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道鏡事件の真相と和気清麻呂の処遇 [歴史への旅・貴族の時代]

道鏡事件は、悪僧道鏡が称徳天皇をたぶらかして、皇位の簒奪を狙った事件だとされて来た。道鏡一派が宇佐八幡宮の神託を偽造したのだが、和気清麻呂が八幡神の正しいお告げをもたらして撃退したという続日本紀の物語だ。道鏡と称徳天皇の男女関係がセンセーショナルに扱われることも多い。

しかし、続日本紀の記述は不可解なところがあり、記事をそのまま鵜呑みにするわけには行かない。そもそも八幡神のお告げの真偽などと言う話の全体が神話めいて真実ではあり得ないのだ。

続日本紀は編年体で、位階の昇進とか、飢饉があったとかの短い記事が淡々と続く。時折天皇の声明である宣命が現れ、この部分は少し長い。漢文ではなく助詞を入れ込んだ宣命体と言われる書き方で、天皇の言葉を書記が記録したものだ。

道鏡事件の推移を記事からたどることは難しい。769年9月25日にいきなり宣命があり、これに長い解説文が付き、6日後にもう一つの宣命がある。これが記述の全てなのだ。

第一の宣命は確かにそれだけでは何のことかわからない内容のものだ。和気清麻呂と姉の広虫がウソをついたと怒り、名前を穢麻呂に変えさせろとか大人げない腹の立て方をして降格を命じている。しかし、どんなウソをついたのかその内容には言及していない。

6日後の第二の宣命では、連綿たる皇位の正当性を語り、軽々しく皇位についてあれこれ語ることを戒め、皇位は天命で定まるものだとしている。

この2つの宣命の間にある解説文が事件の成り行きを述べる全てだ。しかし、解説文に出てくる出来事を裏付けるような記事は他には何処にもない。これは明らかに編纂時に書き入れたものだ。

道鏡が皇位の簒奪を狙った。「道鏡を皇位に付ければ天下泰平」という宇佐八幡宮の神託が出たという話を習宜阿曾麻呂が持ち込み、天皇は側近の和気広虫にそれを確かめに行かそうとした。広虫は女の足では遠いと弟の清麻呂を推挙した。命を受けた清麻呂は宇佐に行って八幡神と対話して神託が偽物であることを報告した。これで道教の陰謀は破綻した。と言うわけだ。

この解説に従えば、第一の宣命にある清麻呂のウソとは道鏡への譲位を否定した報告と言うことになる。それがウソならば神託は本物で譲位は実行されて良い。 ところが実際には譲位は行われなかった。第二の宣命で清麻呂の報告をウソではないと納得した称徳天皇が譲位は行わないという宣言したと受け取ることも出来る。

しかし、清麻呂への処罰はその後もエスカレートして行き、大隅への流刑に至る。称徳天皇は清麻呂がウソをついたという事を撤回していないのだ。ウソをついたのは清麻呂のはずだが広虫まで流刑になっているのもおかしい。

続日本紀の記事はその後もまるで事件がなかったかのように淡々と続く。相変わらず道鏡は重用され、一緒に弓削に行幸したりしている。

変化が起こるのは称徳天皇が亡くなり光明天皇が即位してからだが、当時にも皇位簒奪未遂事件という見方があったとは思われない。道鏡も薬師寺に左遷されたのではあるが処罰されたわけではなく、清麻呂も都に呼び返されただけで表彰されていない。神託を最初に持ち込んだ習宜阿曾麻呂は大隅守に出世している。

こういった続日本紀の不可解な記述をどう解釈したらいいのだろうか。中西康裕さんは解説文は続日本紀の編集者が勝手に入れた捏造記事で実際には道鏡事件なるものはなかったとする。

第一の宣命は清麻呂・広虫が皇位の継承について何か意見を出し、それに対して怒ったものだ。第二の宣命は、皇位に関してとやかく言うなと言うものであるから辻褄は会う。事件がなかったものとすれば他の記事全体とも整合性がある。しかし、続日本紀が書かれたのはわずか25年後である。まだ人々の記憶もある時に全くの捏造記事を挿入する事は難しいのではないだろうか。

瀧浪貞子さんは、称徳天皇はもともと道教に譲位するつもりはなく、神託確認は道教の皇位要求をなだめるためのものだったとする。清麻呂が天皇の真意を誤って道鏡排除と言うことまで報告に入れてしまった言う解釈をしている。だから清麻呂に怒ったのだが、譲位は行われなかった。しかし、長年の傍仕えである和気広虫に考えが解らぬはずがないだろうし、当然清麻呂にも伝わったはずだ。勘違い説には無理がある。

