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文字使用の始まり [歴史への旅・古代]

日本に文字文化が生まれたのはいつごろのことだろうか。日本書紀では、応神天皇の15年(285年)に百済から王仁が『論語』と『千字文』をもたらしたのが公式な漢字の伝来となっている。『古事記』的に120年ずらせば405年だが、青銅鏡や剣に文字が現れていることから、実際はもっと早いと言うのが大方の見方だ。

だが、僕はもっと遅いと見ている。『千字文』の成立は518年頃であり、日本書紀の記事はそもそもがおかしい。『千字文』と言うことであれば、518年以降になる。文字は存在を知ればすぐに使えるものではない。習得のためには練習がいる。だから日本書紀執筆当時、文字使用に千字文のようなテキストが必然だとういう認識があったのだ。テキストの輸入は518年以後、文字の使用は600年近くだったに違いない。

文字文化の普及に筆と紙は不可欠だ。平安時代になってからでさえ木簡が使われたくらい紙は貴重だった。木簡や粘土に刻み込みでは長い文章はありえないし、知ればすぐ使えるものではない。その意味でも、上層部の限られた人にあっても、文字使用は、紙が作られるようになってからであると考えるのが順当だ。

紙は経文として仏教伝来と共に日本に持ち込まれてはいたが、紙の製法についてはもっと遅れた、日本書紀でさえ610年に高句麗の曇徵がもたらしたものとしている。610年には紙の有難味が理解される状況だったと言うことは、それより少し前に一応文字が使われるようになっていたことを示すのではないだろうか。文字使用は600年頃からと言うことになる。

文字だけについていえば、仏教伝来以前、三世紀の銅鏡にも見られるが、字画の左右が反転したり、記号的なものと混用されたり、単なる模様として使われていることが明らかだ。文字が文字として機能していなかったことがわかる。文字は存在したが使われてはいなかったのだ。

中国では早くから文字が使われ、倭国も金印を貰ったりしているから「漢倭奴国王(ハンワヌグオワン)」と言う中国語の意味などは理解していたことだろう。日本で使われていた言葉は口語体だけであり、口語体の文章を文字で表すのは困難だ。文字を日本語に使おうとすれば、まず文語体という特別な日本語から発明してかからねばならない。文語体で初めて漢文が成り立ち、日常業務に文字が使えるようになったのだ。文字を知ることから使う事には大きな隔たりがあるが、多くの論者はこのことを見逃しているように思う。

卑弥呼は魏に使いを送ったが「国書を以て」ではなく「使いを以て」上表したのである。本人が行くわけがないのに、わざわざ「使いを以て」とあるのは口頭での使いであったことを示している。そもそも卑弥呼の使い難升米は燕(帯方郡)に向けて出発したが公孫淵が敗北したことで急遽洛陽に行き先を変更したのだ。卑弥呼の魏への上表文など用意できるわけがない。

魏志倭人伝の内容も使者の尋問記録である。魏志倭人伝は倭国の内j情・文化・習慣についてかなりこまごまと記述しているが文字の使用状況については書いていない。蛮族が文字を使っておれば驚きだから必ず書くはずだ。書面で自ら「卑しい」とかの文字を使って名乗ったりしない。これは卑弥呼が書いたわけでなく中国側で音を勝手にあてはめた証拠だ。外国との交流は必ずしも文字を使ったものではないのだ。

古い時代の文字使用例として挙げられる江田船山古墳の鉄剣銘は無内容な吉祥文でしかない。吉祥文は文字使用の根拠にならない。Merry Christmasと書いたカードが見つかったからと言って英語が通用していたことにはならないのだ。

銘文にある典曹人という言葉を文官とする向きもあるが、他に例がなく勝手に官職としてしまうのはおかしい。工芸人の意味だろう。文脈から言えば明らかにムリデは被葬者ではなく刀工だ。ムリデが丹精込めて製作し、張安が文字を入れたこの刀の所持者に幸いあれと書いてある。誰に献納しても良い吉祥文である。

文字を書いた張安は製作にも発注にもかかわりなく、文字を書くことだけで名を残しているのだから、文字を書くことがどれだけ珍奇な事だったかがわかる。まだ文字が一般的には使われていなかったことを意味する。

後述する稲荷山古墳の鉄剣にも獲加多支鹵(カクカタシロ)という大王の名が出てくるところから、九州と東国を含む広域国家が成立していたと言われるがそうではない。この鉄剣はおそらく九州で作られたものではなく、鉄工が盛んだった東国の刀工が作って九州に渡ったものだ。獲加多支鹵(カクカタシロ)は東国の覇者だったのである。

稲荷山古墳出土の鉄剣にある115文字の象嵌は吉祥文以上の内容がある。被葬者と思われるオワケの来歴を記し、天下を佐治するまでになった事績をたたえる記念品だ。これから、471年には、ある程度文字が使われた事が確実だと言う主張がなされている。しかし、これが471年であるという根拠は非常に乏しい。471年というのは獲加多支鹵(カクカタシロ)大王をワカタケルとする無茶苦茶な読みで大和天皇に当てはめたもので何の根拠もない。呉音にしろ漢音にしろ支をケと読むことは全く不可能だ。大王が斯鬼宮にいたと書いてあるのだが、雄略天皇がいたのは泊瀬朝倉宮である。欽明天皇の師木嶋大宮にも滞在した可能性があるから雄略で良いなどとする強引さに驚く。

この鉄剣は大和王権とは何の関係もない。埼玉県の斯鬼宮に本拠を置き稲荷山近辺を支配していたカクカタシロに武人として代々仕え宰相にまでなったオワケの記念品なのだ。オワケが大和政権の宰相だったとか大和の剣が東国に伝わったとするのはおかしい。ヤマトの宰相が関東に葬られるわけもなく、家宝とも言える大切なものを家来に呉れてやることも考えにくい。

471年に根拠がないならばこれが何時のものなのかを考え直して見る必要がある。稲荷山古墳は前方後円墳であり、これが各地に普及したのは6世紀である。さきたま古墳群は6世紀のものとされているのに稲荷山だけが5世紀なのは、辛亥年を471年とした事と副葬品として出土した須恵器の年代が5世紀後半に符合していることによるものだ。実は稲荷山には2つの埋葬施設がある。一度作られた古墳を再利用して新たな古墳としたのだ。

稲荷山古墳の2つの埋葬施設は粘土槨部と礫槨部で地層が異なる。一度作られた古墳が榛名山の大爆発で壊れ、その後に礫槨部の埋葬施設が作られた。この大噴火は490年と530年に起こった。鉄剣は礫槨部で530年以降の新しい部分である。この部分の副葬品には画文帯神獣鏡があり、これは高崎市八幡観音塚出土の形式で7世紀後半のものだ。短甲ではなく桂甲が出土しており、これは行田市小見真観寺古墳と同じで7世紀前半である。このことから鉄剣の辛亥年は471年ではなくむしろ591年と理解すべきだ。やはり文字使用は600年頃から始まったと言える。

中国文献に通信文が残っているから倭の五王(413-502)は、朝貢に書面を使ったと考えられるが、これで文字が日本で使われていたとするのも早計である。倭王武の上表文は見事な名文であり、初期的な文字使用ではない。これだけの文章が書けるならば、完全に文字を使いこなし、政権中枢には様々な文書記録が残らねばならない。

しかし、倭の五王については日本側に一切記録がない。これは上表文が政権内部で書かれたものでないことを意味する。上表文は、おそらく使者が派遣途中の朝鮮で、文書の必要性を教えられ、適当な作文をしてもらったのだろう。これなら政権内部で文字使用がなくとも書けるし、日本に倭の五王の記録が残らないのも当然だろう。

まともに吟味して書いた国書ならば、一番大切なものは王の署名のはずだから、一文字名で代用したりするはずがない。中国への朝貢には中国風の一文字名が必要だったなどと理由付けするのは、こじつけである。匈奴の王は呼都而尸道皋若鞮単于などといった長ったらしい名前も書いている。

まだ日本には文字で書き表した名前がなく文字表現の仕様がなかった。朝鮮の王は一字名を持っていたから、それに倣って勝手に適当な文字を選んだ。出先で作ったから大王は文書の内容も関知してもいなかったということになる。

上表文は内容的にもヤマト政権が書いたものとしてはおかしい。徹頭徹尾、高句麗に対する敵愾心で固められた内容なのだが、日本書紀が伝える雄略天皇の事績は、ナンパと身内の権力抗争ばかりで、高句麗との抗争など何処にも出てこない。むしろ高句麗とは友好的でこんな上表文を書く動機は全く見られない。高句麗と敵対関係にあった百済あたりの官僚が勝手に作った作文だと考えるしかない。百済の官僚ならばこれくらいの名文が書けても不思議はない。

上表文では高句麗を名指しで攻撃しているが、日本書紀には高句麗と言う表現すら現れない。高麗という早くとも520年ころから使われ出した国名になっており、この事から逆に雄略記が記録に基づいたものでないことが伺える。日本書紀の著者は宋書を読んでいたから、本来なら引用した上で記録による解説を試みなければならない。倭の五王に関して一切の記録がなく言及の仕様がなかったのである。文字使用がなかったと言う以外に説明の仕様がない。

倭の五王に限らず、卑弥呼や難升米といった名前も後代の感覚からすると随分変わった名前だ。日本語自体が文字の導入で大きく変わったはずだから、当然名前についても文字使用以後とは異なる。文字使用が始まってからは、漢文調の名前が定着した。記紀を古文として文語体で読み下しているが、文語体自体が文字が使われ出してから発明されたものだ。文字使用が始まる前の日本語は口語だけのはずだ。奇妙な名前は文字使用がなかったことによるものである。

隋書倭国伝には、「文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶのみ」と使者の報告が書かれている。隋代(581年 - 618年)初期にもまだ文字は、使者が接触した日本の政権中枢にさえ普及していなかったことがわかる。隋書は「文字は仏教と共に伝わった」とも書いているので、隋書が書かれた656年ころには文字があったことになる。旧唐書になると「すこぶる文字あり」とはっきり書かれている。この変化、つまり日本での文字使用の始まりは、このことからも、おおよそ600年頃と言うことになる。

