」というのが製造会社だが、所長は病気休職、副所長は日赤の医師で非常勤といった具合に実体がない。「日赤医薬学研究所」の実質は731組織が担っていたのである。

接種薬には原料病原菌を「北京系」と表示している。731部隊の作山阮治中佐が終戦間際に中部方面軍司令部に移動しているが、この時ジフテリア菌、チフス菌を持ち帰ったと思われる。中部方面軍管轄にあった大阪八連隊の兵舎は一時米軍が接収したのだが、返還された。ここに「日赤医薬学研究所」が設置され、元731の技術者が集められた。日赤を冠しているが実体は赤十字社との関連はない。

仕掛け人作山阮治の名は「日赤医薬学研究所」発足後すぐに見られなくなっているから、あるいは死んだのかもしれない。その後は、むしろ予防接種を実施した京都府衛生部や京都微研、厚生省予防局が主導していたようだ。ジフテリア禍事件の経過をみれば、これらが互いに連絡を取り合っていたことが明らかである。接種薬の製法は米軍406部隊を通じて伝授されたはずだ。ここに米軍406部隊と旧731部隊の関係が生まれた。

事件発生後、残留予防接種薬のかなりの部分を406部隊か接収している。GHQ文書には49本の接種薬が本国に送られたことを示す電文がある。その後406部隊は朝鮮戦争に備え日本から朝鮮半島に移動した。朝鮮戦争では、飲料水は空輸されるようになり、防疫給水の任務は薄れ、変わって輸血が406部隊の中心課題になった。輸血用の血液を確保するために日本にも血液を買う組織を作ることが要請された。

406部隊からの要請に答えて京都府衛生部、京都微研、日赤医薬学研究所の面々が集まってできたのが「日本ブラッドバンク」であり、その中心になったのが内藤良一だった。一般医療としても輸血が多用されるようになり、売血が盛んになった。しかし、血を売って生活する貧困者に頼った血液採取は品質が悪く、感染事故も起こり、やがて禁止されて、今では献血が制度化されている。

日本ブラッドバンクは、売血で集めた輸血用血液を利用して血液製剤を作るようになり、「ミドリ十字」と社名を変更した。「ミドリ十字」は731部隊によって生まれ、人体実験をもいとわぬ残虐性も引き継いだものだったのである。これが、731部隊から血液製剤へ、さらにHIV感染被害という流れの来歴である。
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人間魚雷 回天の悲劇 [歴史への旅・明治以後]

第二次世界大戦中、大日本帝国は人間魚雷回天を使った攻撃を行った。イスラム国同様の自爆兵器である。搭乗員は志願して出撃したのだから、死ぬこと自体は必ずしも本人の意に反することではなかったかもしれない。しかし、全く無駄な死に方をしなければならなかったのは悲劇である。

魚雷は多量の爆薬を積み、一発で巨艦を沈めることができる強力な武器だが命中率が低い。瞬時に敵艦に届くわけではなく、何分後かの敵位置を予測して発射するしかないし、接近を探知すれば急旋回をしたり砲撃をしたりして魚雷を避けることも出来るからだ。もし、人間が操縦しておれば、軌道修正して確実に命中することができる。敵空母の数隻も沈めれば形勢は一挙に逆転する。そういった軍の安易な発想を現実にしてしまったのが回天である。

実際には目論見どおりに行かなかった。148基の回天が出撃したが、99基が母艦とともに沈没したり、整備不良で発進できなかったりした。敵艦に近づいて発進できたのは49基だけで、大きな獲物は捕らえられず、給油艦一隻、揚陸艇一隻、護衛駆逐艦一隻を沈め、数隻を小破しただけに終わった。防衛研究所による計算では命中率は2%であったと言うことだ。

回天は九三式魚雷を人間が操縦できるようにしたものだ。この魚雷はエンジンを空気ではなく純酸素で燃焼させると言う高度な技術を使ったもので、日本が唯一実用化していた。高出力になりしかも航跡ができない。燃料が燃えても水と二酸化炭素ができるだけで、二酸化炭素は水に溶けるから空気の気泡んいよる航跡が発生しないのだ。直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、48ノットで疾走する。

しかし、酸素は少しでも油があると爆発させるし、火が付けば鉄をも燃やしてしまう。取扱いが極めて難しく、船上での整備が難しかった。これが各国が使用をためらった理由なのだが、日本はなんとか実用に持ち込んだと言う。しかし、実際には整備不良による事故も頻繁であった。回天も訓練中にすでに15名の搭乗員が事故死することになったし、母艦から発進できなかったものも多い。

九三式魚雷に操縦席を付けて人間魚雷にすることは実は簡単ではない。魚雷の本体に外筒を被せて一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けなければならない。重量と推進抵抗が増えるので、48ノットであった最高速度は29ノットになってしまった。当時の駆逐艦は35ノットくらいの速度だったので、艦速よりも遅い魚雷ということになってしまう。

外筒の厚みが薄いと水圧に耐えられないが、分厚くすると重量も増える。結局水深80mが限度と言うことになった。これは母艦である潜水艦の行動を大きく制約する。母艦が深く潜れなくなってしまったことで敵艦に近づくことが難しくなってしまったのだ。

多量の爆薬を積みながら小破で終わることが多かったのは、逃げる標的と似たような速度では、「突っ込む」ことにならず、側面接触になるからである。側面接触の場合手動で自爆するがもちろん効果は小さい。このように回天は技術的にすでに無理がある兵器だった。それにも拘わらず出撃させたのである。

速度が遅いため当初は敵基地に侵入して停泊している艦船を狙うものであった。ところが泊地への潜入も極めて難しいと言うことがわかった。小さな船体だから揺れが激しい。潜って視野の狭い潜望鏡を覗いていたのでは、自分の位置すら把握できないし、入り組んだ湾に潜入などできるものではない。真珠湾攻撃の九軍神がすでに特殊潜航艇で失敗を経験している。

航行している敵艦を狙うとすれば、艦砲の届かない位置、20㎞も離れたところから「発射」されなければならない。回天は潜水艦の外側に取り付けられており、一度浮上して乗り込む必要があるからだ。20km離れていると高いマストに登れば見えるが海面位置ではもちろん敵艦は見えない。ジャイロコンパスを頼りに方角を定めて近づいていく。ある所で潜望鏡を上げて敵艦を発見せねばならないのだが、揺れと視野の狭さでこれがなかなか難しい。ぐずぐずしているうちに見つけられて砲撃されて沈没することも多かった。敵側は望楼から何人もで監視しているし、浅く潜ったところで航空機からは丸見えである。

回天は軽量化のため脱出装置を持たず、所定時間を過ぎるとガスが充満し、呼吸できなくなるので一度出撃すればどっちみち死ぬしかない。敵艦を見つけられなかった場合には秘密保持のために自爆する。45分以内に爆発音が聞こえたら攻撃成功と判断したらしい。多くは45分以後の爆発、つまり単なる自殺に終わった。結局、なんとか発進できた49基のうち敵に邂逅できたのは8基だけだし、当初の目論見どおりに突撃できたのは4基に過ぎない。

自分の身を犠牲にして戦ったと言うことになってはいるが、現実には単なる自殺である。これは戦死全般の現実でもある。戦死と言えば鉄砲を打ちまくり、奮闘の挙句に自分も弾に当たって死ぬといったイメージを持つが、現実には、ほとんどの兵士が、一発も弾を撃たず、その前に死んだ。

輸送船の船底に詰め込まれたまま沈んだし、無理な行軍の過労で簡単に病死した。アメリカ軍が上陸前に行った爆撃・砲撃で多数が死んだ。太平洋戦争では餓死が圧倒的に多い。徴兵されて南方に行かされて死んだ兵士140万人のうち実際に一発でも弾を撃ってから死んだ兵士は1%もいない。回天だけが悲劇だったわけではない。

これは太平洋戦争が負け戦であったからではない。終始日本軍が優勢だった日清戦争ですら戦傷死が1417人に対して戦病死が11894人もいる。9割が戦病死だった。戦争に行くということは戦わずして死にに行くと言う事なのだ。戦争とはいかに愚かなものだろうか。戦争は、「やらない方がいい」などと言う程度のものではなく、絶対にやってはならないことだ。



回天による全攻撃成果(出撃148基、発進49基)
1944年11月20日:給油艦ミシシネワ撃沈
11945年7月24日:駆逐艦アンダーヒル撃沈
1945年1月12日:歩兵揚陸艇LCI-600撃沈
1945年1月12日:輸送艦ポンタス・ロス小破
1945年1月12日:弾薬輸送艦マザマ大破
1945年1月12日:戦車揚陸艦LST225小破
1945年7月24日:駆逐艦R・V・ジョンソン小破
1945年7月28日:駆逐艦ロウリー小破
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アッツとキスカの占領と撤退 [歴史への旅・明治以後]

アッツとキスカはいずれもアリューシャン列島にあるアメリカの島だった。しかし、2600人が全滅したアッツと6500人が生還したキスカでは、戦争に狩り出された人たちの明暗を大きく分けることになった。

奪還を目指すアメリカ軍がせまる中、アッツからの援軍要請には答えず、食料・弾薬も送らず、全員が戦死することを命じたのだ。一切の援軍を求めることなく自ら徹底抗戦の道を選んだと報道されたが、もちろんウソである。これが「玉砕」という言葉の始まりだった。大本営はアッツを戦略的価値がなく犠牲を払ってまで占領し続けるにあたらずとして見捨てたのである。

キスカのほうは、脱出作戦が行われた。6500人という人数からも、貴重な航空兵が含まれていたこともあって脱出作戦を取らないわけには行かなかった。当初、潜水艦による輸送が試みられたが輸送量が小さく、艦船による強行輸送が試みられた、これが運良く深い霧に助けられて成功した。もぬけの殻を攻撃した米軍をあざ笑うような書置きを残していた。日本軍が撤退を恥としなかった例は珍しい。それだけ戦略的価値がないことが明らかだったのだ。

明暗は分かれたが、戦略上重視されなかった点は同じだ。では、なぜそんな所を占領したのかということになる。この二つの島は無人島であり、占領にも戦闘はなかった。爆撃を受けて、銃手は高射砲を撃ったが、ほとんどの歩兵は戦わずして引き揚げたことになる。いったい何のために占領したのだろうか。撤退作戦の幸運がなければキスカもアッツと同じように多数の玉砕となっていたことに間違いない。

アッツ、キスカの占領はミッドウエー海戦と同時に行われた。アメリカ側では、ミッドウエー襲撃のための陽動作戦だったと見ている。しかし、陽動作戦ならミッドウエー海戦終了と共にすぐ撤収するべきだった。そうすれば、撤退に苦労することもなく、ましてアッツを見殺しにする必要もなかったのである。事実、ミッドウエー海戦の敗北を知った山本五十六司令長官はアッツ・キスカ作戦の中止を命じている。ところが12時間後に命令は撤回され、アッツ・キスカを長期占領することになった。

これらの島は日本が占領している唯一のアメリカの領土になるから、アメリカ軍は奪回作戦を取らざるを得ない。しかし、日本にはそれに対する準備はなかった。島伝いにアメリカ本土に進撃するにはあまりにも米本土から遠い。作戦上、多くの兵力を投入する島ではないことが明らかだ。逆にアメリカ軍が基地を作っても、東京まで4000キロもあり、爆撃機の航続距離を超えていて攻撃には使えない。作戦上は双方にとって意味のない島なのだ。事実、アメリカは奪回後も島を爆撃基地として使ってはいない。