宇佐八幡宮の神託をめぐっては、続日本紀の編纂からわずか25年前の事だから、やはり何らかの事件があったと考えるべきだ。しかし、解説文は大幅に歪曲されたもので、そのために前後の記事と釣り合いが取れなくなってしまった。実は道鏡への譲位というのは称徳天皇が主導しての企てで、それが頓挫しただけの事件だった。広虫・清麻呂は腹心だから気脈を通じて譲位に協力してくれると期待したのに裏切られた怒りが第一の宣命。報告の結果、譲位は諦めたのが第二の宣命である。

それでは悪僧道教の陰謀という解釈はどこで生まれたのか、それは続日本紀の編集の時点で、天皇自らが万世一系の皇位を否定することを試みたという事実が大変都合の悪いものだったからだ。天皇制の血統主義こそが藤原氏の権力の源である。一切の疑念は排除しなければならない。続日本紀の編集者はこの事件を称徳天皇の所業ではなく、道鏡が主導したものだと歪曲したのである。事件の後処理と解説文に矛盾が生じたのはそのためである。

奈良時代というのは仏教思想が非常に強い影響を持った時代だった。釈迦が王位を放棄したことからもわかるように、仏教思想と天皇制とは本来相容れないものだ。聖武天皇は皇位伝承への意欲が薄く、仏道修行への傾斜を強め、前代未聞の生前退位まで行い、出家してしまうということに至った。

独身女性の身で皇位を託された孝謙天皇の使命は、持統天皇以来の歴代女帝の草壁皇子系統への極めて強いこだわりを引き継ぐものだった。一旦は淳仁天皇に譲位したものの、結局、同じ天武系でも、舎人親王系を認めることができなかった。天智系などもってのほかだったから皇位継承問題は行き詰まりでしかない。

父に習った熱心な仏教主義者でもあった称徳天皇が皇位を仏僧にゆだねて政教一致の体制に移行してしまおうと考えたのは自然の成り行きかも知れない。宇佐神宮の神託を使う皇位問題の解決を思いついたのは称徳天皇自身だ。

伝聞程度でしかない神託を勅使の派遣で公式なものにしてしまう。清麻呂に八幡神と対面して真意を確かめて来いなどとあり得ない命令を出した。腹心の法均の弟なら気脈を通じて、神様に会ったが神託は本物だったと報告してくれるはずだと期待したのだ。

しかし、当然のことながら称徳天皇の思い付きは伝統貴族や官僚たちにとって迷惑なものでしかない。実務官僚である清麻呂は称徳子飼いと言えども積極的な宗教国家派ではなかった。混乱が目に見えている極端な変革に賛同するわけには行かなかったのだろう。

清麻呂はそ知らぬ顔で宇佐に行き、八幡神と対面した結果として、神託を否定した。この事で称徳天皇の計画は頓挫した。神と対面したというのが清麻呂のウソである。しかし、会って来いと命じたのは自分だから何がウソと指摘するわけにも行かない。宣命の感情的な表現は小細工の裏をかかれた悔しさを表している。

解説文にある文言、「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」はいかにも藤原氏好みで、おそらく捏造である。清麻呂は称徳側近であり仏教への傾斜も道鏡の重用も理解していたから、こんな事を言うはずがない。「そんな神託は出ていない。皇位を譲ってしまうのはやりすぎだ」と言った、称徳天皇を諫める程度の文言だっただろう。だから激しく怒った割には清麻呂への処置は穏当だったのだ。天皇の怒りを買って死罪となった人はいくらでもいる。

第二の宣命にある、皇位は天の定めるものであるとする言い方は、称徳天皇の皇位継承問題に対する居直りと読める。仏教国家への転換を否定された今、皇位については、もう、なるようにしかならない。あたしゃ知らないよという宣言である。だから清麻呂に対する処罰は続け、道鏡の重用も続ける一方、皇位継承については何も語らなくなった。

称徳天皇没後、いろんな逸脱を正さなければならないという事はあった。法王などという地位はなくなった。清麻呂が都に呼び戻されたのはその一環であったに過ぎない。その後起こった事柄を見れば、称徳側近が宮廷から排除されることになっただけの事だと考えるしかない。道鏡は遠ざけられたし清麻呂は正五位に復位したが事件後10年に渡って昇進もしていない。

光明天皇からは疎んじられていた清麻呂であるが、桓武天皇になってからは逆に重用されるようになった。母親の出自のために桓武天皇は皇族ではなく官僚としての道を歩んでいたから、同僚として宣託事件での清麻呂の機転を利かせた対応などを見ていたのかも知れない。

活躍の場が多くなり、続日本紀の記事に登場する回数も多い。摂津太夫として淀川水系の河川工事を行い、さらには平安京の建設を行った。こういった事績が清麻呂を神と対話出来てもおかしくない人物とみなされるようにしていった。