文字が仏教と共に伝わったとして、それが何時かと言えば、538年ごろである。仏教が広まったのは蘇我物部の宗教戦争が587年に終結してからだろう。文字は知ればすぐ使えるものではない。習得には時間がかかり、少し遅れて、やはり600年頃に広まったと考えるのが順当だ。出来事が文字で記録されるようになったのはそれ以後のことだ。

遣隋使の文字使用は第一回と第二回では大きな違いがある。600年の第一回遣隋使は日本側に記録がなく隋書の記述も使者の尋問記録だ。大王の名前も多利思北孤といった当て字が使われているからまだ日本には文字表記の名前がなかったことになる。日本ではまだ文字が使われていなかったと考えるべきだろう。しかし倭の官制として漢字を用いた位階を掲げている。文字が使われていたことになるのだが、600年にはまだ冠位12階が定められていない。この部分は608年の遣隋使によるものが混入したと考えるのが妥当だ。

608年の第二回からは日本側にも記録があり、「日出る処の天子」の国書を持って行ったことが明らかで確実に文字が使われていたと言える。第一回と第二回の間で大きな変化があったのだ。それはやはり600年ころの事だ。

「法苑珠林第38巻」には、著者道世と608年に遣隋使船で日本から来た会承との問答が載っているが、阿育王の仏塔が日本にも作られたかとの問いに対する答えは「彼国文字不説无所承据」。文字がないから記録がないという証言だ。歴史書などはないから会承は自分の見分として文字がないことを述べているのだ。それは608年からそう前のことではないはずだ。

文字が使えるようになった国家がまず最初に考えることは国史の編纂である。長い年月にわたって勝手な歴史を自由に語らせるようなことはしない。文字使用の始まりは681年に天武天皇が国史の編纂を命じた時からそう古い事ではないはずだ。文字使用が600年頃に始まったとすれば辻褄があう。681年までに書かれた歴史書もあったであろうが、「一書に曰く」の範囲を超えたものは全て抹殺された。実際、708年の大赦令でも禁書保持の罪は許されない重罪だとされている。

以上のことから、無文字文化から文字文化への変化、すなわち文字使用が始まり、文語体の日本語が形成され、日本に国家が形成されたのは、倭の五王以降で、第二回遣隋使以前すなわち6世紀の末ないし7世紀の始め600年頃のことだと思われる。

文字使用の始まりがこの頃であることの根拠は他にもある。記紀の記述で事実と確認できる最古のものは、推古28年(618年)のハレー彗星だ。天文軌道計算をさかのぼると日本書紀の記述と見事に一致する。この時代には記録を残すすべがあったことを示している。前代未聞の大事件として記録されているが、ハレー彗星はその76年前にも地球に接近したはずだ。当時の人がだれもそのことを知らず大騒ぎになったというのだから、その76年前には何の記録もなかったということだ。文字使用の始まりは542年から618年の間である。

少しずつ広まっていった文字の使用は、読み手書き手の数が一定整ったある時点で爆発的に使われだす。僕は1992年からEmailを使っているが98年頃までなかなか普及しなかった。広まり出したらあっと言う間に隅々まで広がった。メールの普及には10年もかからなかったのである。文字の使用についても、おそらく急激な普及があったに違いない。文字の使用は文化革命と言うべきもので、それは600年頃に起こった。

文字の普及は、国家機構の形成と同時進行する。それ以前には、いかなる命令も声の届く範囲に限られていたし、口約束だけで物事を決めなければならなかったから、族長の支配はあっても国家と言えるような組織ではあり得ない。国家に至るまでには、その準備期として、何代かの政権交代や権力統合があったはずだが、その経過が文字で記録されることはなかった。

文字によらない口承や記憶はあやふやなものである。現代でも、自分の祖々父が何をしていたかを聞いている人がどれだけいるだろうか。記紀はまるで昔から文字や国家があったかのように装って読み手をたぶらかしていることに注意する必要がある。600年以前の記事については、たとえ「一書」や「国記」からから取ったものとしても、あやふやな伝承と都合のいい創作を交えたものだと考えるべきだ。
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景初二年問題・・卑弥呼の使いは何時のことか [歴史への旅・古代]

邪馬台国の卑弥呼の事を日本で初めて書いた歴史書は日本書紀である。神功記に「魏志に云はく。明帝の景初三年の六月、倭の女王、太夫難斗米を遣して.....」という引用を入れている。ところが三国志魏志倭人伝に実際書いてあることは、景初三年ではなく景初二年に倭の使いが来て帯方郡太守劉夏が卑弥呼の遣いを都に送り届けたと言う事である。日本書紀は引用時に年号を間違ったことになる。

しかし、そのような単純なミスが校正されなかったのはどう考えてもおかしい。この書き換えは意図的なものと考えるべきだろう。万世一系、神国日本という書紀記述はどうしても外国文献との齟齬が生じる。この矛盾を解決するためのごまかしが必要になる。

神功皇后を設定して卑弥呼との関連をにおわしてはいるが卑弥呼だとは言わない。言ってしまうとまた別の矛盾が出てくるからだ。日本のことは諸外国にも知られて文献もあるがそれは十分正確ではなく、ここでの記述と矛盾しても当然なのだよという主張を伝えたかったにちがいない。他の史書を調べて意図的に三国志を訂正して引用したのである。

実際、日本では日本書紀が正しく、間違っているのは魏志倭人伝の方だという事がずっと言われてきた。新井白石も内藤湖南も景初三年説を取っている。その理由は、日本書紀の著者が調べたように、三国志以外の史書、梁書や北史に景初三年と書いてあるし、景初二年では辻褄が合わないことを指摘できるからである。

帯方郡の太守公孫淵は魏帝に歯向かい、景初元年には出頭命令を拒否し、独立を宣言して燕王を名乗った。司馬懿が討伐に向かい、公孫淵を討ち取ったのが景初二年八月二十三日である。卑弥呼の使いが来たという六月はまだ戦闘中で、帯方郡に太守劉夏が居て難斗米を都に連れて行ったなどということがあり得ようはずがないというわけだ。

三国志の序文にも「景初中大いに師旅を興して淵を誅す、又潛軍を海に浮かべ樂浪帶方之郡を収む、而後に海表謐然し東夷屈服す」とあり、帶方郡の支配を奪還したのは公孫淵を討ち取った後のことだと読める。晋書でも「宣帝の公孫氏を平らぐるや、その女王は使いを遣わして帯方に至り朝見し」と女王の朝貢は公孫氏を滅ぼした後のことになっている。

それでは、三国志本文が単純ミスを書いたかというと、それも考えにくい。良く読んでみると帯方郡の支配を取り戻したのは絶対に公孫淵を殺してからだとは言い切れないところがある。序文は2つの文の間を「又」で結んでいる。前後関係は必ずしも確定的ではない。晋書も「平ぐる」と書いているが、これが公孫淵誅殺と全く同じ意味であるとは限らない。

「潛軍を海に浮かべ」という海路遠征のことは魏志韓伝にも載っており、「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡」とある。何年とは書いてないが、「密かに」とあるのは、まだ公孫淵が健在だということを意味する。遼東に進出してきた公孫淵の背後を突いて、海から帶方・樂浪に太守を派遣したのだ。だとしたら、六月に楽浪郡の太守が卑弥呼の使いを受け入れ、都に送り届けることもおかしくはない。まだ遼東では戦闘が続いているが、本拠は魏の手中に落ちていたのである。

楽浪郡の太守が任命されたのはおそらく景初元年だろう。反乱した公孫淵から太守の地位を剥奪したのだから、この時点で次の太守劉昕を任命しなければならないはずだ。実際に魏の水軍が楽浪郡に乗り込んだのはもっと後であるが、司馬懿の遠征よりも早かったかもしれない。司馬懿の遠征軍の出発は諸葛孔明との戦いが終わるまで待たなければならなかったので反乱の一年後、景初二年になってからのことになったからだ。

景初二年六月に卑弥呼の使いが来た時には、楽浪郡の戦闘は終わっており、太守は劉夏に交代していたことになるが、これは戦闘部隊の指揮者としての太守から行政官としての太守への人事異動だと見ることができる。景初三年説なら、二年九月以降に派遣された太守が半年後には交代するというあわただしい人事の理由がない。

景初三年説には、もう一つ問題がある。それは魏帝が難斗米に与えた言葉だ。明帝は景初二年の末に亡くなっているから景初三年に謁見したとすれば、それはまだ八歳の曹芳と言うことになり、誰かの代筆であったとしても、「我甚だ汝を哀れむ」などという表現は全くふさわしくない。使節は明帝に会ったと考えるべきだろう。

公孫淵との戦闘中に倭の使いが来京したことをもって、魏と倭の同盟などというのは考え過ぎである。魏にとって倭国の軍事力などはゼロに等しい。女王国は「使役を通じる所三十国」の一つに過ぎず、倭全体を強力に支配しているわけではなかった。まだまだ部族社会の延長上にあり、「王朝」などと呼べる代物ではない。子細にばかりこだわると社会発展の視点を失ってしまいがちだ。

倭が直接的に朝貢したのはこれが初めてである。それまで倭奴国が朝貢したりしているが、出先機関である帯方郡に詣でたに過ぎない。倭は帯方郡の管轄になっていたのだ。公孫氏が帯方郡を支配するようになってからは、本国に倭の使節の報告もしなくなったから、正史では倭の記録が飛んでいる。この時も、いつものように倭の使節は帯方郡に赴いたが、本国との戦争という事態になっており、新たに赴任した太守が本国に難斗米たちを送り届けるということで初めての直接朝貢が実現した。

帯方郡まで六月に到着しながら明帝への拝謁が12月になったのは、無論、戦乱の影響である。明帝から下賜品を貰い印綬を仮託されたが、このあとすぐに明帝はなくなった。帯方郡から梯儁らの使節が倭に向かったのは、間があいて二年後の正始元年になったが、これは景初三年は明帝の喪に服さねばならなかったのだから不自然ではない。八歳の養子への相続であり政治的にも複雑で改元も行われなかった。