意味のないアッツ・キスカの占領がなぜ行われたというと、政治的に必要だったからである。ミッドウエー海戦の敗北は秘匿され、新聞発表は6日後に、アッツ・キスカの占領と同時に発表された。もちろんミッドウエー海戦は勝ったかのように報道されたのであるが、その詳細を見れば、4隻の空母を失い、日本軍の損失が大きいことは隠しようもない。アッツ・キスカの占領を抱き合わせなければ恰好が付かないのだ。アッツの2600人は、もうこの時点で、軍の面子のために命を捧げさせられることが決まっていたことになる。

軍は、本土への空襲を防ぐためにアッツ・キスカの占領が必要だったと位置付けているが、4000キロを往復できる爆撃機はない。その意味ではミッドウエーも同じことだ。日本からは遠く、アメリカ軍の本拠地であるハワイに近いミッドウエー島を占領しても、維持できないことは明らかだ。山本五十六はミッドウエーは、島の占領そのものが目的ではなく、占領することにより、出動してくる米国艦隊主力を撃滅することが目的であると主張した。確かに、米艦隊を撃滅してしまえばハワイだって占領できる。

実際には、ミッドウエー島を占領する前に、日本の連合艦隊は撃滅されてしまった。この時点ではまだ日米の戦力は互角だったから、地上軍を送り込む上陸作戦なのか、あるいは機動部隊による海戦なのかがはっきりしない中途半端な作戦であったことが敗因と言ってよい。

日本軍がミッドウエー島への攻撃に手間取っているうちにアメリカ空母の襲撃を受けた。航空母艦は防御が弱く、損傷を受けると航空機も使えなくなるから先手必勝である。攻撃を急ぎ、戦闘機の護衛もなく突っ込んでくるアメリカ軍の果敢な戦闘も想定外だっただろう。アメリカ軍は速攻の重要性をしっかり認識していたのだ。帝国海軍はアメリカ空母3隻のうち2隻には攻撃する事すらできず4隻の空母を失った。

問題はなぜこういった根本的とも言って良い作戦の誤りを犯したかということだ。敵空母だけでなく、地上航空基地からも攻撃を受ける場所で決戦を挑むのは不利に決まっている。ミッドウエー作戦は、司令部が行った事前の図上演習でも失敗と出てしまっている。にも拘わらす強行した理由が問われることになる。

多くの戦史家が過小評価して見逃してしまっているのは、ドゥリトル爆撃のインパクトである。開戦からわずか3ヶ月、真珠湾で米海軍を撃滅したはずなのに日本の都市が軒並み爆撃を受けたのである。被害は大きくないのだが、それは問題ではない。皇居がある帝都の爆撃を許してしまうなどということは、帝国軍人としてあり得ないことだ。近代兵器を駆使していても、当時の軍人の精神構造は前近代的な天皇崇拝のもとになり立っていたことを忘れてはならない。

対抗関係にあった陸軍からあざけられても仕方がない。予測外の奇襲だったため、日本列島を縦断されて一機も撃墜できなかったとなれば、軍の面目は丸つぶれと言っても良い。当時の報道の表には当然出てこないが、海軍の内部には、激烈な衝撃が走ったことに疑いはない。この衝撃は冷静な判断力を超えたものだったのである。

何が何でも爆撃を阻止しなくてはならない。しかし日本軍には、ドゥリトル爆撃隊がどこから来たのか皆目見当がつかなかった。SBDのような艦上爆撃機なら航空母艦だが、B25はアメリカ陸軍の大型爆撃機である。一番日本に近い陸軍基地のあるミッドウエーから来たとしか考えようがない。しかし、B25は4000キロしか飛べないはずだ。日本を爆撃して中国に着陸しても6000キロは飛ばなければならない。いつのまに航続距離が極端の増えたのかよくわからないが、ともかくミッドウエーを攻略するしかないという考えに落ち込んでしまった。ミッドウエー作戦は冷静な作戦判断を超えて、ミッドウエー島上陸ありきで始まった作戦なのだ。

アメリカ軍は、航空母艦が陸軍のB25を積んで日本近海まで進出し、大型爆撃機を空母から発進させるという曲芸をやったのである。空母が風上に向かって全力で航行すれば発進できると言うアイデアは民間航空出身のドゥリトル中佐が発案した。陸軍と海軍が対立していた日本の軍人には想像もつかない発想である。当然、B25の着艦は無理で、中国まで飛ぶしかない。それでも燃料が足らずに全機が失われはした。ドゥリトル空襲はアメリカ軍にとってもギリギリの決死隊的な攻撃ではあった。しかし、これが日本軍をミッドウエー作戦に追い込んで墓穴を掘らせる結果となったのである。

ミッドウエーで機動部隊を失って以降、まともに戦争に勝つための作戦は立てられず、まにあわせのものばかりとなり、それも全て裏目に出た。これに付き合わされた国民はたまったものではない。アッツのような玉砕があちことで始まり、200万の日本人が軍の面子のために命を捨てさせられたのである。

従軍慰安婦問題 [歴史への旅・明治以後]

第二次世界大戦における日本の反省事項のひとつに従軍慰安婦の問題がある。性に関する裏の存在で有ったため、戦後も七〇年代まで取り上げられることがなかった。千田夏光「従軍慰安婦 “声なき女”八万人の告発 」(一九七三年)が問題提起となり、事実が認識されるようになった。しかし、公式な資料の発掘が難しく多くの論争を呼ぶことになった。もちろん従軍慰安婦というのは千田夏光の造語であり正式名称であったわけではない。従軍看護婦や従軍記者などの用語も同じように誰かが作った造語だ。警察の用語としては「陸軍慰安所従業婦」などと言うのが記録に残っている。

慰安所はどの部隊にもあったといわれるが、もちろん公式なものでないから表立った設置規則などはない。これを根拠にその存在すらも政府は否定していたものだ。勝手に業者が戦地で営業していたもので軍は関与していないというのが公式見解だった。しかし、部隊長名で値段を告示したり、憲兵が運営を検査したり、あるいは設置命令を受けた士官の手記が発見されたりすると、設置は合法的だったとか強制はなかったとかの言い逃れをするようになった。

慰安所は合法的だったか?
戦前の日本では、売春は公然と認められていたのだから、戦地でも売春業者が軍隊を相手に商売をしたのは当然ではないのか?と云う人がいる。しかし、いくら戦前でも売春やり放題ではなかった。「貸座敷、引手茶屋、娼妓取締規則」と云う法規制があり、「強制」とか「虐待」とかが伴う売春は法律違反だったのだ。売春が本人の自由意志によることを確認するために、まず、本人が自ら警察に出頭して娼妓名簿に登録することが必要だ。また娼妓をやめたいと本人が思うときは、口頭または書面で申し出ることを「何人といえども妨害をなすことを得ず」とされていた。営業はどこでおこなっても良いものではなく「貸座敷」と認定された特定の建物の中だけで許された。だましたり、強制したりして売春婦を集めることを防ぐために「芸娼妓口入業者取締規則」で売春婦のリクルートを規制していた。日本も婦女売買を禁止する国際条約(一九一〇)や児童の売買を禁止する国際条約(一九二五)に加盟しており、売春を目的とした身売りは、「本人の承諾を得た場合でも」処罰しなければならなかったのだ。

もちろんいつの世にも法の裏街道を行く無法者はいるわけで、売春はこういった無法者が横行する世界ではあったが、大日本帝国では軍が税金を使って無法者と同じ事をしていたことになる。慰安所は貸し座敷の認可を受けていないし、慰安婦の登録もなかったし、慰安婦の自由意志の確認などされた形跡はまったくないのだから、軍の慰安所は売春規則を守っていない。国内法的には完全な違法行為である慰安所が作られたのは法律を上回る「軍の力」によるものだ。占領地では軍の司令官がすべての法権限を持っていたから、国内法を無視することも出来たに過ぎない。

戦地での強姦事件があとをたたず、「皇軍の威信低下」が危ぶまれたので慰安所はこれを防ぐ目的で作ったそうだ。こうしたモラルの低下を引き起こすような戦争こそが反省されるべきであったのだが、対応の方向が間違っていた。確かに設置のされかたは様々で、業者が部隊に取り入ったりする場合もあったし、軍が設営して慰安婦を徴募した場合もあるが、部隊長名で利用規定や料金を定め、軍医や憲兵を配置して実効支配しているのだから軍の組織の一部であり従軍慰安婦であったことに間違いはない。慰安所の普及は隅々にまで及び、全ての部隊に慰安所があったと云っていいほどで慰安婦にされた人の数も二十万人に達したと言われている。

二十万人という数字はあやふやなものだが、関特演での必要慰安婦数の試算というのがあって、これを全体に適用すれば出てくる数字だし、総督府とも関係が深かった自民党の政治家荒船清十郎が講演の中で出した数字でもある。秦邦彦氏が別の試算をしているが、実人数」と「延べ人数」の混同と言う誤りをおかしており、これを正すとやはり二十万人になる。

強制連行はあったか?
慰安婦の徴募について強制連行はなかったと主張するのが最新の言い逃れだが、強制がなかった事を積極的に示す証拠が提示されたことは全くない。娼妓取締規則に基づいた自由意志の確認でもやっておればはっきりした根拠があるのだが、そんなことはやっていない。「私が強制連行をやった」と云う内容の本が出版されたことがあり、その本の証言があやふやであったことが話題になったが、もちろんこれは強制連行が「無かった」と云う根拠にはならない。

朝日新聞がこの出版を報道したことが逆に攻撃の対象になり、このあやふやな本だけが慰安婦問題の根拠だとする宣伝が行われた。どのような圧力が新聞社にかかったのか定かでないが、朝日新聞は20年後になって、わざわざこれが誤報であったと紙面で謝罪した。このことで、当時の資料がかなり明らかになった今も、強制連行はなかったと思わされている人はかなりある。権力による歴史の偽造はこのようにして進むのだろう。

慰安婦の徴募はいろいろな手段で行われた。日本の国内で行われたと同じ様な「身売り」もあり、なるべく穏便な手段で集めるのがやはり基本ではあっただろうが、「○月×日までに慰安婦××名送れ」などという軍の電文(例えば台電九三五号)も残っているように、軍の命令系統を通じた指令だ。徴集現場も、員数あわせには手段を選んでおれなかっただろう。強姦事件で軍規の乱れを防ぐためと理由づけたのだから、期日までに十分な数の慰安婦を確保することも軍事作戦の一部だったのだ。 徴募に関してはヤクザが軍の命令として動き回ったことが各地の警察記録にある。

強制があったことには確実な証拠がある。最も確実な証拠のある軍による強制連行の例はインドネシアで起こった「白馬事件」とよばれている事件だ。白馬というのは当時の隠語で「白人女性に乗る」ことを意味しているようだ。インドネシアには数カ所に白人女性を使った慰安所があり、総計六五名のオランダ人被害者の事例が記録されているが、特に有名なのが一九四四年二月新設のスマラン慰安所の事例である。

これは南方軍管轄の第一六軍幹部候補生隊が十七歳以上のオランダ人女性をスマラン慰安所に連行して、少なくとも三五名に売春を強制した事件で、まぎれもない軍による強制と言える。オランダ抑留民団が必死の抵抗を示し、陸軍省から捕虜調査に来た、小田島薫大佐への直訴に及んで、軍中央も知らないでは済まされないことになった。オランダへはすでに様々なルートで事態が知らされており、国際世論の反発を招くことが必至の状況だったので、軍はやむなく二ヶ月後にこの慰安所を閉鎖する処置をとった。小田島大佐は陸軍省の捕虜管理部であり、これらの女性は慰安所に送られる前から収容所に入れられていたので、捕虜虐待問題として扱われたが、戦闘員でもない一七歳の女の子を捕虜というわけにもいかない。これは、どう見ても住民虐待つまり慰安婦事件そのものだ。