一年だけの違いではあるが、これがいくつかの歴史論争に影響を与える。魏が卑弥呼に与えた銅鏡百枚が出土している景初三年の三角縁神獣鏡であるとする説は、景初二年の朝貢では成り立たない。もっとも、三角縁神獣鏡は鉛の同位体分析からも銘文韻律の不備からも国産であることがほぼ確定したからこの論争はすでに決着済ではある。

資料の信憑性ということにつながることも大きい。三国志を改定した梁書や北史といった後代の書物は、不十分な考察で間違った訂正をしている可能性が高い。この訂正には邪馬壱国を邪馬臺国と書き換えたリ、壱与を臺与にしたりする操作も含まれている。
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九州王朝のつまづき [歴史への旅・古代]

九州なのか大和なのかをめぐる邪馬台国の論争は古くから続いているが、近年は九州説が優勢なようだ。九州説が有力となったきっかけは古田武彦さんの「邪馬台国はなかった」に始まる新しい考察の登場だろう。三国志を読み解くこの新しい視点は多くの人々を魅了した。しかし、古田史学自体は『東日流外三郡誌』で大きく躓いて、一挙に信用を失なうことになった。なぜ古田さんは、このような偽書の罠に陥ってしまったのかを考えてみたい。

邪馬台国論争に参入した古田さんの主張によれば、従来の説に欠けていたのは資料批判である。松下見林以来、日本書紀に従い、日本の中心地は大和以外にあり得ないことを前提として中国文献もそれに合わせて読み取るということが行われてきた。まったく合理的とは言えない考え方が長らく史学を支配しており、誰もそこから踏み出せていなっかったという鋭い指摘であった。

魏志倭人伝には邪馬壱国と書いてあるのに邪馬台国と読むのはヤマトにつなげるためである。邪馬台と書き換えても、用例を調べれば、ヤマトとは読めないのだから、改竄読みに意味はない。にも拘わらず、九州論者も含めて邪馬台を山門に比定したりして、古代日本にはヤマト以外にあり得ないという呪縛に捉われてしまっていたのである。

確かにこの指摘には説得力がある。これまでの視点はあまりにも不合理だ。しかし、よく考えてみればこれは「資料批判」ではない。むしろ資料を安易に間違いとして正すことに対する批判であり、魏志倭人伝をそのままで受け入れると言う立場だから「反資料批判」である。魏志倭人伝の一字一句を信頼し、語句の意味を丁寧な用例調べで読み解いて行くのが古田さんの手法だ。

正確な読み解きをすれば、当然、日本書紀とは一致しない。しかし、古田さんは日本書紀の嘘を解明するという方向には進まなかった。むしろ日本書紀の字句をも信頼するのである。辻褄合わせのために、魏志倭人伝や随書はヤマトではない別の王朝の記録であるとし、日本書紀は別の王朝の歴史を盗用したものだとした。これが九州王朝説なのである。

歴史学の書としての日本書紀の最大の問題は社会発展という概念を持たなかったことだ。紀元前660年が石器時代であることを述べず、記紀編纂の時代と同じような「王朝」を記述する。中国から文字が伝わったとするが、その前もその後も社会は変わっていない。社会の変遷ということが抜け落ちている。

古田さんの九州王朝もこの点では日本書紀から一歩も出ていない。社会発展の分析抜きで、資料の字句にこだわった論考に終始している。だから、3世紀も5世紀も7世紀と同じような「王朝」しか考えられない。発展概念がない歴史観というのが古田史学の決定的な弱点だったのではないだろうか。本当の資料批判に至らなかったのはそのためである。

資料批判ではなく反資料批判であったことが偽書に騙されるもとになった。明治以降の造語が散りばめられていたりするのは誰が見ても偽書だ。古田さんは三国志であれほと稠密な考証を行ったのに、『東日流外三郡誌』に対してはまったく無批判だった。それは、『東日流外三郡誌』があまりにもボロだらけで、考証に至るものではなかったからだ。三国志のような理知的に書かれた資料だけを相手にしていた古田さんにとって、あまりにも勝手の違うものであった。

翻弄された結果『東日流外三郡誌』は九州王朝説に即して、誤謬を正して読めばよいということになった。これは松下見林が三国志を読んだと全く同じ誤りである。その動機は、九州王朝説の擁護にあった。九州王朝しかありえないという信念が先行したからである。古田さんは先鋭な大和王朝批判を展開し、その歯切れよさも魅力ではあったが、結果的に攻撃も受けることになった。それで過剰防衛が生まれたのかも知れない。

自説を展開する場合、もちろん他説との容赦ない論争は必要である。しかし、内心では自説に対する冷ややかな目を失ってはならない。言うは易し、ということだろう。
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古事記と日本書紀のなり立ち [歴史への旅・古代]

記紀の成り立ちを考える前提として文字の使用がいつ始まったかが重要であるが、これに言及する人は少ない。文字を獲得した国家が最初にやることは自らの正当性を担保する歴史の編纂である。記紀以前にも何らかの書物があったかもしれないが、そう古いものではなかったはずだ。政権は長期にわたって勝手な歴史記述を許したりしない。

文字の使用が本格的になったのは600年頃だと考えられるが、断片的な記録としては雄略期にさかのぼることもあり得る。日本書紀が巻14の雄略記から書き始められていることは、近年の文体研究ではっきりしたと言える。それ以前の部分がβ群であり、雄略記はα群に属す。これまでも、雄略記は古い儀鳳暦を使い、その前の部分が逆に新しい儀鳳暦になっていることや、巻13に巻14の引用があったりすることから、日本書紀は雄略記から書きだされたとは言われてはいた。

日本書紀の執筆が雄略記から始められた理由は、想像でつなぎ合わせたものであったにせよ、それがおそらく当時さかのぼることのできる最古の伝承だったからだろう。それ以前はまったく資料がなく書きようがなかったのである。神代から雄略までは、β群として、後代に政治的に付け加えられた完全な創作神話であると考えるべきだ。

日本書紀によれば、歴史書編纂は681年に天武天皇のもとで開始された。川島皇子・忍壁皇子を筆頭に大臣級の編集委員を定め、中臣連大島と平群臣子首を執筆担当者に指定して始まった。しかし、当然、資料不足だから順調には進まなかった。持統天皇の代、691年には、18氏に対して、氏族の墓記を提出させている。各氏族はそれぞれに先祖の業績を伝えていたからだろう。それらは、互いに矛盾する内容になっていたであろうし、まとめるどころか、更なる混乱に陥ったにちがいない。

その後、歴史編簿がどうなったかの記事は日本書紀にはない。続日本紀には720年の記事として、舎人親王が歴史書の完成を報告したことが書いてある。30巻物であるから、これが現在伝わる日本書紀であることは間違いない。39年を費やしたことになる。39年というのは、、天武天皇から命ぜられた人々が、そのまま完成させたと考えるには長すぎる年月だ。

続日本紀には、713年に諸国の風土記を撰進させたことが書いてあり、714年には紀清人と三宅藤麻呂に国史を撰する旨の詔が下されている。紀清人は五位の下級貴族、三宅藤麻呂は七位の下役人である。下役人の名が歴史書に出てくるのは珍しい。この二人が編集の実務担当者であった。八世紀になって仕切り直しで新たな編纂が始まったことになる。これが720年の史書完成につながった。

史書は一つではなく、もう一つ古事記がある。古事記の方は、その成り立ちを序文に書いており、やはり天武天皇が命じたのが発端であるとしていて、712年元明天皇の時に、稗田阿礼が「誦習」していたものを、太安万侶が校閲して四ヶ月で完成した。歌謡なども入れて物語風になっている。書紀よりも八年早く完成したことになる。大筋では両者の記述は、似たようなものだが、表現には大きな違いがあり、言葉使いはことごとく違うと言っても良い。

この二書の関係が大きな謎である。国史編纂を同じ時期に二つも命じるというようなことが、あり得るのだろうか。八年前に完成していたはずの古事記に、日本書紀は全く言及していない。続日本紀にも古事記に関する記事は全く出てこない。古事記の編纂については、序文で語られているだけで、他に一切の歴史記録がないのである。

こういったことから、古事記偽書説というのが古くからあり、賀茂真淵が言い出している。日本書紀には九世紀の写本があるし、完成直後から宮中での講義が行われているのに対して、古事記の写本は一番古い真福寺本が1320年であり、完成から600年後のものだ。完成から百年も経ってから弘仁私記に初めてその存在が記述された。百年もの間、読まれた形跡がないのだ。

古事記の序文というのは内容的には上表文になっており、用命天皇にこの書物を献上した経緯が書いてある。四字句や六字句を多用する華麗な文体(四六駢儷体)であるが、これは、文選などをお手本にしている。最後を「誠惶誠恐、頓首頓首」で結んでいるが、これは進律疏表にある唐の儀礼言葉で、日本では平安時代に用いられたのだから、712年ではおかしい。

こういったことが、古事記は後世に書かれた偽書ではないのかと疑われた理由だ。しかし、だれが何のために上中下三巻の大作の偽書を作ったのかが理解できない。筋書きとしては、日本書紀とほとんど同じであり、何か別の事を伝えようというものではないからだ。稗田阿礼とか他の文書には出てこない怪しげな人物の口承であるとか、五位の下級貴族に過ぎない太安万侶が著者だということも、国家事業らしからぬ経緯だ。しかし、太安万侶の墓碑が見つかり、編者の実在性が確認されるに及んで、偽書説は勢いがなくなっている。

決定的なのは、上代特殊仮名遣いである。古くは日本語に八種の母音があったことが知られているが、これは徐々に消えて行き、現代の五母音になった。音の違いで漢字を使い分けることが行われたが、古事記本文は、日本書紀よりもはっきりと使い分けが行われており、特に「モ」に二種あることがわかった。古事記のほうが、古い文章でなければならない。序文だけは、後から付け加えられたものであると考えるしかない。

(1)古事記本文、(2)日本書紀α群、(3)日本書紀β群、(4)古事記序文というのが執筆の順序ということになる。同時代に二つの歴史書が進行したという矛盾を解決する解釈として、古事記は日本書紀編集の途上で書かれた下書き、あるいは草稿であった考えるのが妥当だ。