こうした日本側の処置などが、記録に残ってしまったことと、被害者が白人だったことで、連合国の追求がきびしく、関係者が戦犯に問われて裁判記録が残ってしまったことが今では決定的な証拠になっている。朝日新聞の追跡調査で、関係者が事実を認めた証言をしている。インドネシアでのオランダ人慰安婦についてはオランダ政府の調査報告書が出ており、白人慰安婦は総数二〇〇から三〇〇人と推定されている。報告書は客観的なもので「自発的」な慰安婦の存在も認めているが、それはごくわずかだ。こういった証拠を示すと、今度は一部の兵隊の逸脱行為であって、例外的なものだという言い逃れも出てくる。しかし、この事件はそういった言い逃れも許さない。

強制連行を行ったのは方面軍直属の士官候補生隊であり、逃亡兵でも敗残兵でもない、れっきとしたエリート部隊の組織的行動だ。 連合軍のバタビア裁判では、この件で人道上の罪として、死刑一名を含む十一名の有罪が宣告されている。死刑になったのは強制連行を指揮し、自らもオランダ人女性に暴力をふるって強姦した少佐である。全体の首謀者と考えられる大佐は戦後復員していたが、戦犯容疑で呼び出しを受けた時点で自殺した。組織的犯罪に対する裁判だから命令されて強制連行に加わっただけの兵士は罪を問われていない。「個人的逸脱行為」は通用しない。 「希望者だけに限れ」という司令部の命令が十分伝わらなかったせいで、軍に責任はないというのも有るが、司令部が「希望者に限れ」と命令していたにもかかわらず、その命令に従わなかったのが事実ならば「抗命罪」でさらに重い罪に問われるはずだ。しかし、軍はいっさい処分を行わず、この事件に関する軍法会議は無かった。

「強制連行」の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず、慰安婦の幽閉処置を解除しただけで、軍としては何等処分を行わなかったことは重要な点だ。陸軍刑法では「戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ婦女ヲ強姦シタル者ハ無期又ハ一年以上ノ懲役ニ処ス。」とあり、慰安婦の強制連行・集団強姦は、もちろん日本軍の軍規に照らしても大きな罪だったわけだが、まったく処分の対象としなかった所に、慰安婦の強制連行に対する軍の考え方が示されている。関係者を処分しなかったのは第十六軍司令部あるいは南方総軍司令部の判断だが、もちろん第十六軍だけが特殊な判断基準を持っていたという根拠はない。

日本軍では慰安婦の強制連行を罪悪とする考えが無かったのだ。女性や土人(現地人)を蔑視し、命を捨てる覚悟の皇軍兵士が女を犯したくらいで処罰されるべきでないという思い上がりがあり、略奪をなんとも思わぬ教育がなされていた。慰安所の設営にも罪の意識がないから、中曽根泰弘は戦後も慰安婦問題がクローズアップされるまで、自分の選挙パンフにニ三歳の若さで軍の主計長として、慰安所を設営したことを自慢していたくらいだ。

事件は頻発していたにもかかわらず、日本軍が実際に、強姦や住民虐待で処分した実例は非常に少ない。罰則はあっても実際上は、お咎めなしだったと言える。強制連行・集団強姦は、組織的意図的に黙認されていた。軍人や軍に雇われた無法者が強制する売春があちこちで黙認され、オランダ抑留民団 のようなバックをもたないアジア人はみな泣き寝入りしていた。それが慰安婦問題の実態だ。一度は閉鎖されたスマラン慰安所も白人ではない慰安婦を使って後に再開されている。再開後の慰安婦徴募についてはバタビア軍事裁判でもとりあげられなかった。連合国側でも、アジア人の人権についての意識が不十分だったのだ。

朝鮮半島での強制連行
慰安婦の証言はもちろん重要だが、それにたよらずとも、極東軍事裁判関係文書の中からモア島で五人の現地女性を兵営改造の慰安所に強制連行した中尉の尋問記録(検察文書五五九一号)が見つけられているなど、確実な軍の強制連行の例は他にもある。中国での裁判でも 一一七師団長鈴木啓久中将が慰安婦の誘拐を行ったという 筆供述書を提出している。強制連行の証拠はいくらもある。

それでも強制連行はなかったという主張があちこちで行われているのは、朝鮮半島での状況の混同によるものだ。「強制連行」という言葉のイメージからは、軍人が銃剣を突きつけて無理やり連行するといった白馬事件のような情景が思い浮かぶが、朝鮮は戦地ではなく「国内」だったので、軍が直接表にでるようなことは起こりえない。そのかわり憲兵警察制度を使って、行政組織や警察に徴収を肩代わりさせることが出来た。やり方が巧妙悪質になっただけで本質的には同じことだ。

朝鮮総督府の資料は終戦時にほとんど処分されて残っていないから、こうした強制連行の実体を具体的に示すことは難しい。それを逆手にとって「証拠が無い」と居直っているのだ。慰安婦問題の研究者である中央大の吉見教授が「朝鮮半島では強制連行の証拠は見つかっていない」と発言したことを拡大解釈して「強制連行の証拠は一切ない」などと言いふらしている。

慰安婦を強制的に集めるためには、「看護婦にする」とか「工場で働かす」とかで遠くへ連れだし、慰安所で強姦してしまうことも行われた。日本に反抗した親をとらえて、親を助けたければ慰安婦になれとせまったケースもあった。憲兵や警察が、女性を拘束して、列車に乗せてしまうと云う例もある。村長や自治会長等を通じた徴集の割り当て等も行われたようだが、慰安婦の証言でも、日本に協力した朝鮮人の行動などについては、なかなかはっきりしない点がある。どのような場合でも、慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、家に帰すべきだったわけだが、それが行われていないことは確実だ。直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたことに違いはない。

日本は男性朝鮮人・中国人を多数強制連行して鉱山やダム建設現場で酷使したことがはっきりしており、しかも軍規は強姦・略奪に甘かったとなれば、よほどはっきりした無罪証拠を発見しないかぎり、朝鮮でも大量の強制連行があったと考えるべきだ。多くの強制された慰安婦がいたことは韓国では常識になっている。「証拠がなければ強制連行があったとは言えない」は日本側の勝手な理屈でしかない。 安倍晋三がブッシュ大統領に話をしたときも、この点をとがめられたようだ。

朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年者を徴集したことだ。現在日本で裁判をおこしている九名の元慰安婦達は全員が二一歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずだ。もちろん、この人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしている。

慰安婦の悲惨な実態
女性が不特定多数を相手に、性奴隷としての生活を強いられることは屈辱であり、悲惨このうえないことは自明だろう。慰安婦は将校用、下士官用、兵用にわけられ、将校用には内地から来た日本人のプロがあたり、アジア人は兵用として、ひどい場合には、わらむしろで囲っただけの「部屋」の前に、兵隊が並んで順番を待つ「公衆便所」状態だった。休む間もなく次々に何人もの「処理」をさせられる代償として軍が勝手に決めた定額料金を受け取るのだ。連隊長の許可を得なくては外出もできない監禁状態の場合もあり、衛生状態も悪く、前線近くまで連れていかれた人では、終戦まで命があった人は多くなかったかもしれない。

資料の中にはミッチナ文書のように慰安婦の生活が「安楽な生活」であったかの記述のあるものもあるが、よく読めば朝鮮人、中国人の慰安婦は未経験者が大半で、未成年者も多かったと言う違法性が読みとれる。親の借金の肩代わりの前金に縛られ、仕事内容も騙されていたことも書いてある。とても安楽などという状況ではない。戦後も、過去を隠してひっそりと生きて行かねばならなかった。元売春婦などと名乗り出るのは容易ではない。現在名乗り出ているのはごく一部で、親類縁者に迷惑のかからない、独居の人がほとんどだ。

慰安婦は高収入だったか?
慰安所の料金は昭和13年当時「兵 一円五〇銭、下士官 三円、将校 五円」などと決められていた。相手によって値段が大幅に違う妙な設定だが、軍が有無を言わさず値段を決めたから出来たことだ。実際は軍が「キップ(花券)」を発行して、階級に応じて給与から天引きしたようだ。慰安婦は値段交渉の余地なく花券を持った客の相手をさせられた。

当時の兵士の給与が月一〇円程度だったので五円というのは相当高い金額に見える。しかし、当時の内地のサラリーマンの月給は一〇〇円くらいだから、むしろ兵士の給与が異常に低かった。これは兵士の給料というのは、住居費、食費、被服費が差し引かれたあとの小遣いという意味合いだったからだ。軍人も自宅から通勤するサラリーマン的な位置、中尉くらいになると月給一〇〇円だった。

客の九〇%は下級兵士だったわけだから「売り上げ」も知れている。一日一〇人としても月三〇〇円くらいで、その多くは経営者の懐に入ったはずだから、「高給取り」のはずがない。支払いは軍が勝手に発行する通貨「軍票」での支払いだったから、戦後は紙くずになった。

しかし、元慰安婦の中にはかなりの金額の貯金があったとして、その返還を求めている人がいる。これには少し事情がある。その人の説明によると、これは給与ではなく、「チップ」をためたものだそうだ。一部の慰安婦はチップを沢山手にしたことになるが、貯金の日付けをみると、殆どが終戦間際になっている。

軍票というのは何の裏づけもなく印刷した通貨だから、あまり通用価値はなかったが、公式には内地の円と等価と言うことになっていた。軍がいくら軍票を発行しても内地がインフレにならないように、外地で貯金はできても内地(朝鮮を含む)で引き出すことは出来ない定めになっていた。それでも、事情がよくわからない慰安婦たちは収入をせっせと貯金したのだ。

兵士たちは他に使い道もなく、内地に送金もできない「軍票」を慰安婦にチップとして渡したものが多くいたようだ。特に終戦間際には、紙くずになることが確実で、大量発行で超インフレ的に使用価値を失っていた軍票を持っていてもしかたがないので、どっさり慰安婦にくれてやったのだろう。

軍票は当時の慰安婦の生活にとってもなんの役にも立たないものではあった。国に帰っても引き出せない郵便貯金は詐欺のようなものだ。しかし、今となってみれば、円通貨と等価という当時の公式見解を利用して、返還をもとめることも論理として成り立つから、慰安婦が一矢を報いたことになる。しかし、これを根拠に慰安婦が高収入だったなどと言うのは、もちろんデマである。

慰安婦はどの軍隊にもあったのか?
残虐な戦争に売春や強姦行為はつきものと云われるが、日本軍には異常な密度でそれがおこり、慰安所を制度的に持つ様になった。軍人は買春があたりまえとする考え方の異常性には軍の内部にすらも批判はあって、陸軍病院の早尾軍医中尉は論文で「軍当局ハ軍人ノ性欲ハ抑エル事ハ不可能ダトシテ支那婦人ヲ強姦セヌヨウ慰安所ヲ設ケタ、然シ、強姦ハ甚ダ旺ンニ行ハレテ支那良民ハ日本軍人ヲ見レバ必ズコレヲ恐レ」と指摘している。

現代の軍隊はどこも慰安所を持っていまないし、当時もイギリス軍やアメリカ軍には軍の慰安所はなかった 。ドイツ軍には小規模な慰安所があったそうだが、強姦事件多発のためではなくもっぱら性病の管理のためだった。戦後、占領軍が日本で慰安婦を要求したと云うまことしやかな噂 が流れたこともあるが事実ではない。日本政府が、アメリカ軍上陸の前に売春施設を勝手に作っただけだ。近代軍隊でほぼ全軍にわたる規模でこのような事をしたのは大日本帝国だけだろう。

 戦場の緊張を長期に渡って続けるには無理がある。通常の軍隊は帰休制度を持ち、ローテーションを組んで戦うのだが、日本の兵士は消耗品扱いで、一度出征すれば死ぬまで戦わされた。兵站・補給を考えぬ無理な戦線の拡大は、兵士に略奪を日常とする生活を強いた。倫理観が荒廃し、強姦事件が起こるのもあたりまえだ。慰安所を作らないと強姦が多発すると発想しなければならない戦争と云うものが、そもそもの国策の誤りだったのだ。

慰安婦議論と証拠
慰安婦問題全体から言えば、強制連行の事は一部の問題だ。最初は否定意見もあった慰安所の存在はもはや確定したし、政府や軍の関与もはっきりした。未成年の少女を騙して慰安婦にした非道性も否定する人は少ない。軍人が直接脅して慰安婦にした例も占領地では確認された。ここまでくれば個々の慰安婦の証言に裏付け証拠を要求してみても、いちゃもんに過ぎず、歴史事実としての認識には決着が付いたと考えられる。

それでも、朝鮮半島での強制連行に直接証拠がないかぎり強制は無かったことになるなどと言い張る人がいる。証拠がなければ「なし」になるのが論理だと言うのだ。このような人たちは政治的意図から物事を論議しているために、歴史事実の認定が裁判の有罪無罪にすりかわってしまっているのだ。
裁判は「多くの真犯人を取り逃がすほうが、ひとつの冤罪をつくるよりましだ」の原理に基づいて「証拠がないかぎり無罪」とする、片寄った判断をする。歴史事実の認定はどちらが合理的に事実と思われるかを公平に判断する。歴史ではどのような事実も決定的な証拠が無いのが普通だから、傍証を固めていって定説をつくりあげて行くのだ。

日本軍は自由に証拠の隠滅が出来たし、慰安婦はその境遇から、記録を残せる立場になかった。決して自慢にならない、忘れてしまいたい過去に関しては証言だって簡単には得られない。やっと重い口が開いたのは50年もたってからだった。こういった条件を抜きに議論すれば、終戦時に日本が行った記録の大量抹殺がまんまと成功することになる。慰安婦問題に限らず、朝鮮総督府関係の資料は意図的な焼却が行われたこともはっきりしています。歴史の風化を許さず、全体的な目で起こった事実を見つめて行く事が大切なのではないだろうか。

2.26事件を解明する [歴史への旅・明治以後]

2.26事件は、日本が戦争の泥沼に踏み込んで行く端緒となった反乱事件である。しかし、これが何に対する反乱であったのかが定かでないし、何を意図し、何が青年将校たちを思い詰めさせた原因だったのかも、実のところ、よく理解されてない。

実は2.26事件の原因は帝国憲法にあり、明治維新の過ちから来る当然の帰結であった。
法律の素人である伊藤博文が作った大日本帝国憲法には、いろいろと欠陥があるのだが、最大の問題は、ありとあらゆる権能を天皇に集中してしまった点にある。全ての大臣は天皇が直接任命する。総理大臣という規定はなく、首相は大臣たちの中の非公式なリーダーに過ぎない。大権を軍事と民政に分けてその両方を統括するのは天皇だけである。陸軍大臣・海軍大臣は大元帥の直属の部下であるから、首相といえども、天皇を通してしか、指示を出せないことになる。政府が軍のする事に口出しするのはの統帥権の干犯である。

それでも、維新元勲が政治を担っていた明治の時代には、軍と政府間に問題は生じなかった。元勲は全て武士であったから軍人だったとも言える。誰もが軍人として戊辰戦争を戦った経験を持っていたから、直接的に軍の内部にも影響力を持っていた。軍人と政治家の区別はなかったのである。しかし、維新元勲の時代が終わると事情は変わってくる。軍人は職業として戦争をするようになったし、当然のことながら政府は軍人でない官僚たちが担うようになった。政府は軍から分離されざるを得ない。

軍人にとってはこれが不満だった。軍事を知っている自分たちが維新元勲の跡継ぎであるはずなのに、政府中枢から排除されるようになったと感じたのである。明治維新の理想からはずれ、様々な社会問題が生まれたのは、政治を軍から遠ざけだせいだという考えが軍の中に染み渡るようになった。この頃、士官学校・陸軍大学といった職業軍人の養成課程が確立され、社会からは分離された閉鎖的な集団を形成するようにもなっていた。

第一次世界大戦が終わり、世界が軍縮に向かうころから、世界の趨勢を無視できない政府と権益を守ろうとする軍に溝が広がり始めた。困ったことに、こういった事態が起こると収拾がつかなくなる構造を大日本帝国憲法は、最初から持っていたのだ。

平時の軍は戦功での評価がないので、完全な学歴社会になる。帝国憲法の構造上、士官学校を首席で卒業すれば、その時点で何年か後に、総理大臣といえども口出しできない地位に就くことが決まってしまうのだ。だから、青年将校をおろそかに扱うことは出来ない。

こんなことから、青年将校たちは、社会経験が薄いにも関わらず、自らが特権を持ったエリートであると意識し始める。平時には、本務である戦闘がないので暇でもあり、関心は政治に向かう。桜会、一夕会といった政治団体が軍の内部に生まれ、派閥化して行った。

こうした政治派閥がお手本にしたのは明治維新であり、彼らは昭和維新を標榜することになった。明治維新は、結局、薩長の青年将校たちが起こした武力クーデターであった。明治維新を礼賛する限り、天皇を担いでおきさえすれば、クーデターは許されると言う考えを否定することは出来ない。

彼らは平然とクーデターを実行する主張を繰り返し、特権意識をあらわにしていた。議論を尽くすよりも、命を懸けて武力を用いるのが美徳だとする価値観まで見受けられる。実際に10月事件、3月事件といったクーデター未遂事件を起こしているが、まともな処分はされていない。クーデター容認論は軍全体に染み渡っていたのだ。明治維新を正当な行為とみなす限り処分などできない。「軍部の独走」は、大日本帝国憲法のもとで、最初からプログラムに組み込まれてしまっていたのである。

この当時、政府を運営していたのは、政党の代表者たちであったが、その実態は官僚出身の政治家だった。財閥や地主層の意向を受けて、経済政策を軍事に優先させようとしたのだが、折からの世界恐慌で困難に陥り、そのしわ寄せは労働者・農民に困窮を強いるものとなっていた。これが政党政治の腐敗と映り、クーデターの必要性を確信させるもととなっていたことも否めない。しかし、救民を口にはしたが、具体的な施策はなく、もちろん、これがクーデターの目的であったわけではない。

天皇が支配する理想的な神の国である日本で、なぜ労働者・農民が苦難しなければならないのか、それは、「君側の奸」が天皇の意向を妨げているからだとする単純な考えは、軍事しか頭にない青年将校たちにもわかりやすかったのである。大川周明や北一輝の「理論」がもてはやされた。出世して重要なポストに就いている「君側の奸」を取り除くことは尋常な手段ではできない。自らの命を捨る覚悟の志士の決起が必要だとするテロリズムの結論は容易にでてくる。

どの派閥も、基本的な政策主張は同じだ。軍事最優先で、軍縮に反対し、軍事予算を増やすことにつきる。それが大元帥である天皇への忠誠であるとするところも同じだ。ただそれをどのように実現するかで、温度差が生まれた。武力を使って強引にやれば良いとする皇道派と、武力を使うことも辞さないが、まず陸軍大臣などの地位を使って政府をねじ伏せるという統制派が主な流れになった。

当然ながら、陸軍大学出身者など、軍の主流に近いところに統制派が多く、連隊など現場に近いところに皇道派が多かった。反軍縮でも、皇道派は兵員の増強を第一の課題としたが、統制派は軍備の近代化に熱心だった。陸軍大学を出た「天保銭組」に対する士官学校だけの「無天組」の反感も対立に輪をかけた。

どちらも、様々な問題の解決を領土の拡大、対外侵略に求めた。皇道派はソ連主敵論を唱え、ソ連領土への侵攻を策していたが、統制派は中国を十分平定してからソ連に立ち向かう主張をした。相手には広大な面積があるのだから、冷静に見れば、どちらもそう簡単ではなく大言壮語の競い合いのようなものだと言える。

考え方もさることながら、派閥の常として、交友関係によるつながりや、機密費の奪い合いという側面もあった。皇道派の陸軍大将荒木貞夫は、取り分けこうした派閥形成に熱心であり、組織を横断して青年将校を集め、酒を飲んだり、議論をしたりで人気を集めた。こうした青年将校の支持をバックに、軍内での地位を高めようとしたのだ。酒席の費用は軍の機密費から出ていた。

荒木が陸軍大臣になったこどで、極端な派閥人事が始まった。統制派と思しき人物を地方に飛ばし、中央を皇道派で固めた。荒木が体調を崩し、真崎甚三郎大将にこれを引き継ごうとしたが、あまりに極端な派閥人事に対する反発からこれに失敗した。永田鉄山が軍務局長になり、今度は統制派による皇道派排除が始まった。

統制派が人事権を握ったことで皇道派には危機感が高まり、相沢三郎による永田鉄山暗殺事件を引起こした。このことで、さらに皇道派は劣勢に陥いる結果となった。統制派に一撃を加え、クーデターで軍事政権を作る主導権を握る以外に派閥の劣勢を回復する道がなくなる。ぐずぐずしていると、外地に飛ばされ勢力が首都圏から失われてしまう。反乱は準備不足のまま2月26日に決行されたのである。

2.26事件は、政府に対する反乱であったと同時に統制派に対する反乱でもあった。軍は皇道派を容赦なく鎮圧するのに依存なかったのだが、政府に対する反乱は軍主流も是認するところだったため、反乱軍に対する態度は揺れ動くことになった。準備不足がたたって、大物と現場の連携が取れず「玉を取る」ことには失敗した。天皇にはクーデターを支持する必然性がないから、「君側の奸」を殺され、激怒するだけであった。荒木・真崎といった皇道派首魁は無関係を決め込み、見放された青年将校たちの蜂起は、部隊を持ちながらも戦闘することもなく終結した。

しかし、政治の実権を軍が握るという思惑は成功し、それがために泥沼への道を引き返すことが出来なくなってしまった。統制派の路線で中国侵略を進めたが、粘り強い抵抗は止まず、資源確保のために南方にも侵略の手を広げて、アメリカなどとも衝突せざるを得なくなった。結果は、周知のとおり第二次世界大戦による帝国の破滅をもたらす結果となった。大日本国憲法のもとでは、避けようのない自滅への道筋であり、2.26事件はその始まりだったのである。

日米はなぜ戦ったのか --太平洋戦争の原因 -- [歴史への旅・明治以後]

太平洋戦争は日本軍による真珠湾の奇襲に始まった。開戦への経過については様々な俗論がある。曰く「海軍は反対したが陸軍が押し切った」。曰く「タイピストが休みで通告が遅れてしまったが奇襲のつもりはなかった」曰く「天皇は開戦に反対だった」。どれもこれもいい加減な話ではあるが、それもいろいろと謎が多いことの反映である。