歴史の書き出しは世界の創生から始まるのだが、各氏族にはそれぞれの信仰や伝承があり、一致することは難しい。政権は氏族連合であり、お互いの思惑や利害を協議しながらの執筆には時間がかかる。下書きのようなものをまとめて行ったのが古事記の原型である。その事務局を担ったのが五位太安万侶と稗田阿礼だった。実際の文章は呉音表記に長けた百済人などを動員した。

神話の調整に手間取る間にも、文字の普及は進み、様々な記録が生み出されるようになってきた。統一見解を急がねばならない。継体期の混乱を隠し天皇の正当性を確保するために、ある程度資料もある巻14雄略記から先行して書きだすことになった。漢音表記の編年体など正史としての体裁も取り入れた。紀清人と三宅藤麻呂を新たな事務局として任命し、続守言、薩弘恪など白村江から連行した唐人に漢音表記で文章を書かせた。これが日本書紀のα群である。

α群の著述と並行して進められてきた神話部分の調整がまとまり、太安万侶たちの事務局から草案が示された。単なる草案であったのだが、これが後世古事記として世に出ることになった。万世一系で神から天皇へ続けることや、出雲系の神話も取り入れた構成にすることなどを議論し、神武天皇のあと欠史八代でつなぎ、神功皇后を卑弥呼に対応させるなどの基本的事項は承認された。武烈以降が系譜のみになっているのは、すでに日本書紀のα群で記述がなされているからである。

しかし、この草稿は古い呉音表記のものだったし、編年がなく正史としての体裁を欠いていた。だからそのままでなく、この草稿を取り入れ、天皇をさらに神格化して新たな体裁で書き直されたのが日本書紀のβ部分である。同じプロジェクトの内部での下書きなのだから、もちろん引用文献には挙げられない。草稿自体は事務局の太安万侶が保持することになった。

安万侶が下書きを保持しており、それが子孫に伝わっていった。百年後、弘仁年間に行われた歴史講義で博士を務めた多人長は安万侶の子孫である。講義の中で古事記を持ち出したことが弘仁私記に載っている。古事記に序文を付けて世に広めたのは多氏である。多人長は太安万侶が日本書紀の編集にも携わったと紹介している。家伝の書に箔をつけることが必要だったのだ。決して嘘をついたわけではない。用命天皇に下書きが提出されたことは事実だろう。

こうして日本には、記紀二つの初期歴史書が残ることになった。しかし、この影響は日本書紀の編年にも現れてしまった。中国の歴史書を見れば、紀元前にも歴史が及び、漢の時代なのに日本では天照大神ではいかにも信用が薄い。古事記で14代は名前まで決めてしまったから、天皇の数を増やすわけにも行かず、当時でも不自然であるとの懸念はあったが、寿命を引き伸ばすしかなくなったのである。神と人間の中間にある存在だから、平均在位60年の寿命も合理的と解釈したのであろう。

神武天皇の即位を辛酉年としたのは偶然だ。当時入手できるようになった暦法を引き延ばした年代にあてはめて行った結果である。干支は60で繰り返すことを元に日本書紀の年代から実年代への換算を試みている人もいるが、引き伸ばしが先にあって年代を後付けして行ったのだから無理だろう。月齢を表記してしまっているから、60年ずらすことは実際上出来ない。

世に言う讖緯説は、記紀編纂当時誰も知らなかった。辛酉革命の原典も中国文献に見出せず、900年頃になってから三善清行が作り上げた俗説である可能性が高い。三善清行の讖緯説は逆に神武即位を論拠にしているから、もし、神武即位が、辛亥であれば、辛亥革命説になっていた代物である。政争の強敵、菅原道真を追い落とすための手段だったに過ぎない。雄略以前は何の根拠もない創作神話なのである。

古代日本の政変と疫病 [歴史への旅・古代]

医薬の知識が全くなかった時代には病気に対して「おまじない」しか打つ手はなかった。伝染病の被害はことさら大きなものであっただろう。しかし、伝染病はどこからか病原菌が伝わってこなければ蔓延しない。実は原始時代には伝染病は多くなかったのではないかとも思われるのである。

一番古い伝染病は結核で、弥生人の人骨からもカリエスが見いだされる。しかし、縄文人にはこれが見えない。結核は移住してきた弥生人が持ち込んだものだ。伝染病が流行するには条件があり、必ずしも病原体がありさえすれば広がるものではない。結核の発生が多くなったのは、産業革命で劣悪な環境の中での長時間労働に人口が集中したことによるものだ。青空のもと野外で農作業に従事する限り、結核が重大な伝染脅威になることはなかった。

咳逆つまりインフルエンザは渡り鳥が運ぶから、どこへでも飛んでいく。日本にも古くからあったに違いない。日本書紀にも疫病のことは早い時代から何度も出てくる。病名は特定できないが、インフルエンザであったことは十分考えられる。

赤痢が文献に出てくるのは、三代実録の貞観三年(861年)であるが、それ以前から痢というから消化器系の病気で、中に死に至るものがあったからこれは赤痢だろう。上下水道が十分でなかったから、都市に人口が集中すれば当然のごとく発生する。そのため遷都が必要になった。しかし、一気に全国に広まり、人口を左右するような爆発的流行は起こらなかった。

人口を減らすような大流行は14世紀の黒死病(ペスト)が知られている。世界人口を4億5000万人から3億5000万人にまで減少させたほどだが、これはネズミを保菌者としてノミが媒介するものだった。中国に始まり、ヨーロッパで爆発的に増殖して世界中に広がった。しかし、日本は流行を免れた。日本に繁殖していたのはヒトノミであり、ネズミとヒトの両方に寄生するケオプスネズミノミが日本にはいなかったからである。

人から人への空気伝染の場合、動物の生態とはかかわりなく、防ぎようもない広がりを見せる。伝染経路としては国際交流がその発端になる。新たな伝染病がもたらされた場合、免疫が皆無だから爆発的な流行になる。南米のアステカ文明が滅びたのもスペイン人が持ち込んだ痘瘡(天然痘)による人口減少が寄与している。

日本でも、最初に起こった危機的大流行は痘瘡(天然痘)によるものである。それまであった風土病的な伝染病や結核では、爆発的な流行は起こらない。インフルエンザも繰り返されてある程度の免疫下地が形成されている。しかし痘瘡に対する免疫は皆無だった。朝鮮との交流が増えて、仏教伝来と時を同じくして痘瘡が持ち込まれ、日本最初の疫病大流行となった。

『日本書紀』敏達天皇十四年(585年)の記事がによれば、膿疱(できもの)が出来て死ぬものが充ち満ちた(發瘡死者充盈於國)。身を焼かれ打ち砕かれたようになり泣きわめいて死んで行く(身、如被燒被打被摧 啼泣而死)という症状の重さを持った膿疱であることと、致死率の高さからこれは痘瘡であると推定されるのである。

これをめぐって、古来神をあがめず仏教などというものを取り入れるからだとする物部氏と、仏像を焼いたりしたから疫病が流行るのだとする蘇我氏の対立となった。大和政権の成立期における一大政争は悠長な宗教抗争ではない。痘瘡による全滅の危機を感じ、生き残りをかけた争いだったのである。

奈良時代、735年にも大流行があった。流行は九州から始まり(大宰府言。管内諸國疫瘡大發)夏から冬にかけて豌豆瘡(わんずかさ)が流行り、死者を多く出して(自夏至冬。天下患豌豆瘡[俗曰裳瘡]夭死者多)賦役を免除しなければならなかった(五穀不饒。宜免今年田租)と続日本紀は書いている。豆のように盛り上がった瘡だから痘瘡であることに間違いないだろう。一般には裳瘡(もかさ)とも言われていた。

2年後の737年にも再び九州から疫病が流行して農民の多数が死んだ(大宰管内諸国。疫瘡時行。百姓多死)。このときは流行が各地に広がり、平城京でも皇族や政治の実権を握っていた藤原四兄弟が相次いで死ぬという大惨事になった。橘諸兄による政権への移行という転換をもたらした。大流行の2年後には免疫が残っているから、同じ流行が繰り返されるとは考えにくい。疫瘡と言うだけで、豌豆瘡という言葉は使われていないから、これは症状がよく似た麻疹(はしか)であったと考えられる。成人の麻疹は重症化して死亡することも多い。

疫瘡の大流行は平安時代995年にもあって、赤斑瘡(あかもがさ)と表現されている。盛り上がるよりも赤く広がるという特徴に合致するから麻疹である。この時も政権中枢の大混乱をきたした。中納言以上の上達部14人の内8人が死んで藤原道長が一気に政権を握るきっかけとなった。

痘瘡の方が致死率が高く、治ったとしても「あばた面」が残る。麻疹は幼少の時にかかれば軽く済むことも多い。こんなこともあって、痘瘡が最も恐れられた疫病であった。痘瘡には二度かからないことが知られており、軽く患ることで重症を逃れようとする試みはあったが、人痘接種による予防は致死率20%ほどもある危険なものだった。日本でも緒方春朔が試みたりしている。

人間には発症しない牛痘を使って疑似的な毒素で免疫を発現させるという画期的なアイデアで種痘を開発したのはジェンナーであるが、王立学会には認められず、1798年に「牛痘の原因と効果についての研究」を自費出版してこれが普及した。歴史を左右するほどの大病を安全に予防できるようになったと言うのは驚異的な出来事である。1823年に来日したシーボルトによってこの知識は伝えられたが、実際に摂取されたのは1849年にドイツ人医師モーニッケによるものが最初である。痘瘡への関心は非常に高かったから日本での種痘は急速に広まった。日本では1955年以来発生を見ていない。

いまでこそ痘瘡は絶滅した病気だが、日本史においては何度も歴史を動かす決定的な要因として働いたのである。

謎の4世紀を考えるーー騎馬民族の侵攻 [歴史への旅・古代]