戦争に至る前になぜアメリカとの対立を深めたかも経過的には不可解なところが多く残されている。日本帝国のまず第一の敵はソ連だった。シベリア出兵以来の敵国でもあり、社会体制が全く異なる国で、天皇制廃止などと恐ろしいことさえ平気で言うから、帝国軍人には許しがたい存在でもあった。陸軍は満州・中国についで蒙古から絶えずソ連への侵入を企てていた。1936年11月25日の日独伊三国防共協定は同じくソ連を敵視するヨーロッパとの連携で、ソ連を挟撃する体勢を組んだことになる。この確固とした戦略方針からはアメリカとの戦争は出てこない。むしろソ連軍に挑みかかった1939年 5月11日のノモンハン戦闘の方が本道である。

ところが、ドイツはノモンハン戦闘の真っ最中にソ連と10年の中立条約を結んだ。ドイツのやりかたは全く信義にもとることになる。しかるに、日本帝国はドイツに抗議することもなく、なおいっそう連携を深めていくのだ。秘密資料は明らかにされていないが、ノモンハン事件は独ソ不可侵条約を促進するために仕掛けた日独連携プレーだったかもしれない。これはこの後の日ソ中立条約でも言えることだが、ソ連との条約は日独共にまったく実をともなっていない。最初から虚偽の条約なのである。

ドイツは第一敵国ソ連と不可侵条約を結んで、フランスとポーランドをまず手中に収める。当然これは英国等との戦争になる。1940年 9月23日 にはドイツのフランスに対する勝利に便乗して日本が北部仏印進駐を果たした。これで日独伊の三国の協定は軍事同盟に格上げされた。もともと中国を支援する英米は日本の友好国と言うわけではなかったが、日本も英米との対立を強め、ドイツに倣ってソ連との5年の中立条約を結ぶ。ところが、日ソ中立条約が結ばれるやいなや、ドイツはソ連に攻撃をかけた。日ソ中立条約はソ連に隙を作らせてドイツの電撃作戦を成功させるための芝居だったかもしれない。

日本が本気でソ連と友好を結ぼうとしたのなら、これまたドイツの信義が問われる問題であるが、日本はますますドイツとの信頼関係を深める。日本がソ連との友好を全く考えていなかったことは関特演つまり関東軍特種演習に示されている。特演というのは単なる演習ではない。陸軍の動員には時間がかかるから戦争は必ず特演という形で始まるのだ。真珠湾出撃もニイタカヤマノボレの電文がこなかったら特演と呼ばれていたはずだ。ドイツの電撃作戦に呼応して70万の大軍を満州国境に集結させ、その総力ぶりは、甲子園野球すら中止させるほどのものであった。日ソ中立条約からわずか三ヵ月後のことだがまったく中立どころではない。

このとき天皇も裁可した『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』では、「独「ソ」戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」と言う条約破りの決定までしている。このことで日ソ中立条約も実質廃棄されたとみるべきだろう。後にソ連が終戦間際に連合国側で参戦したことをあげつらっても噴飯物でしかない。しかも不意打ちではなくソ連は1945年4月に条約破棄を通告しているのだ。

結局、関特演は戦争にいたらなかった。その理由はノモンハンで苦汁をなめた陸軍はソ連との全面戦争に踏み切れず、海軍が主張する南方侵出に大方向転換をしたからだ。日米開戦はむしろ海軍主導だ。もし、今すぐソ連に立ち向かわないなら、長引く世界戦争を勝ちぬくには南に行くしかない。同盟国ドイツとの戦争にアメリカが加わるのは時間の問題だし、そうなれば日本は石油の供給源を失う。南方の石油を確保しておくことが戦争遂行の上では絶対に必要だ。1941年6月にはオランダとの石油交渉を打ち切った。武力で石油を確保する宣言のようなものだ。 7月28日の南部仏印への進駐で、アメリカとの対決姿勢も明確にしたことになる。仏印進駐でアメリカがそこまで怒るとは思わなかったなどという回想もあるが、それは「オトボケ」だろう。開戦は7月2日の御前会議で決定したと言える。

当然ながらアメリカは石油の禁輸という経済制裁に出た。外交的にはまだアメリカとの石油輸入交渉を続けているが、日本はもう7月の段階で「戦争も辞さずの決意で交渉に臨む」と決定しているから、この交渉の成り立ち得ないことは自覚していただろう。アメリカの盟友であるイギリスを攻撃しているドイツとの軍事同盟に身を置きながら、中国侵略を続けるための石油を供給しろとは虫が良すぎる交渉だ。まさかアメリカが要求を呑むはずもないのだが、ハルノートではっきりと断られるまで交渉を続けた。記録によれば交渉の当事者は結構真剣に交渉している。これは、アメリカにはヨーロッパやアジアの戦争に巻き込まれたくないという世論も強かったからで、日本に万が一の期待を抱かすような態度もあったようだ。

ハルノートではアメリカの要求が中国からの撤退と日独伊3国同盟の解消であることをはっきりと示した。しかし、日本が要求を呑まなかったらどうするとは書いていない。経済制裁はすでに行っており、要求に答えなくとも何もしないというのだから論理的にはこれが真珠湾攻撃の理由ではあり得ない。しかし日本側には事情があった。アメリカと断絶したままで戦争するために日本は南方諸島に侵攻して石油を獲得するつもりであったが、そうなればフィリピンを領有するアメリカとの衝突は避けられない。戦争を覚悟して出撃したアメリカ艦隊と正面衝突してもかなわない。交渉が続いているうちに奇襲することが必至なので、最後回答が出てしまうと一刻も早く戦闘を開始する必要があった。軍と政府の温度差がなくなり一路戦争へと突き進むきっかけは確かにハルノートではあった。

軍の動きは政府に先行しており、ハルノートが出た11月26日にはもうとっくに戦争に出発してしまっていた。公式に開戦を決めたと言われる12月1日の午前会議は2時間で終わり、天皇は発言もしていない。連合艦隊旗艦の戦艦長門は10月6日に横須賀を出港。「9軍神+1」の特殊潜航艇による特攻隊などは早くも4月15日に編成され、11月18日には真珠湾に向けて「伊22」で倉橋島を出港している。その他の空母群も早くから12月7日の真珠湾攻撃を目指した航海を開始しており、戦争はすでに始まっていた。最近の研究では一部の新聞記者でさえ11月13日には12月7日の攻撃予定を知っていたというくらいだ。ハルノートが出ようが出まいが12月7日には戦争が始まっていただろう。日清戦争でも日露戦争でも日本政府が宣戦布告するのは軍が戦闘を始めてからだった。

こうして日米開戦までの経過を見てみると、日本帝国は石原莞爾の世界最終戦総論のような構図に動かされていたことがわかる。ソ連ともアメリカとも場合によってはドイツとも戦う。その相手の順序は単なる戦術に過ぎない。世界は必ず食うか食われるかであり、恒久的な平和共存はありえないという考えは当時の日本では軍部に限らず一般的な認識にまでなっていた。今でこそ笑止な言葉だが、当時としては侵略は「する」か「される」かであり、自衛とはすなわち侵略することだった。だから自衛のための大東亜戦争戦争などと言うあきれるような言辞が飛び交っていたのだ。

第一の敵国がソ連であったことから日独伊三国同盟となり、アメリカとの戦いに必然的に行き着いた。ノモンハン事件中の独ソ中立条約で、3国協定を解消し日英米対独伊ソの路線を取ることも出来たのだが、松岡洋右などの親独派の情報を昭和天皇は信じてしまったのである。昭和天皇はこの事を後世まで根に持っていて、それまで、頻繁に参拝していた靖国神社への行幸を松岡が合祀されたと聞いたとたんに一切取りやめてしまった。

たしかに欧州の情勢はロンドンに爆撃の手が及び、モスクワ陥落も近いように言われていた。しかし、真珠湾攻撃の時点ですでにレニングラードの独軍は苦戦に陥っていた。松岡の情報網がいい加減だったにすぎない。真珠湾の3日後に独米戦が始まっているから、奇襲はもちろんドイツと示し合わせてのことだ。アメリカと戦う勝算については天皇も何度も質問したし、繰り返し検討された。当時の論調は、著者も出版社も隠してしまって今の日本では手に入らない本に多く記述されている。シカゴ大学の蔵書にはこういった戦時中の日本語文献がかなりあって面白い。

アジアを支配する日本と欧州を支配するドイツがアメリカを挟撃する。奇襲攻撃で太平洋艦隊の大半を沈めておけば、南方で石油を確保する時間的余裕は十分にある。アメリカは日本の20倍の生産力を誇るが、南方資源を手に入れれば日本の生産力は軽く3倍になる。ドイツは全欧州の生産力を投入するのでアメリカの半分はある。それでもまだ生産力に差があるが、戦争は生産だけではなく軍事力の戦いだ。挙国一致で戦える日本と、民主主義と称して勝手な振る舞いを許しているアメリカでは集中力がちがう。戦争が長引けばアメリカ国内には厭戦気分が蔓延し、革命含みの労働争議が頻発するはずだ。日露戦争の時のようにこの機を狙って有利な講和が期待できる。

これが、昭和天皇が率いる日本帝国の読みだったが、見事にはずれた。真珠湾では機動部隊の主力である空母を一隻も捉えられなかった。これで制海権を確保する筋書きが全部狂ってしまった。しかし、最大の問題は松岡洋右によってもたらされた欧州情勢の傲慢な不正確さだった。ドイツが負けて日本だけが世界を相手にしたのでは勝ちようがない。だから昭和天皇にとって、松岡だけはどうしても許せない存在なのだ。昭和天皇は政治家としても軍人としても中々の傑物だった。2.26事件の時の軍部に有無を言わせぬ指揮などを見ても器量がにじみ出ている。それが、40歳の男盛りに松岡ごときに迷わされたのは正に痛恨の極みであったろう。なんとか局地的勝利で和平のチャンスをねらったが、結局ポツダム宣言まで負け戦を繰り返してしまったのである。



1939年 8月23日 独ソ不可侵条約(10年)
1939年 9月15日 ノモンハン事件終結
1939年 9月 1日 ポーランド侵攻
1939年 9月 3日 イギリス・フランスがドイツに宣戦布告
1940年 5月10日 フランス侵攻を開始
1940年 6月14日 パリ占領
1940年 9月23日 北部仏印進駐
1940年 9月27日 日独伊三国軍事同盟
1941年 4月13日 日ソ中立条約(5年)

1941年 6月22日 対蘭石油交渉打ち切り
1941年 6月22日 ドイツがソビエト連邦に宣戦布告
1941年 7月 2日 日本陸軍は関特演70万兵力動員
1941年 7月 2日 御前会議 「国際信義上どうかと思うがまあよろしい」
1941年 7月28日 南部仏印への進駐
1941年12月 7日 真珠湾を攻撃
1941年12月11日 ヒトラーはアメリカに対して宣戦布告

1942年 1月 1日 連合国共同宣言
1943年 2月 スターリングラードでドイツ第6軍が敗北
1944年 6月 6日 ノルマンディー上陸
1945年 2月11日 ヤルタ協定(ドイツ降伏後90日以内にソ連参戦)
1945年 4月 5日 日ソ中立条約 廃棄通告
1945年 8月 9日 ソ連参戦

特攻隊の真実 [歴史への旅・明治以後]