歴史における日本の記録は、漢書東夷傳のAD57年にさかのぼることができる。九州北部に原初的な国が生まれ、それが発展して行ったことが魏志倭人伝で確認される。これらの国が海峡をまたいだ海峡国家であったことはすでに述べた。238年には邪馬台国の卑弥呼の記録がある。しかし、その後については手掛かりがなく、413年に倭王賛が東晋に朝貢するまで記録は飛んでいるのだ。空白となる4世紀に日本では極めて重大な変化があった。

すなわち、あれほど盛んに作られた銅鐸が突如としてなくなり、変わって巨大な古墳が出現する。それまであった周溝墓のように穴を掘って埋めるのではなく、高く盛り上げた山に横から入れるという異なる発想のものだ。古墳の副葬品は、それ以前には見られない馬具が増え、金冠など騎馬民族好みのものもあらわれる。宗教も文化もまったく違うことになったということだ。この大きな変化がどのようにして起こったかが4世紀の空白に隠されている。

4世紀が空白になったのは、三国時代を統一した晋が崩壊して以来、漢民族の王朝が南に後退し、華北は五胡十六国と言われる遊牧民族の支配するところとなってしまったからだ。4世紀は世界的な民族移動の時期である。ヨーロッパでもゲルマン民族の大移動があった。ゲルマン民族はヨーロッパ各地に侵入し、古代秩序を壊していくつもの国が生まれた。アジアでは匈奴・鮮卑に押された扶余族が朝鮮半島に南下していく大移動があった。

中国では匈奴、鮮卑といった胡族の侵入が古くからの問題で、秦の始皇帝はそのために万里の長城を作った。しかし、歴代王朝は遊牧民を排撃したばかりではなかった。遊牧民は機動性があり戦闘にはめっぽう強い。三国時代には強い兵士を求めて対立する各国は、積極的に遊牧民を招き入れもしたのだ。その結果、華北に入りこんだ騎馬民族が農耕民族を従える形で国を興すことになった。五胡十六国は、いわば軒先を貸して母屋を取られたようなものだ。

朝鮮半島から日本への民族の流れは、こういった4世紀の民族移動のずっと前から継続していた。縄文人が来て、弥生人が来たあと倭族・韓族の流入があったのである。気候が温暖で水が豊富な日本は農耕、取り分け米作に適している。江南から朝鮮半島に米作が伝わるとともに、それまでの粟、高粱といった作物から米作への転換が起こり、米作に適した地を求めて海峡を渡ることが必然になった。朝鮮は米作には寒すぎる。最初に海を渡ったのは、朝鮮半島南岸にいた倭族であり、これが拘邪韓や邪馬台からなる海峡国家=倭国を形成した。

遅れて海を渡った韓族は、まだ倭族の支配が及んでいなかった辺境の地に進んで、ここに定住して弥生人と混血していった。出雲、大和といった地域だ。日本の金属文化はどこかに始まり、それが広がったのではなく、一斉に立ち上がっている。それはこうした辺境の地に金属を使う韓族が入り込んでいったからである。日本ではすでに弥生時代の後期には稲作が始まっていたが、韓族が持ち込んだ金属器、正確には金属製の刃物で作られた硬質木材、による優れた農耕で開拓が進み、とりわけ平地が多く水利の良い大和に大きな集落が生まれ出した。

大和や出雲に北九州を中心とする銅剣銅矛とは少し趣の異なる銅鐸文化が育っていったのはその担い手が異なったからだ。銅鐸の元になったとされる馬鐸は朝鮮でも倭族がいた南岸ではなく韓族がいた新羅地域に多く出土している。金属材料は中国から朝鮮を通して北九州さらに出雲・大和に米との交換で流通した。この銅鐸・銅矛共存の体制が3世紀まで続いていた。

4世紀の民族移動の影響は、朝鮮半島にも及んだ。ツングース系の騎馬民族である扶余が侵入し、戦闘力を買われて、支配者に重宝され、やがて支配者の地位を奪って行くということがここでも起こった。元来遊牧民は定住せず、狩猟を基本とした生活をしていたが、騎馬の機動性を用いて農耕民の村落を略奪するようになっていった。略奪を定期化して税と称して定住すれば、それで国家が成立する。

帯方郡を破壊して高句麗を打ち立て、太白山脈の東では新羅、西では百済といった国を作った。もちろん、半島南部の倭種地域にも侵入したが、海峡国家である倭の主部は北九州にあったから、そこにとどまらず海峡を渡った。

北九州にも騎馬民族文化の影響がみられる遺跡がある。しかし、日本で騎馬民族を積極的に受け入れたのは北九州の倭族ではなく、むしろ畿内の韓族・弥生人集団だ。蝦夷との抗争が避けられず騎馬民族の戦闘力が有用だったからだ。北九州には倭国の強固な基盤があったから、支配権を得にくかったから畿内に向かったのかもしれない。銅鐸文化を持った農耕民族に、騎馬民族的な活力を与えることで、古墳文化を生み出していった。それが瞬く間に日本全土に広がったのは騎馬民族の戦闘性にもあるが、やはり経済的には、鉄の生産にあっただろう。砂鉄から鉄器を作ることが始まりこれが、周りを圧倒して行った。

日本書紀にこういった騎馬民族侵入の片鱗を見るとすれば、それは応神朝になる。応神天皇は北九州に生まれ、畿内で実権を振るったが、両親と言われる仲哀天皇も神効皇后も実在性が薄い。日本書紀は応神天皇が西から騎馬民族を率いて大和にやってきた人物であることを物語っている。これは、神武東征のモデルとも重なる。ホムダワケから始まる河内のワケ王朝は何から別れたかと言えば、それは扶余族本流から別れ出たものと言うことになる。

鉄の国産化で朝鮮半島からの金属供給を軸にした小国家群の共存関係は崩れ、大和が強力になって行く。北九州の海峡国家の隆盛は、砂鉄による鉄の国産化が始まると共に、金属流通拠点の意味を失って衰退していかざるをえない。海峡をまたいだ交流は薄れ次第に朝鮮半島の倭族は日本から切り離されて行く事になる。任那・伽那はこういった人々が騎馬民族と混血して立てた国である。

ヤマト王権は、渡来した騎馬民族が土着の農耕民族を支配する形で生まれてきたのだから、扶余族系の政権だったことになる。機動性に富み、各地へ影響を広げていった。出雲や九州の国々も大和に従うようになっていったが、海峡国家の半島部分は、取り残された。

日本書紀は朝鮮半島を支配していたかのように書いているが、その実質は見えない。朝鮮はもはや外国ではあったが、大和政権にとっては出自の地であるから、こだわりだけが残っていたに過ぎない。はっきりと朝鮮が外国になるのは、新羅が唐と組んで任那地域をも含んだ支配を確立させた時からである。任那日本府の滅亡・白村江の敗戦と記録しているが、朝鮮半島南部にあった倭種的な国が消滅したと言う事である。

任那日本府の謎 [歴史への旅・古代]

学校で教わった日本史の教科書には任那日本府が562年に滅びたということが出てきた。不思議なことに、ではいつ出来たかと言うことについては何も書いてなかった。

日本書紀の仲哀記には神功皇后の三韓征伐という記事があるが、魚が船を運んで新羅中央に飛び込んだら戦わずに新羅は降参してしまい、ついでに百済や高句麗も服属するようになったといった荒唐無稽な内容だ。仲哀天皇や神功皇后の実在自体が極めて疑わしいものだ。どうも任那日本府はこの時にできたと想定されているらしいのだが、まさかこれを史実とするわけにも行かないから教科書には出てこなかったのだ。

日本書紀はこれ以降、朝鮮三国が日本に朝貢する記事が何度も出てくる。しかし、これは全くあてにならない。何しろ中国(呉)まで日本に朝貢したことになっているくらいだ。朝貢は貢物を持って行って、見返りとして称号や文化知識、多大な恩賞をもらうのが目的だから、これらの先進国が日本に朝貢するわけもない。日本という国号を使いだしたのは天武期からだから、この時代に日本府などという名称そのものがあり得ない。日本書紀編集時の見栄から出た創作としか考えようがない。

しかし、朝鮮に関する記事が多いのは事実でありこれが何を意味するかは考えなくてはならない。日本と朝鮮は狭い海峡で区切られているだけなので古くから交流があった。魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の卑弥呼の記録も楽浪郡を通じての記事だ。249年に壱予が晋に朝貢したが、その後については、あてにならない日本書紀の記述以外に手掛かりがなく、413年に倭の五王の一人、賛が東晋に朝貢するまで記録は飛んでいる。

414年建造とされる好太王碑には400年と404年に二度にわたる倭との戦いが書いてあるが、日本の記録とは対応しない。よく議論される「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民 」という一文は、日本では倭が海を渡って新羅を臣民にしたと読まれることが多いが、これは明らかにおかしい。高句麗が「臣民」といった場合、好太王の臣民に決まっている。敵の「臣民」はあり得ない。倭の襲来に毅然と対応できない新羅百残を渡海作戦で打ち破り、直接の臣民としたと読むべきである。

これは396年に百済を攻めた時の理由説明であり、倭との戦いではない。前述の三韓征伐も高句麗と戦ったとは書いてない。そもそも日本書紀には高句麗という国が出てこないのだ。替わりに出てくるのが高麗という国だが、高麗は10世紀に朝鮮全域を支配した国だ。この時代はおろか、日本書紀が書かれた時にもまだ存在しないはずだ。

日本書紀に高麗が現れる理由は少し複雑で、実は高句麗が520年ころに高麗と名を改めたらしい。10世紀の高麗は自らの出自を高句麗王朝と関連付けるためにこの名前を受け継いだものだ。魏書では518年まで高句麗で、梁書の520年記事が高麗の初出である。随書も591年記事からは高麗である。ヤマト王権は520年まで直接の接触がなく、高句麗を高麗としか認識しなかったのだろう。あるいは、記録がなかったので日本書紀の編者が当時の知識で創作したことの現れかもしれない。

好太王碑は当時のままの金石文が残っていたのだから一級資料ではあるが、事実が書いてあるというわけではない。百殘新羅舊是屬民というのがそもそもウソだ。百済との戦いは369年から始まり、371年には高句麗王が戦死するほどに百済が優勢だった。高句麗の属民であるはずがない。当然それに続く文も怪しい。まだ古墳時代が始まったばかりで、熊襲と国内戦を争っている倭に、新羅、百済の全域を支配するような軍事力を朝鮮に送れたはずがないのだ。新羅、百済が倭寇に対して弱腰だったと言うに過ぎない。

当時の王碑というのは事実を書くのではなく、どれだけ大風呂敷を広げられるかを競うようなものだ。好太王碑は高句麗が最強であるという立場で書かれている。百済は、百残と書いて憎しみを露にする仇敵なのだが、実際には百済が優勢だったりする。劣った存在であるはずの百済が優勢だったことを釈明するために、その背後関係を持ち出さなくてはならない。そのために倭が持ち出されているように思われる。海を隔てた島に、政権があったことは認識されており、任那・加羅といった小国のくせにしぶとい国とも関係する不気味な存在ではあっただろう。

400年の戦争は、新羅に倭が侵入して助けを求めたとなっている。好太王は五万の兵を派遣して新羅救援を行った。これが高句麗・倭の大軍対決になったかというとそうではない。新羅に進軍したらウヨウヨいた倭人は任那加羅方面に逃げ去ったと言うだけである。倭が大軍を派遣していたとは読み取れない。隙をついて安羅軍が新羅の王都を占領してしまったと言うのだから、5万人の軍勢による制覇とは程遠い。その後の戦闘については語らずウヤムヤになってしまっている。結局、新羅と任那加羅安羅といった南岸諸国との争いに高句麗がちょっと介入してみたと言うだけのことだろう。任那が出てきて倭に寛容であったと読めるが、倭が支配していたとは書いてない。

404年の戦闘もおかしい。倭が帯方郡に侵入してきたと言うのだが、帯方郡に至るには百済を制圧しなければならない。しかるに百済は健在であり高句麗に服属していることになっている。百済と倭の戦闘は起こっていない。倭が百済を飛び越えて海路で帯方郡を攻撃するというバカなことも考えにくい。高句麗の大軍に匹敵する軍勢を一気に運ぶだけの船を調達するのは難しい。もし、任那に日本府があれば当然倭軍は任那に集結して進軍するだろう。

この時も高句麗は大軍を派遣して大勝利を収めたことになっているが、実際に戦闘があったかどうかは分からない。広開土王碑の立場は、高句麗が絶対優勢であるということを貫いており、不都合なことは、背後勢力のためとして、そのためにいつも倭が持ち出されているのだ。倭との実際の戦争は存在感がない。

日本側の資料も建前優先ということでは同じようなものである。日本書紀は三韓征伐以来、朝鮮半島の任那を領土として、新羅と対立していたという立場で書かれているが、継続的な役人の派遣は見られず、支配の実態に乏しい。唯一任那国司に派遣されたという吉備臣田狭は裏切って新羅についた。新羅征伐に派遣された葛城襲津彦も美女に惑わされて逆に加羅を討った。紀生磐宿禰は任那をわがものとして高句麗と結んだ。といった具合で、おかしなことに、出てくる人物がことごとくヤマト政権を裏切っている。

これらの人物はむしろ朝鮮半島でヤマト政権からは独立した存在だったと考えるほうが自然だ。生き残りのため百済についたり、新羅についたり、あるいは倭と結んだりする。好太王碑の文面も、倭が戦略を持って日本から進撃してきたというようには取れない。ちょっかいを出して追い払われるといったことを繰り返しているから、やはり朝鮮半島南部にいた倭種との抗争だろう。朝鮮の倭は日本と関係を持ってはいたが、ヤマト王権に属しているわけではなかった。ヤマト王権は朝鮮の領土にこだわりを見せているが、実体が伴っていない。

もう少し後の年代になってもやはり見栄的な記録が続く。ヤマト王権は継体期に6万の軍勢を朝鮮に送ったが、筑紫国造磐井は新羅から賄賂をもらって新羅討伐を妨害したというのだから国内戦を合わせるとあり得ない大軍になる。天智期の白村江の戦いには2万7千の大軍を送ったことになっているが、これもあり得ない。この直後に起こった王権をめぐる総力戦である壬申の乱でもせいぜい数千の衝突でしかない。795年になって藤原仲麻呂が新羅遠征を企てたことがあるが実現していない。遠征軍の派遣は8世紀末の生産力をもってしても困難な事業だったのである。

任那日本府は562年に滅びたのであるが、これに対して何の対策も取っていない。百済が攻められるのだが無関心で、滅亡して遺臣が再建を策した時に初めて介入する。唐は朝鮮半島を直接支配する意図がなかった。新羅、百済に対して再三和平を勧告しているし、滅亡後も扶余隆を百済王と認定している。日本書紀では百済再興と書いているが、実際には扶余隆と豊樟の跡目争いだったようだ。

白村江の戦いが本当に、これほどまでの大軍を派遣しての敗戦なら国内的にも動揺があるはずだが、それは全く見られない。中大兄皇子は責任を問われず平然と天皇に即位している。次期を担う有力者であるはずの大海人皇子はまったく戦争に関与していないし、日本書紀の記述は他人事のような淡々としたものだ。665年には、何事もなかったかのように遣唐使を派遣している。

白村江の戦いで具体的な戦略立案をしているのは、朴市秦 田来津(えちはた の たくつ)という人物だが、不思議なことに19階の位階制度で、14番目の小山下という下役である。これもヤマトからの派遣ではなかっただろう。基本的には白村江も朝鮮半島内で争われた戦いだ。唐・新羅に朝鮮半島に残った倭種が鎮圧されてしまったということだろう。

日本書紀の記述にどれほどの信憑性があるのかはには注意が必要である。権力者が文字を使いだしてすぐに思いつく用途は国史の編纂である。だから文字自体はもっと前から伝わっていたとしても、紙や筆を手に入れて実際に使い始め、確実な記録が残るようになったのは、日本書紀が出来た直前頃だということになる。天武朝以前のことについては、言い伝えや憶測をもとにした創作でしかない。

ヤマト王権には朝鮮支配に対する強いこだわりがあったが、これは天皇家の出自が朝鮮半島にあったことを示すだけである。海峡国家に始まった倭の中心地は大和になっており、朝鮮半島の倭種との関係は希薄になって、もはや外国であったが、友好的だった任那・加羅などを願望を含めて建前上領土と記録したかっただけのものだと考えて良いだろう。確実な記録が残るようになって以降、朝鮮半島の領土といった記述は一切なくなるし、失地回復を目指すといった話も全く出てこない。農業以外に産業がない時代には朝鮮半島に領土を持つことに実利がなかったからである。

ヤマト王権の成立は七世紀 [歴史への旅・古代]

考古学的検討と中国文献から、日本の古代は、海峡国家から北九州へと発展したことがわかる。そうすると、卑弥呼の邪馬台国が九州にあったことも確実ではあるが、ここからヤマト王権による統一国家への過程がまだ解明されていない。九州王朝説では「磐井の乱」がヤマトの制覇であるとしているし、「壬申の乱」が王朝交代だと言う説もある。

しかし、二王朝の対決といった構図を確認するにはには、あまりにも痕跡が少ない。これが邪馬台国九州説の弱点だと言える。武器の発達も十分ではないし、文字がなくては統制のとれた軍事組織も作れない。この時代の戦争は、小競り合いの連続のようなものにならざるを得ない。決着には長い年月がかかり、したがって大きな痕跡が残るはずだ。二大王朝の対決には無理がある。

日本の王権が王朝などと言える確固としたものになるのはもっと後代のことだと考えるべきだ。小国の分立が続いたが、これらの小国は時には争いもしただろうが、基本的には共存が続いた。これは銅鉄の流通があったことから演繹される。それが、徐々に一つの王朝にまとまっていったのである。

4世紀に騎馬民族が流入すると砂鉄を使った鉄の精錬が始まった。金属が国産化されると、海峡国家の必然性が失せていった。大きな平野があり水源の得やすい畿内の生産力が高まっていったのは当然だろう。古墳文化が発展し、九州をしのぐようになっていったが、どちらもまだ王朝と呼べるような強固なものではなく、したがって対決的な大戦争は起きない。古墳は大和に多いが、実は全国各地に分布している。大規模古墳も備前に多かったりするので、ヤマト王権が全国を支配していたことを示すものではない。この当時の王権がどのようなものであったかは、万葉集からもうかがえる。

万葉集の一番目の歌:
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籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも
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籠(かご)よ 美しい籠を持ち 箆(ヘラ)よ 美しい箆を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ きみはどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? この、そらみつ大和の国は、すべて僕が治めているんだよ 僕こそ名乗ろう 家柄も名も
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これが本当に雄略天皇の歌であるかどうかは疑問があるのだが、天皇が一人で畑に出かけ、女の子に声をかけている。大和全域を治めているのは自分であると自己紹介しなければならない。5世紀の王権とはこの程度のものだったのだ。日本全国と言わず大和と言ってもいるのも注意点だ。

日本書紀の592年には蘇我馬子が崇峻天皇を殺害した記事があるが、特に大事件にはなっていない。後には全国を支配し、特別な家系とされる天皇家ではあるが、この時点ではまだ数ある有力豪族のひとつにすぎず。たまには部族間の争いで殺されることもあったことになる。6世紀の王権はまだこんなものだった。

日本書紀は8世紀になって書かれたものであるから、崇峻を天皇などとしており、馬子は家臣ということになっているが、実際にはヤマトにいくつもの部族があり、そのうちの有力なものが大王と名乗ったに過ぎない。万世一系は日本書紀がこれらを結び付けた後付けのつながりである。だからあちこちに齟齬が生まれる。

崇峻天皇が殺されたあとも不可解な経緯が続く。女帝となる経緯も定かではない。先々代の天皇の妻でもあり妹でもあった、額田部皇女(39)、すなわち推古天皇である。これも蘇我馬子の指図によるものだ。天皇家を上回る権力を持っていた蘇我氏が臣下であったと言うことがむしろ疑わしい。