「君のためにこそ俺は死ににいく」は石原慎太郎がプロデュースした特攻隊映画だが僕はこのタイトルを見て、昔学徒兵だった先生と話した時のことを思い出した。あの馬鹿げた戦争に多くの人々が抵抗なく駆り立てられて行ったことが不思議で、「本当に天皇陛下のために死ぬ気だったんですか?」と聞いてみた。「いや、大学生は天皇とかお国のためで死ぬ気になるほど単純じゃない。しかし、日本全体が危機に瀕していて国民同胞のためには死ぬことも必要だという考えにはコロリと丸め込まれてしまったのだよ。」と言うのが先生の答えだった。

最近の愛国心宣伝の手口はこれに近づいている。文科省の「心のノート」は田舎の風景や、隣人、郷土への愛着を持ち出し巧みに「国家」への「愛」に導く。安倍前首相が提唱した「美しい国日本」もこういったすりかえを狙ったものだ。死にに行く若者の悲しみを描いているこの映画は戦争賛美の映画ではないという弁護もがあるが、もちろん世の中に戦争賛美の映画などと自称するものはない。戦争そのものが「平和のため」に行われているくらいだ。露骨な表現の「国のため」を、「君のため」と言い変えて、やんわりと戦争賛美を注入する所がこの映画の悪質な意図だろう。

「コロリと丸め込まれ」たのだが、よく考えてみれば「死にに行く」ことはちっとも「君のため」にはならなかった。もはや戦局は敗色濃厚であり、特攻隊は少しでも有利な講和を得ようとしてのことだった。「有利」とは誰のためのものだったのか。講和を有利にして、強大な軍部を温存したかったのか、帝国天皇制を続けたかったのか、婦人参政権は無いままにしたかったのか、財閥は解体せずに経済を支配させたかったのか、不在地主による小作制度を温存したかったのか、華族・平民などと言う身分制度を残したかったのか。もちろん「君のため」ではあり得ない。

石原に限らず、すりかえイデオロギーと若者の死のロマンチシズムを結び付けた特攻隊信奉者は結構いるものだ。神風特攻隊は評判の悪い自爆テロとは違うと主張して止まない。特攻隊は軍事施設を目指したものだからテロではないなどと言っても9.11では一機は米国防総省に突っ込んだわけで、もちろん参謀本部ペンタゴンは軍事施設だ。こういった人たちはあまりにも特攻隊の真実を知らない。冷静に考えれば自爆テロなんか馬鹿馬鹿しくてやっておれない。 特攻隊員は犬死させられた戦争の犠牲者である。

なぜ特攻隊自爆テロが馬鹿馬鹿しいかと言えば、まず、命中率が低いことである。人が操縦しているから必ず当たると思えば大間違いだ。飛行機というのは翼があり、その設計が難しいことでもわかるように少し狂えば、空気力学的に軌道がそれてしまう。上空から急降下したとしても、目標艦船からは雨霰のごとく弾丸が飛んでくる。目標に近づけば近づくほど弾には当たりやすくなり、全く弾を受けずに突っ込むことはあり得ない。パイロットに当たらずとも、翼の端に当たっただけでも軌道がそれ、結果的にはほとんどの特攻機は海に突っ込んでしまった。ねらいがつけば翼がない爆弾のほうがよほど命中しやすい。大岡昇平が調べた特攻の成功率は7%である。

通常の艦船攻撃では多数の攻撃機を用意して敵弾を分散させることで飛行機側の被弾確率を下げる。被弾確率が下がれば、それだけ敵艦船に近づけるので爆弾の命中確率も上がる。米軍では100機200機という多数の攻撃機を集中して戦艦大和のような重装備の艦船もたいして犠牲を払わずに沈めてしまった。特攻隊の場合、数機だけで出撃するのだから大量の防空砲火が集注し被弾確率が極めて高いのも当然である。とりわけ、近接信管(注1)が装備された後期には、米軍高射砲の命中率はほぼ100%になった。ほとんどが敵に近づく前に撃ち落されてしまうのだから馬鹿馬鹿しい。

さらに馬鹿馬鹿しいのは、うまく命中したとしてもその威力が大きくない事だ。爆弾を落とせば、速度はsqrt(2*g*h)で 600mの高さからだと重力だけでも時速400kmになるのだが、これが急降下の速度に加算される。ところが飛行機につけたままだと翼が邪魔になってとてもそんなスピードは出ない。九九式軽爆の最高速度は250km/hでしかない。空中で爆弾がはじけて、破片が飛び散っても軍艦は沈まない。軍艦の装甲を破壊するには突っ込む速度が大切なのだ。

威力の小さい特攻で効果を上げるためには爆弾を大きくする他ない。最初250キロ爆弾を積んで行ったのだが500キロとか750キロを積むようになり、重たくてヨタヨタと敵艦に近づくことになったのだから、またまた成功率は下がってしまう。

ところが日本軍の記録では特攻の命中率は高いことになっている。特攻攻撃の成果を見届ける偵察機は撃ち落されては困るので、もちろん敵艦船にはあまり近づけない。よく見えないから、つい贔屓目の報告をしてしまう。場合によっては戦友の無駄死にを報告するに忍びなく「空母轟沈」などと誇大な報告もしてしまう。台湾沖海戦の成果などはほとんど架空のものだったことが知られている。こういった誇大報告に基づいて特攻攻撃が有効なものとされてしまい、全機特攻などという方針が決められた。

最初の神風特攻隊である関大尉の敷島隊は5機で、米機動部隊主力に攻撃をかけ、その成果は2機が空母に突入して轟沈させ1機が別の空母に大火災を起こし、他の1機が巡洋艦を轟沈し、打ち落とされたのは1機ということになっている。これが事実なら大成果と言えるが、実のところ攻撃対象は機動部隊主力ではなく輸送空母船団つまり、輸送船に飛行甲板を取り付けて航空機を積めるようにしたものの集まりに過ぎなかった。

後の特攻とは異なり、レイテ沖海戦で米主力が手を取られている隙を突いての攻撃だったので途中で敵戦闘機の迎撃に出会うこともなく無傷で目標艦船に到達出来たのだが、ファンショウベイに向かった2機は打ち落とされたし、ホワイトプレーンズに向かった1機は艦橋をかすめたが被弾して海上で爆発した。キトカンベイでは1機が甲板に接触したが、海に落ちた。つまり、精鋭を選んだ最初の特攻でも5機の内4機は不成功だったわけだ。

しかし最後の1機は、セイントローに突っ込み改造輸送船の飛行甲板を打ち破った。丁度そこが弾薬庫になっていたために引火して大爆発で、セイントローは沈没してしまった。輸送空母ではあったがともかくも空母が沈没したことは米軍も認めた。誇大報告ではあったが後のものに比べればまだ謙虚なもので、一応実質的成果はあったことになる。大本営発表では何隻も撃沈させているのだが、実は「空母を沈没させる」ことは真珠湾でも果たせなかった(注2)日本海軍の夢であった。この偶然的な成果がその後の「全機特攻」に至らしめる契機になったことは間違いない。

結果的には熟練のパイロットを多く失い、日本のパイロットは技量的にも下手糞な即製パイロットばかりになり通常航空戦でも米軍に歯が立たなくなってしまった。実は技量の高い操縦士の場合、挑飛爆撃と言う特攻なんかより遥かに有効な手段があり、万朶隊の佐々木伍長などは特攻に出撃しながら、何度も戦果を挙げて生還した。初期の特攻では司令官がさんざ特攻訓練をさせた挙句に、責任逃れに「各自が最も効果的と判断する攻撃方法を取れ」と訓示してしまったことを逆手に取ったわけだ。なんとか敵艦まで飛べるだけの即製操縦士が特攻に出かけても、それは自爆テロにさえ至らぬ単なる自殺でしかなかった。これが特攻隊の真実である。

「死にに行く」のはちっとも「君のため」ならなかったばかりか戦争にさえ役立たなかった。特攻で全く成果があがらなくなった後期では、やたら「記念日」の出撃が多い。もはや戦果などどうでもよく、出撃させることで闘っているというポーズを取ったにすぎない。高級軍人の単なる面子のために死んだ隊員ほど気の毒なものはない。発案者の大西中将が隊員の亡霊に悩まされ、終戦の日に自殺してしまったのも、まあ当然のことだ。

(注2)ホーネット、レキシントンなどは修復不能にまで破壊されて米軍の手で処分されたが轟沈ではない。ヨークタウンは航空戦ではなく潜水艦の魚雷攻撃で沈んだ。

(注1)飛行機は高速で飛んでおり、高射砲の弾が直接機体に当たることは難しい。だから時限信管を使い、あらかじめ決められた時間に爆発するようになっていた。爆発時に敵機が半径20m以内位におれば損壊させることが出来る。しかし、実際には発射前に時間を設定するのが難しく、急降下爆撃などに対しては、設定する余裕がなかった。だから重装備の戦艦大和なども航空機の急降下爆撃に弱かった。ところが、米軍は大戦中に近接信管を開発した。近接信管を装備した砲弾は電波を発し、反射で敵機が近くにいることを検知して自動的に爆発する。これで、特攻機が突っ込んで来ても、必ず当たるようになった。近くで20mも狙いをはずすのは難しいくらいだ。末期の特攻機は全部撃ち落された。

日清戦争・成歓の闘い [歴史への旅・明治以後]

大日本帝国の歴史は戦争の歴史である。開国以来日本は戦争を重ねてきた。その第一歩が日清戦争であり、日清戦争の緒戦が成歓の戦いであり、そのまた最初の衝突が世に言う安城渡の戦あるいは佳龍里の戦闘である。華々しく戦争の世界にデビューした日本の姿を伝える講談調の書き物には事欠かない。どれもが、待ち伏せして襲い掛かる清国兵の大軍、軍人戦死第一号である松崎大尉の鬼神の奮闘、死んでも喇叭を吹き続けた壮烈喇叭手など、様々なエピソードを持って語られ、日本が輝かしい最初の勝利を手にした事を伝えている。

しかし、事実は多少異なり、実はこの戦闘で、見方によれば日本は負けたのではないかということが今からここに書く主題である。戦闘詳報や当時の新聞記事などを調べて、定説と異なる結論を得たのだ。というより、この戦闘はあまりにも伝説化されていて批判的に検討されたことがなかったのではないだろうか。

日清戦争は1894年8月1日に始まり、翌年4月17日に終わった日本と清国の戦争である。明治維新で中国、朝鮮より一足早く近代化を成し遂げた日本は、早速西洋国家の後追いで対外進出を始めた。明治維新早々に征韓論というのがあって、朝鮮に攻め込むことが議論されたが、結局は政府内部でまとまらず、逆に国内で分裂して、西南戦争を始めてしまった。それがこんどは「朝鮮の独立を守るために清国と戦う」などと言うことになった。宣戦布告文の草案が何種類かあって其の中には「清国及び朝鮮国に対して宣戦を布告する」なんてのもあるくらいだから実にいい加減な理由付けだ。

そのころ朝鮮では東学党の農民一揆があちこちに起こり政情不安であった。朝鮮は清国に援助を求めた。清国は朝鮮の「宗主国」を自認しており朝鮮に問題が起これば軍が駆けつける安保条約のようなもので結ばれていた。ところがこの状況に対して、清国軍では日本人の安全は守れないとして、(例によって)在留邦人の保護という理由をつけて日本も清国を上回る大軍を朝鮮に派遣してしまった。広島にあった第5師団に大島義昌が率いる混成旅団が編成され、これに広島11連隊と岡山21連隊が属した。喇叭手美談で知られる木口小平も白神源次郎も21連隊の兵卒である。

広島は、山陽鉄道が開通して広島までの鉄道が使える様になったので、兵器・兵員の集中拠点として大変都合がよかった。広島から宇品港を出て朝鮮半島に出撃することも出来る。日本軍は西郷隆盛らが征韓論で作戦検討したとおり、仁川に上陸し、そのまま京城まで行ってしまった。朝鮮王宮に押し入り、朝鮮軍を武装解除して国王を捕虜にしたのだからこれは日朝戦争と言っても良いはずのものだ。抵抗が少なかったので華々しい戦闘にはならなかった。それでも1等卒早山岩吉が戦死しているし韓国側にも戦死者が出ている。この時点ですでに戦死第一号が松崎大尉であると云う定説が崩れる。


捕虜にした国王に「清国軍を追っ払って欲しい」と言わせて、これで清国に対する宣戦布告の理由が出来た。宣戦布告文案からは「及び朝鮮国」が抜けた。大義名分が出来たのが7月23日、7月25日には清国が日本に対抗して増援兵を送るために英国からチャーターした輸送船を襲っていきなり千人以上を殺してしまった。日本軍は真珠湾でもそうっだったが、不意打ちを食らわすのが得意の戦術で、思いっきりひっぱたいておいてから、「喧嘩だ。さあかかってこい。」と叫ぶのである。豊島沖海戦と呼ばれる輸送船襲撃事件は、まだ宣戦布告も出していない時点だから実に乱暴な話だといえる。沈む輸送船から投げ出された千名の清国兵を助けず皆殺しにしてまったのは残虐行為だが、当時のいい加減な国際法には違反していないそうだ。

清国軍は京城に攻め込むというようなあつかましいことは出来ずに京城のかなり南にある牙山を本拠に農民一揆の討伐を行っていた。増援軍は皆殺しにしてしまったから、当面は数的にも日本軍が有利である。早期の開戦が望ましい。日本としてはまず牙山の清国軍を叩こうと言うことで混成旅団が南下した。23日の王宮占拠から25日の豊島沖海戦、29日の成歓の戦いまでの実に素早い動きは充分に計算された計画に基づくものであったことがうかがい知れる。時期早尚として一時は退けた征韓論から20年。練りに練った作戦を展開したのだ。

素早い動きが出来た理由の一つは、もうひとつの日本の得意技、「補給をしない」と言うことである。太平洋戦争では補給のことをよく考えていなかったために負けたようなことを言うが、実際はよく考えた上で補給はしないことにしたのである。大島旅団からの補給の要請に対して、答えた大本営の6月29日の訓令はそれを明確に述べている。補給隊を送れば、その補給隊の食料まで送らなくてはならなくなり、きりが無い、戦争と言うのは補給無しで身軽にして始めて戦えるものだ。補給の要請なんてとんでもない。もうこれからはこんなことを言って来るな。そんな事をあからさまに書いている。

というわけで、食料や馬は原則現地調達つまり略奪でやることになった。確かに理屈は通っている。登山隊のことを考えれば、ほとんどの人員はベースキャンプから第一、第二キャンプへの補給隊になっている。山頂へのアタック2人に対して50人からの登山隊を組織する。まともに補給すれば50人中2人しか戦わないことになるのだ。逆に言えば古来、遠征軍とか侵略軍とかは全て略奪でやって来たということだ。日本軍はこれを徴発と言っているが、徴発とは強制的に入手することで値段は買い手が勝手に決める。値段をゼロにすれば強盗である。

補給を徴発でまかなうと言うのも実は楽ではない。それはそうだ。だれだって略奪されるのは好きではない。当然、現地の人は軍隊を見れば逃げ出すし、食物は隠す。馬なんかを取られたら農耕も出来なくなるから大変だ。徴発された人足は当然隙を見て逃げ出す。木口小平も白神源次郎も、第3大隊に入っており、隊長は古志正綱少佐であった。生真面目な人で上層部の信用も厚かったので、旅団が苦労して略奪した50頭ばかりの馬と人足をこの第3大隊で預かっていた。ところが牙山に向かって進軍し始めて3日目の夜、この馬と人足に荷物ごと逃げられてしまった。そのため混成旅団は食料不足に陥ってしまった。参謀長長岡外史に怒られた古志少佐は責任を感じて自殺してしまう。これが日本軍戦死の実質二人目であるがもちろん公式には戦死とはなっていない。第3大隊は大隊長不在のまま戦場に赴くのである。この混乱が第三大隊の兵士たちに無残な死に方が生れた遠因とも考えられる。

混成旅団の戦闘詳報によれば、7月28日は素砂場で野営し、7月29日早朝2時に牙山に向けて出発した。出発時刻からもわかるようにこれは単なる行軍ではなく夜襲をねらった出撃である。宣戦布告はまだだが、情況はもう開戦したも同じで、清国兵はおそらく牙山の手前に進出して来ていて明け方に成歓あたりで衝突することが予想された。連日雨が降り続いていたので、道は糠り、闇夜の行軍である。安城渡で河を渡った。ここでは戦闘は行われていない。この戦いを安城河の渡河作戦とする書き物は、詩吟の定番である「松崎大尉戦死の詩」など全て間違いと言うことになる。

ここから成歓までは田圃の中の細い一本道となる。いくらなんでも敵が山峡の要害で待ち受ける成歓まで、この細い道を縦列になって歩いて行く手はない。旅団は二手に分かれ、主力左翼隊は山伝いに東に迂回して成歓の東から攻撃する。右翼隊は陽動作戦でそのまま街道を進んで成歓の西に出るということになった。白神たちの第3大隊は右翼隊で、先頭は松崎直臣大尉が率いる第12中隊。後に続くのが10中隊と9中隊、第7中隊で、工兵中隊や衛生隊が後尾になった。おそらく木口は第12中隊、白神は第9中隊にいたと思われる。報告に出てくるのは将校ばかりで兵卒については所属すらなかなか明らかにできない。

20分ほど歩いて秋八里の手前600mの所まで来た。「キリン洞」と書いているが「佳龍里(キョロン)」だろう。雲の切れ目に弦月が出てうっすらと物が見えるようになった。前方30メートルのところに家が何軒かあり、そこに清国軍の「師」旗が2本見えた。と思ったら急に家の蔭から射撃が始まった。猛烈な射撃でおそらく400人からの軍勢だと判断したと報告しているが、戦闘詳報は必ず敵を多く報告するものだ。小屋の後ろに隠れるくらいだから実際には200人くらいだっただろう。清国軍の突然の射撃に反撃する形で戦闘が始まったとしている。木口小平はおそらくこの一斉射撃で死んだのではなかろうか。喇叭を吹く余裕はなかった。中隊長の松崎大尉もこの時死んだだろう。松崎大尉は日清戦争の戦死第一号ということもあって、その戦死は美化されて大々的に語られている。突撃してサーベルで切りまくったことになっているが、それではこの突然の一斉射撃とつじつまがあわない。戦死第一号はこの200丁以上の銃による30mの至近距離からの一斉射撃によるものと考えるしかないからだ。

第12中隊は道路から田圃に飛び降りて左側散開して伏せた。後続の中隊もそれぞれに田圃の中に入って泥まみれで散開して前方の家屋に向かって射撃しながら突撃の体制を準備した。第7中隊と第10中隊の一部は右側に回って射撃した。3時45分、突撃命令で600人が一斉に襲い掛かった。このとき進軍喇叭が鳴り響いたことは従軍した新聞記者が記録している。部隊が突撃すると清国軍はかなわぬと見て背走した。暗くて敵味方入り混じった状態では追い討ちの射撃も充分には出来なかった。一応は敵を追い払ったのだから日本軍の勝利ではある。しかし、清国側の記録では、逃げる日本軍を水構に追い落して打撃を与えて、さっと引き揚げたと言うことになっている。

この「水構に追い落として」と言うところは日本側の記録にも出てくる。21連隊の戦闘詳報にも時山中尉以下24人が溺死した書いてあるが詳しい情況は書いてない。いくつかの通俗本ではもう少し詳しく説明してある。当日は闇夜であり、泥まみれで突撃の際、増水した田圃は渕との区別がつかなかった。第7中隊の時山少尉は第7中隊と第10中隊の1分隊づつ計23人を率いて右翼側から突撃する命令を受けたが、そこは運悪く渕になっており、深みにはまって全員が沈んでしまったと言う。重い装備を背負って、泥沼に踏み込んでしまったのだから泳ぎ様も無い。溺死が多かったことからこの戦いを渡河作戦だとする解釈が生れたのだが事実は異なる。

当初の報告では時山中尉は行方不明で、溺死の事実は隠されていたが、正式な報告でははっきりと溺死と記述している。これには、敵の死体を数えたら将校1と兵卒20でしかなかったことがからんでいる。この日の日本軍の損害は合計35名だから溺死の24名を除外しないと清国軍より大きな損害となる。結局、佳龍里で戦死は将校1兵卒5で日本軍の勝利が正式報告と言うことになった。激戦と言われるにしてはあまりにも少ない損害と驚かざるを得ない。

通俗本の溺死状況をはじめ、よく言われている成歓戦の様子は疑わしいところがかなりある。「時山中尉が第7中隊と第10中隊の2分隊を率いて」と言うのも実に妙だ。時山中尉は第3大隊第7中隊の第1小隊長で、配下に5分隊70名ばかりを指揮しているのである。戦闘のさなかに自分の小隊の1分隊だけと全く別の大隊の1分隊を率いて行動するわけが無いだろう。戦闘詳報にある「第7中隊の1分隊と第10中隊の1分隊を右翼に増強し」を勝手に時山中尉に結びつけたものだろう。屍体検案書が残っている溺死者は2人だけだが二人とも第9中隊だ。一方、野戦病院の記録からは第12中隊3人第10中隊3人第7中隊1人がこの日全体の戦死者になっている。第9中隊は戦死の記録がなく、死亡15名だからほぼ全員が溺死である。結局、時山中尉とあと7人の第7中隊員と第9中隊の15人が溺死したことになるが、これは別段時山中尉に率いられての特別の行動ではないだろう。白神源次郎は第9中隊だから溺死したものの1人と考えられる。

ではどのようにして溺死することになったのだろうか。軍の記録以外にも一次資料はあって、大阪毎日新聞の高木利太、東京日日新聞の黒田甲子郎がこの日従軍している。二人とも進軍喇叭の響きを文章に伝えているが、喇叭手のことについては何も触れていない。これからも喇叭手美談が現場で生まれたものではなく、内地で作られたものであることがわかる。注目されるのは黒田甲子郎の記事で「一部は少く背進し瀦水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来るを以ってここは畢竟枝隊の敗戦と見受けられたり」とあるから、戦闘詳報には一言も書いてないが、日本軍が一時的にせよ「背進」つまり逃げたことは確かだろう。清国側の記録の通り、逃げる時に水溝に落ちたのかあるいは、攻撃の時に落ちたのかのどちらかだろう。

水死体を実況見分した報告書によれば17体を発見した場所は安城川の支流につながる水構で、佳龍里からは北に400mほども離れている。だから、「突撃」で落ちるには少し遠すぎる場所だ。行軍隊列が長くなって、戦闘が始まった時点では9中隊7中隊はまだ川を越えずにいたとも考えられるが、工兵隊、衛生隊が渡河して川堤に布陣したのだから、これらの中隊はもっと前進位置になければならないし、実際10中隊7中隊の分隊は右翼へ回って射撃している。つまり、ここの地形としては退却する以外に水構に落ちることは出来ないのである。