推古天皇の死後、皇位についたのは孫の田村皇子(35)で舒明天皇になった。蘇我氏の統領は蝦夷である。どういうわけか舒明天皇(37)は若くもないバツイチ女、寶女王(37)を皇后にする。10年後、舒明天皇(48)が死んだときに、子である古人大兄皇子に継がせず、寶女王(48)が皇極天皇となった。

645年に乙巳の変が起こり、テロで蘇我入鹿を殺した。皇太子であり、次期天皇が見えている中大兄皇子がテロを行う必然性は見られない。蘇我に代わり、どこからとも知れず現れた藤原鎌足が指図するようになった。大化の改新といったものが行われたとするが、内容的にはこの時代のものではあり得ず、書記は正直な記載をしていないことがはっきりしている。

寶女王は退位させられ、弟の軽皇子が孝徳天皇(49)になった。現職の天皇が退位するなどと言うことは前代未聞だ。この間の事情はもちろん伏せられている。孝徳天皇には有間皇子という跡継ぎがいたのだが、中大兄皇子(29)が皇太子になった。孝徳天皇は傀儡であり中大兄皇子が実権を握ったと言うことだ。

中大兄は歴代天皇が都した飛鳥から難波に都を移させたのだが、何を思ったのか、またすぐに飛鳥に戻ってしまった。実際に何が起こったのかよくわからないが、中大兄皇子が役人全部、天皇の妃まで引き連れて飛鳥にもどったので孝徳天皇は置き去りである。万世一系、天皇が支配しているなどという描像とは全く合わない。

10年で孝徳天皇(59)が死んだが、皇太子は即位せず寶女王(62)が再び皇位につき、斉明天皇となった。皇太子と言うのは正式に予定された次期天皇であるはずだ。「そのほうがやりやすかった」ですむ話ではない。天皇になることを辞退したはずの中大兄皇子(39)が、また皇太子になった。これも前代未聞であり、いかにも奇妙な人事だ。

中大兄皇子は日本書紀を見る限り対外政策に熱心なのだが、562年に任那日本府が滅びても何の対策も取っていない。660年に百済が滅びた時にも知らん顔をしている。むしろ唐との接触に熱心で、皇太子時代に4回にわたって遣唐使を派遣している。ところが、百済遺臣が反乱を起こしてから支援で唐とは対立関係に入る。政策に何の脈絡もない。

朝鮮半島に出兵したことになっているが、指揮を執っているのが下級官吏だったり、のんびりと湯治しながら九州に行ったりで現実性が薄い。戦闘記述も他人事のようである。白村江で大敗北を喫したにもかかわれず、中大兄は責任を取らずに称制し、さらに即位する。日本書紀の記述が、まともな合理性を持つのは天武期になってからである。7世紀以前から朝廷が確立していたことを前提にする記述は悉く合理性がない。

実際には九州にも大和にも小国が分立し、有力なものが大王を名乗ったりすることが6世紀まで続いた。7世紀には徐々に、富を集中させたヤマトに政権を収斂させて行った。この過程を合理化するためのストーリーが形作られ神話となっていった。出雲の豪族に配慮して国産みの神話を作り、九州の部族とは、神武東征でつながりをつけ、最終的には日本書紀という形で統一国家への合意をしていったのである。

日本書紀はある意味で、各部族が合意した統一国家への合併協定である。もちろんこの間、違った歴史を主張する部族もあったが、それは強制的に統合された。日本書紀が編纂される少し前708年の大赦で禁書を所持していたものは大赦の対象から外すという記事がある。書記とは異なる歴史書もあり、異論を唱えて「挾藏禁書」の罪に問われた人が実際にいたということだ。これも6世紀にはまだ単一王権による支配は完成していないことを示す根拠である。

各地の部族が折り合いを付けて、ヤマト王権を統一国家の王権と認めるようになったのは日本書紀の編纂される少し前、天武がヤマト族の覇者となり、初めて天皇を名乗り出した頃と言うことになるから7世紀である。日本書紀がすべてフィクションだというわけではない。文字が使われ出してからは断片的な記録はあったはずだ。しかし、そのつなぎ合わせが作為の結果だ。継体を五代の皇孫としたり、天武を天智の弟としたりしたのがそれにあたる。

ヤマト王権は5世紀から徐々に発展し、九州や出雲と折り合いをつけて、次第に全国に政権合意を広めていった。その完成は実に7世紀、日本書紀完成の直前である。具体的で詳細な記述に惑わされてはならない。もとになった記録から取ったものであっても、そのつなぎ合わせは政治的合意によるものであり、大王を血縁関係で結んだのは創作である。

古代の日本は海峡国家 [歴史への旅・古代]

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もちろん歴史は原始の時代から続いているのだが、日本の歴史としての始まりは、やはり石器時代が終わり、独得の個性を発揮し始めた頃ということになるだろう。日本に青銅器や鉄器が現れたのは、弥生時代の後半、一世紀頃のことだ。

石器時代から青銅器・鉄器時代への変化を技術史的に見直して見るといろんなことが見えてくる。多くの古代文明は、長い青銅器の時代を経て鉄器に至るのだが。これは、銅と鉄の融点の違いによるものだ。鉄器の使用は炉技術の発達を待たねばならなかった。ところが、日本では、銅と鉄の使用が間髪を入れずに始まっている。

これは金属技術が徐々に発達したのではなく、技術流入があったことを示している。しかし、遺跡からは、1000度を超す高温を発生するような、「ふいご」を備えた炉跡は見つからない。800度程度で銅そのものは溶かせないが青銅なら溶かせる炉、あるいは鉄を赤熱して加工できる程度の炉しかない。鉱石から金属を得るのではなく、金属材料を中国・朝鮮から得て加工することで金属文化が芽生えたのではないかとは従来から考えられていた。

近年の鉛同位体分析による研究で、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡でないことが確定的になったが、同様の分析で、さらに古い時代の青銅が中国で合金化されたものであることが確定した。考古学的には九州を中心とする銅矛銅剣文化と、大和を含む西日本の銅鐸文化が併存していたことが知られているが、これらの遺物の青銅がどれも日本で作られたものではなく共通して中国で製造されたものなのである。

二つの異なる文化が共に同じ青銅を使っていたことの意味は大きい。地理的に言って、銅鉄が輸入されたのは九州だが、これを大和にも伝える仕組みがあったということになる。銅鐸と銅矛は明らかに異なる文化だから、単一の国家であったはずがない。この時代、大和が九州を支配していたということはあり得ない。まだ統一国家はなく、小さな単位で暮らしていた時代になる。2つの文化圏は対立するのではなく平和共存を保っており、この間で金属材料が流通していたことを示している。異なる文化と言えばすぐに対立や支配従属を考えるのはあくまでも後世の発想なのである。

こうしてみると、この時代の様子が見えてくる。あちこちに小さな国が分立し、その間で銅鉄が受け渡されていたのだ。受け渡しは物々交換で行われなければならない。では何が銅鉄と交換されていたのか?しかも、その流れは朝鮮にまで続かなくてはならない。当時の日本から対価として出せるものは労働力と米しかない。卑弥呼の献上物は生口すなわち奴隷だった。朝鮮半島に比べて、日本は、はるかに温暖で、水が豊富で平地もある。労働力さえあれば米の生産はできる。

僕の仮説は、朝鮮半島の南部にいた倭族が北九州に進出し、そこで生産した米を朝鮮に運びその代わりに銅鉄を日本に持ち込んだということだ。北からの海流のせいで、朝鮮は米つくりには寒すぎる。温暖な気候と肥沃な土地を求めて海峡を渡るのはごく自然な成り行きだ。本国には銅鉄があり、日本には米がある。これが海峡国家を形成する要因になった。

九州の倭族は銅鉄の輸入にのため自国だけで足りない米を近隣の国々から手に入れ銅鉄を渡した。その国もまた隣国から米を得て銅鉄を渡す。こうして銅鉄は日本に広く広まったのである。銅鉄は米を買う通貨として流通していたとも言える。青銅は腐らないので、蓄財の手法にもなった。銅鐸が多数埋められていたりするのは権力者の蓄財だったのではないだろうか。この社会資本の蓄積が後に強力な統一国家を形成する条件となっていった。

速やかな銅鉄の流通は、倭が海峡をまたいだ海峡国家であることで保障された。倭が海峡をまたいだ海峡国家であったと言うことは奇抜な発想と思われるかも知れないが、実は古文献を素直に読めば、倭は海峡国家だったことにならざるを得ない。

後漢書東夷傳には、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」とある。「漢倭奴国王」と言う金印が志賀島で見つかったことで、この文言の信頼性は極めて高いものになった。

建武中元二年(AD57年)に「倭奴国」という国があり、漢の光武帝から金印を受けたことがわかる。倭奴(ヰド)国の位置は、金印が発見された北九州糸島半島付近であっただろう。この倭奴国を含んで、倭国という国のまとまりがあったこともわかる。金印だから、倭奴国が倭国全体の代表として認められたものだ。単なる倭国の分国であれば、金印ではなく銅印になったはずだ。倭奴国は、九州以外にありようがなく、ヤマト政権や記紀とのつながりをつけようがないので、議論からも軽視され続けてきたが、日本最初の代表国家は、邪馬台国ではなく倭奴国なのである。

この倭奴国は倭国全体から見れば、極南界すなわち一番南にある国だとも書いてある。また倭の位置に関する記述では「去其西北界拘邪韓國七千餘里」とあるから北の端は拘邪韓國である。そうすると、倭国というのは朝鮮半島の南部から海峡をまたいで、糸島半島に及ぶ領域だったと考えざるを得ない。倭国は海峡国家だったということになる。

倭が海峡国家であったということは、銅鏡の考古学とも一致する。北九州の古墳群から中国製の銅鏡が多く発見されているがこれは一世紀の漢代から始まっている。大きさも後代のものより小さい。重要なのは、同じものが朝鮮半島にも見られると言うことだ。後代の銅鏡は大和から多く出土するのだが、この時期、大和の遺跡には、まだ銅鏡は現れていない。これは、こういった中国製の鏡が海峡をまたいだ倭国によって保持されていたことを物語るものである。