さらなる疑問は緒戦の部分にもある。清国軍は堂々と「師」の旗2本を掲げているのだから「伏兵」はないだろう。そもそも、佳龍里の集落は成歓街道からは100mも離れている。ただまっすぐ行軍していたのでは30mの距離には近づけない。清国軍は単に野営していたのではないか。まだ宣戦布告前で開戦はしていないし、真夜中の三時だ。「師」の旗2本を見て、日本軍はこっそり近づいて寝込みを襲おうとしたのではないだろうか。街道からはずれ30mまで近づいたところで清国軍は日本軍の襲来に気づき、あわてて撃ってきた。こう考えないと30mの至近距離から待ち伏せしていた400名が一斉射撃したことになり、先鋒の12中隊で戦死者が僅かに4名しかいないのは説明がつかない。

計画的な一斉射撃ではなかったがかなり猛烈な射撃と思われたので、日本軍も慌てて一旦は逃げた。なにしろこれまで一度も本格的な戦闘を経験したことのない兵隊たちだ。先頭部隊である12中隊が攻撃を受け、続く10中隊も浮き足立った。まだ川堤から遠くないところにいた7中隊、9中隊は、慌ててばらばらに逃げようとして一部が転落した。これが9中隊7中隊にまたがって溺死者が出た理由だ。しかし、清国軍は追ってこなかったし、日本軍の軍勢は倍以上あり、優勢なので体制を整えて反撃することにした。日本軍が再び前進すると清国軍は撤退していった。...というのが本当のところではなかろうか。突撃したと言う日本軍の本隊では戦死者が殆ど出ていない。最初の射撃戦以外に清国軍の攻撃はあまりなかったとすると12中隊の戦死者4名はやはり最初の射撃の時のものに限られる。攻撃を受けた第12中隊第1分隊の木口小平は、弾丸が心臓を貫く即死で、進軍喇叭を吹く前に死んだ。進軍喇叭を吹いたのは12中隊にいたあと二人の喇叭手北田文太郎か奥津友太郎だと言うことになる。

あまり華々しくもない最初の戦闘も軍国日本としては美化せざるを得なかった。逃げて溺れた戦争も武勇伝に変えられてその後の戦争のモデルとなったのである。

木口小平の真実 [歴史への旅・明治以後]

岡山から伯備線で一時間、備中高梁に行くと木口小平の記念碑がある。知らない人も多いだろうが、年配の老人は必ず知っている有名人だ。戦時中、むりやりにでも覚えさせられた名前で、最近また有名にしようという動きもある。「つくる会」のアナクロ教科書が戦前復帰で木口小平を復活させた。ところがその記述を見てみると、「死んでもラッパを手から離さなかったとして、その当時、有名になった。」となっている。「手から離さなかった」だけなら単なる死後硬直でしかない。ラッパを"口からはなさずに"死んだと言う職務遂行の執念がこの美談のポイントなのだから、とんでもない誤りと言える。

この教科書は内容が杜撰で初歩的な誤りが多いそうだが、自らが主張する重要部分ですらこの程度のいい加減さで作られているのには驚かされる。政治的主張だけがあって、子どもたちにまともに歴史を教えるつもりの全く無い教科書である。第三期国定教科書の「キグチコヘイハ、シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」は、われわれ団塊世代でも親から何度も聞いて覚えているくらいだから、戦中世代にはよほど脳みその奧まで刷り込まれたフレーズだったはずだ。

実際にどのように扱われたのかを調べて見ると、ラッパ手の武勇伝は早くも日清戦争直後から教科書に出てくる。しかし、その名前は木口小平ではなくて白神源次郎となっている。尋常小学校修身教科書は「しらがみげんじろうは、いさましいらっぱそつでありました。げんじろうはてっぽうのたまにうたれても、いきがきれるまでらっぱをふいてゐました」と書いている。岡山県浅口郡水江村(現倉敷市)には明治二十九年に建立された記念碑もあり、日清戦争直後から大変有名になって、「姓は白神名は源次郎……」と言う歌も出来たことがわかる。だから「当時有名になった」のは木口小平ではなくて白神源次郎である。

日清戦争当時はまだ国定教科書と言う制度はなかったのだが、明治35年(1904年)に国定教科書が出来ると共に「アトデミタラ、コヘイハ、ラッパヲクチニアテタママデ、シンデヰマシタ」と名前が改められ、最終的には先出の「シンデモラッパヲ」のフレーズになったというのが事の次第だ。なぜ7年あまりも経ってから教科書の登場人物の名前が突然変わると言うことになったのだろうか。原因は広島の第五師団司令部にある。

明治政府が徴兵制を敷いて、これまで武士の専権行為であった戦争に庶民を駆り立てることとなった。初めての対外戦争である日清戦争では本当に百姓・町人の兵隊で戦意高揚できるのか非常に不安だったのである。そのためどうしても下級兵の戦争美談が必要になった。海軍では三浦虎次郎という18歳の三等水兵を「まだ沈まぬか定遠は….」の勇敢なる水兵として歌い上げた。陸軍でも終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ手が戦死したという話に飛びついて尾鰭をつけた英雄談を作り上げて発表した。つまり、戦争美談が先にあって名前はあとから当てはめたのである。このラッパ手に該当する兵隊はいるのかと広島第五師団を通して21連隊に問い合わせた所、戦死したラッパ手として白神源次郎の名が帰ってきた。この話ははたちまち有名になり、新聞報道され、錦絵になり、歌も出来た。白神源次郎は庶民の英雄となり、国民の戦意は高揚し広報作戦は大成功だった。

白神源次郎がどのような人物であったかというと、元は高瀬舟の積越人足であったが、徴兵されて岡山21連隊でラッパ手となった。分隊ラッパ卒というのは戦闘部隊ではあるが実際に武器を持って戦うわけではないので兵隊の中でも軽く扱われ、二等兵が当てられる。兵役中白神の力強いラッパはかなり評判が高かった。21連隊のラッパ手と言えば白神の名前が出てくる存在であった。どうせ誰も戦死の現場でラッパの位置を確認したわけでもないので、21連隊の戦死したラッパ手として問い合わせがあれば、白神の名前が返ってきたのも当然であろう。白神源次郎は徴兵され訓練を受けただけで満期除隊したのだが、日清戦争が始まり再び予備役召集を受けた。このとき27歳で1等卒であるからもはやラッパ手ではない。白神は戦闘員として戦死したものの一人だ。

白神は成歓の戦で戦死したがラッパ手ではなかったと言うことは直後から言われていた。陸軍としてはもともと誰でも良かったのだから、白神の名でどんどん宣伝した。しかし、戦争が終わって公式戦史をまとめる段になって困ったことが起きてしまった。広島第五師団の大島旅団が仁川に上陸して最初の戦闘である成歓の戦では、前日から続く雨のため道は水田と区別がつかぬほど水にあふれて行軍が難航した。佳龍里 で待ち伏せしていた清国兵の小屋からの狙撃で戦闘が始まり、結局清国軍を蹴散らしたのだが、夜間で視界が遮られ、運悪く水溝に落ちて23名が溺死してしまった。白神もその中にいたのである。溺死ではラッパの吹きようがないではないか。

戦闘中のことだから溺死であれ弾丸死であれ名誉の戦死で良さそうなものだが、そうも行かない事情があった。佳龍里で戦死した敵兵は将校1、兵卒20でしかない。35名が死んだ日本軍は溺死した23人を戦闘外としないことには、初めての本格的戦闘で負けたことになる。清国軍が巧妙な待ち伏せで打撃を与えてさっと引き揚げたと言うのでは困るのだ。実際、清国側の戦闘記録ではそのような記述になっている。23人の溺死は、当初の戦闘詳報では隠していたが、結局公表することにした。このため白神源次郎の扱いも変えなくてはいけなくなってしまった。

日清戦争における兵卒の扱いはひどいもので、どの戦闘詳報を見ても兵卒の名前は出てこない。防衛省防衛研究所は当時の手書きの戦闘詳報を保持していて、今では○秘資料も公開されているが、将校については戦死の情況などが書かれていても、兵卒は単なる数でしかない。もちろん、ラッパ手の記述はどこにもない。白神源次郎の話は「日清戦争軍人名誉忠死列伝」(尚古堂,明27)にも出てくるし、通俗本にもなっているのだが、著者も資料がなくて書きようがなかったのだろう、中身は隊長松崎大尉や大島旅団長のことばかりになってしまっている。もともと何も書いてないのだから戦闘詳報で名前を取り違えたなどということでも、もちろんない。

さすがに、8月15日になって旅団から正式に出した戦死者名簿には兵士全員の名前が載っている。第五師団は同じ日に戦死したラッパ卒木口小平の名を見つけ出して、「諸調査の結果、かの喇叭手は白神にあらずして木口小平なること判明せり」と一年後に発表し直すことになったのである。そこで今まで誰も知らなかった木口小平の名前が急に出てきた。白神は溺死だが木口の方は確かに弾に当たって死んでいる。屍体検案書もあって、「左胸乳腺の内方より心臓を貫き後方力に向かひ深く侵入せる創管を認む」だから即死で、息も絶え絶えに喇叭を吹きつづけたなどということはありえない事もわかる。

「日清戦争名誉戦死者人名録」(明治28年、金城書院)にも、白神など1000人ほどの名を網羅しているにもかかわらず、木口の名はないから、木口の戦死については全く噂にもならなかったようだ。一度発表して有名になってしまったものを誰も知らない二等卒に取り替えるのは容易ではない。7年後になって国定教科書を作る時点で書き換えを無理やり断行することになった。無論、後の小国民は最初から木口小平だったとして暗誦させられることになった。

戦死と言っても鉄砲玉に当たるばかりではない。成歓の戦では21連隊の戦死者35名のうち白神源次郎を含む23名が溺死だった。日清戦争全体でも日本軍の死者は13488人だが、本当の戦死はその一割にもみたない。11894人が戦病死で、コレラ5991人、赤痢1660人、チフス1326人になっている。台湾出兵での病死が大きい。日本軍はこの当時から一切補給を行わず、食料は略奪による現地調達を最初から決めこんでいた。せっかく略奪した馬に逃げられたと言うことで責められ、白神たちの大隊長古志少佐は戦闘の前に自殺している。これも指揮の乱れで溺死者を出した原因だろう。補給の無い戦場で下級兵卒の苦難はひどいものだっただろう。だからこそ、英雄木口小平が必要だったわけでもある。

「終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ卒」と言う意味では実は白神も木口も当てはめようがない。日清戦争は1894年8月1日に宣戦布告であるから、二人が戦死した1894年7月29日の成歓の戦は公式には戦争が始まる前の小競り合いでしかない。しかも戦闘が始まるやいなや戦死してしまったのだから全軍を励ますどころではない。あえて当てはめるなら平壌戦まで戦って死んだ21連隊のラッパ手、船橋孫市と言うことになるだろうが、そのような訂正はなかった。戦争美談というのはこのようにいい加減なものではある。

後日名誉の戦死を大いに称えられたたが、木口も白神も実は何の恩賞にもあずかっていない。当時は、戦死で一階級特進等と言う制度は無かったし、勲章も死後には与えられなかった。一方、内地から出撃を命じただけの第五師団長野津道貫は戦功で男爵となり、年額千円の恩給を受け取るようになった。昔から戦争で得をするのは偉い人、損をするのは庶民と決まっている。
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