朝鮮の記録も倭が海峡国家であったことに一致する。高句麗や新羅の歴史には倭の襲撃が何度も出てくる。これらの戦闘で注目すべきなのは海に追い払ったという記録がないことだ。倭は直接海から来るのではなく朝鮮半島に常駐する軍事勢力だったのである。北九州から絶えず食料と人員の補給を受けて常に戦力を保持していた。朝鮮半島の倭族の役割は金属材料を獲得することだったから、韓族と度々衝突することになったのも当然である。

魏誌倭人伝の描く三世紀には、倭国の中心は邪馬台国に移り、糸島半島に当たる部分は伊都国となっている。ここでも狗邪韓国は倭国の一部という記述になっており、海峡国家の名残があるが、伊都国はもはや倭国の極南界ではない。倭国を取り仕切る女王の国はもっと南にあり、さらに南に奴国という強力な国があり、これは女王国と対立していた。邪馬台国がどこにあったかの議論が盛んに行われているが、これまでの経過を見れば、ここで急に邪馬台国を畿内に持ってくるのはいかにも唐突だ。

魏志倭人伝の景初2年(238年)の項には、邪馬台国の女王卑弥呼に親魏倭王の称号をさずけ、銅鏡100枚を与えたことが載っている。畿内を中心として大量に出土する三角縁神獣葡萄鏡がこれに当たるという議論があり、邪馬台国が畿内にあった根拠とされた。景初三年の銘が入った鏡があったことが大きな根拠となったが、出土する古墳は四世紀のものだから時代が違う。不純物同位体の分析から、古墳出土の鏡は国産であることがわかってきたのでこの議論は終わりつつある。

後代の銅鏡は広く分布しているが模様は地域によってすこしづつ違う。国内生鮮された鏡もやはり材料は中国・朝鮮のものだった。中国鏡も広く分布しているが、これも米との交換による流通があったったからだったと言える。大きく様相が変わったのは、砂鉄による鉄の国内生産が始まってからだ。銅も国内の鉱石から精錬されるようになった。もはや海峡国家の必然性もなくなり、これ以降、大和が日本の中心になって行くのである。

三世紀後半になると、大和では銅鐸が作られなくなった。銅鉄の流通を基礎とした小国家関係が失われたのであるから当然のことだ。替わって古墳を作ることが始まっていた。宗教と文化の大きな変革があり、それが経済発展と結びついていたことは確かだ。古墳文化になってからの発展は目覚しく、規模はどんどん大きくなっていった。その結果、大和地域の発展は、九州を凌駕するものになっていった。

古代日本の様子 [歴史への旅・古代]

日本が初めて歴史に登場したのは、1世紀に書かれた漢書地理誌である。まだ弥生時代であり、稲作も始まってはいたが食物採集の補助程度で、餓死は日常であり、天候が良ければ人口が増え、悪ければ減るという時代だ。働かないで暮らす大王や大勢の役人を養う生産力はないから、統一国家とかは考えられもしない。せいぜいの所いくつかの邑を支配する酋長がいたにすぎない。それでも、中には朝鮮半島に使いする酋長がいたので、「楽浪海中に倭人あり、100余国を為す」と書かれている。

2世紀の後漢書になると「永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う」とあり、倭国王を自称する者も出てきたが、支配領域は小さなものだっただろう。やはり弥生時代で、国家組織が生まれていたとは考えられない。貢ぎものとしては、奴隷以外になかった。「帥升」が歴史上最初の日本人の名前だ。そのほかにも30国が使いを出していた。しかし、倭の内情に関する記述は、見られない。

3世紀には魏志倭人伝がある。ここで初めて倭の状況が記述されるようになった。魏志倭人伝といえば、邪馬台国までの経路・距離が専ら論議されるが、それだけでなく、日本の風俗もいろいろと記述している。正始元年(240年)、魏が北朝鮮に置いた出先機関である帯方郡の太守は、梯儁(ていしゅん)を派遣して倭奴に詔書・印綬をさずけた。伝聞ではなく、梯儁自身の見聞を記述したものと見ることができるからかなり信頼が置けるものだ。

帯方郡から見て、日本列島の有力な国の一つが邪馬台国であった。女王卑弥呼が支配し、一大卒を派遣して巡察行政をさせていたことがわかる。温暖で、冬も夏も・生(野)菜を食する。とあり、海南島と似た気候のように書いてあるが、多分朝鮮経由で来ると日本を非常に暖かいと感じたのだろう。海流の関係で朝鮮は日本よりかなり寒い。身分制が整い、上下の別がはっきりしていた。犯罪率は低く、刑罰は奴隷化と死刑と厳しかった。海に潜って魚や貝を採るのが得意で、大人も子どもも、みんな顔に刺青をしており、刺青の仕方は色々で身分階級で異なる。

一夫多妻制で妻が3,4人いるが、風俗は淫らではない。冠はかぶらず鉢巻をする。服は縫わず結ぶだけの単衣だというから、「神代」の服装とは大分イメージが異なる。婦人は真ん中に穴を開けてかぶる貫頭衣、化粧品として朱丹(赤い顔料)をその身体に塗っている。まだ靴はなく、裸足で歩いていた。文字はなく、縄の結び目などで記録していた。3世紀は日本書紀で言えば神効皇后の時代だが、もし皇后・息長足姫が実在したならば、顔に刺青をして、赤い顔料を塗りたくり、布に穴を開けて被った裸足のお姉さんということになる。全体としては、かなり未開な様子であるが、そのとおりだったにちがいない。

こういった生活の様子は日本の記録には現れない。当事者は、当たり前のことを書く必要性を持たないのだが外国人は珍しく感じる。明治の初期の様子を書いたイザベラ・バードは、日本人の女性が歯を黒く染めた奇怪な化粧をしていることや、乳房をあらわにして街を歩いていることなどを書いているがこれは事実だ。ついでに証言しておくと、昭和30年代でも。腰巻だけで夕涼みをしている婆さんをよく見かけた。

衣類は主として麻だったようで、紵麻(からむし)で麻布を作っていると書いてある。このころすでに養蚕が行われており、絹織物を作っているとも書いてある。牛、馬、羊などはおらず、牧畜はやっていない。もちろん兵隊はおり、矛・楯・木弓をもちいていた。木弓は下がみじかく、上が長くなっているという後代の和弓と同じものだ。矢は竹製で、矢じりは骨とか鉄だったとあるから、鉄器も使用されていたことがわかる。

外交関係はかなり活発で、記録も具体的だ。卑弥呼が魏に使いを出したのは、景初二(三)年だが、そのときの正使は「難升米(なしめ)」副使は「都市牛利(としごり)」と名前も記録されている。倭からの貢物は、男生口(どれい)四人、女生口六人、班布二匹二丈であるからたいしたものではない。布一匹は大体2人分の着物を作るだけの分量だ。まだ生産力も低く、これといった特産物も無かったのだろう。これに対して魏からの返礼は凄い。

絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹
絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張
絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹
紺青(紺青色の織物)五十匹

これに加えて、遠路はるばる来たことを讃えて特別プレゼントを与えている。

紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物)三匹
細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物)五張
白絹(もようのない白い絹織物)五十匹
金八両
五尺刀二口
銅鏡百枚
真珠五十斤
鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)五十斤

おそらく当時の倭国の国家予算を超えるようなものだっただろう。臣下の礼を取り、朝貢したくなるのも尤もなことだ。正始四年にも使いは来ており、このときは「伊声耆(いせいき)」「掖邪狗(ややこ)」ら8人だった

朝貢したのは、邪馬台国だけではない。一応は邪馬台国に従属していたかも知れないが、狗奴国などは、独自の外交を行っている。邪馬台国は日本にいくつもあった国の一つに過ぎなかった。狗奴国の男王「卑弥弓呼」も帯方郡に使者を送り、正始八年の太守報告報告には、「載斯(さし)」・「烏越(あお)」という使者同士が互いに争ったことが書いてある。

帯方郡としては、「張政」を日本に送り、「難升米」を説得して調停しようとした。しかし、張政が日本に着いた時には、卑弥呼は亡くなっており、盛大な葬儀が行われていた。100人もの女官を殉死させて、径百余歩の墓を作った。男王が立ったが諸侯の納得が得られず、壱与(13歳)に卑弥呼の後を継がせてやっと決着がついた。「張政」の帰路に「掖邪狗」ら20人が壱与の使いとして付いて来た。このときの具物は

男女生口三十人
白珠五千(枚) 真珠?
孔青大句(勾)珠(まがたま)二枚
異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹

で、少し生産力が高まっているとも見受けられる。「卑弥呼」「卑弥弓呼」「難升米」「都市牛利」「載斯」「烏越」「伊声耆」「掖邪狗」と8人もの具体的な人名が出てくるし、中国との交流もなかなか盛んで具体的な事実も残されている。しかし、日本の記録には、一切の片鱗が認められない。この時代と日本書紀の時代とには、明らかな断絶がある。

倭の様子を記述した文章が7世紀の隋書でも見られる。魏志を下敷きにしているから、同じような記述もあるのだが、仔細に見ると、倭国の状況が変わっていることがわかる。遣隋使の答礼使として来日した裴世淸の報告によるものだ。7世紀末には、漆塗りの沓が生まれていた。仏教が普及していることも書かれている。80戸毎に「伊尼翼(いなき)」を置き、10の伊尼翼が「軍尼(くに)」になるといった行政機構も生まれている。服装も男は筒袖の上着と袴のようなものを着ており、衣服は縫われるようになった。鉢巻はやめて貴人は金銀の冠をするようになった。女性は縁取りのついたスカート「裳」を着ている。酒を飲んだり博打をしたりする者も観察しているし、盟神探湯(くがたち)といった裁判風習も見ている。中国の歴史書は、こういった変化も記録しているのだ。

中国の歴史書によれば古代日本の様子が見えるのだが、これは日本書紀が描く日本の姿とはかなり異なる。日本書紀では、すでに4世紀ころから、立派な着物を着て、威風堂々とした政権が存在したことになっていろのだ。日本書紀を読む場合には、粉飾に注意しなければならない。
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