続日本紀が編纂されたのは797年、まだ清麻呂が存命していた時であるが、清麻呂は実務官僚であり、イデオロギーにはこだわりがない。いまさら八幡神との対話は機転を利かせたウソだったとも言えず、苦笑いしながら続日本紀の歪曲を受け入れたことだろう。日本後記では身の丈3丈の大神などとさらに尾ひれがついている。
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道鏡事件はなかった? [歴史への旅・貴族の時代]

中西康裕さんの講演を聞く機会があった。道鏡事件はなかったという大胆な学説だ。道鏡事件は、悪僧道鏡が称徳天皇をたぶらかして、皇位の簒奪を狙った事件だとされている。宇佐八幡宮の神託を偽造したのだが、和気清麻呂が八幡神の正しいお告げをもたらして撃退したという続日本紀の物語だ。道鏡と称徳天皇の男女関係がセンセーショナルに扱われることも多い。しかし、称徳没後も、清麻呂が表彰されたわけでもく、道鏡も失脚はしたが処罰されたわけではない。謎の多い事件である。

続日本紀の宇佐八幡宮神託事件部分は、2つの宣命と、その間に挿入された解説文からなっている。宣命は天皇の声明文であり、書記が記録したものだ。むろん解説文は、後日続日本紀が編簿されたときに誰かが執筆したたものである。

最初の宣命は、和気清麻呂に対する怒りと処罰が述べられている。しかし、後の宣命は、聖武、元明の事績を語り、自己の天皇としての正当性を強調し、皇位に関しては天が定めるものであり、あれこれと論議するべきでない、と読める内容だ。

道鏡を皇位につけようとして、皇位問題を持ち出したのは天皇自身だ。それに対する妨害に怒ることと、皇位について議論することを戒めるのとでは180度方向が異なる。それがわずか6日の間隔で出されていることについては、古くから疑問があった。本居宣長は、二つ目の宣命は記載する場所を間違えたものであり、本来淳仁天皇を廃帝にしたところに挿入すべきものだったのではないかとしている。

中西康裕さんは、文体研究を通して、二つの宣命が同時期に書かれていることを見出し、本居宣長などの説を否定した。宣命は漢文でなく読み下しで、助詞などが間に小さく書いてある。この書き方は一定ではなく、書記によって異なることから、二つの宣命は同じ書記によって書かれていることが明らかになったのだ。

そうすると二つの宣命の矛盾はどうしたことだろう。この間に称徳天皇は方針を変更して改心したという解釈もあるのだがそれはおかしい。和気清麻呂に対する処分は、因幡員外介への左遷から大隅への島流しへと段階的にエスカレートして行き、この時はまだそれが進行中だからだ。

途中の解説を無視して、宣命だけを分析してみると、第一の宣命では清麻呂がウソの神託を報告したと怒っているが、その神託の内容については全く語っていないことに気が付く。解説文が述べているような道鏡事件とは関連がなかった可能性がある。むしろ清麻呂が誰か皇位継承者候補(他戸王?)を挙げての皇位継承神託を上奏して怒りを買ったという方が、後の宣命との整合性がある。

二つの宣命の間にある解説文は、後世勝手に付け加えた藤原氏の策謀にすぎず、道鏡事件なるものは実在しなかったというのが所論だ。称徳没後、皇位は天智系に移り、藤原氏が擁護する皇統となったが、その正当性を強調するためには、称徳を否定してしまってはまずいのだが、ある程度貶める必要があったのだということだ。道鏡はそのために利用されたのである。

しかしながら、この説には納得できないところが多々ある。続日本紀が書かれたのは事件からわずか25年後のことだ。事件はまだ人々の記憶にあるのだから、歪曲はあるとしても、全くの捏造解説を挿入するのは難しいのではないだろうか。

ただ宇佐八幡宮の神託があっただけでなく、清麻呂をわざわざ確認に行かせた理由は何だったのか。直前に、清麻呂を六位から五位に昇進させて、大きな結果を期待していたことは間違いがない。中西さんが推測するように由義宮の造営に関する神託なら何もこんな下工作をする必要はない。清麻呂が問われたことと関係のない皇位問題を勝手に持ち出したというのも不自然すぎる。

称徳天皇にとって皇位継承問題が最大の課題だったことは言うまでもない。宇佐八幡宮の神託で演出しなければならない重大問題は皇位継承以外にあり得ない。清麻呂に宇佐八幡宮のお告げを確認する報告をさせて自分の皇位継承問題に対する決着を承認させようとした。その目論見が破たんしてしまったのがこの事件だったとみるべきだろう。

持統天皇以来の歴代女帝の草壁皇子系統へのこだわりは極めて強い。しかし、期待を寄せられた聖武天皇は皇位伝承への意欲が薄く、仏道修行への傾斜を強め、前代未聞の生前退位まで行い、出家してしまうということに至った。年若くして皇位を託された称徳天皇にとっても、歴代女帝の宿願であった草壁皇子系統へのこだわりは絶対のもので、一旦は淳仁天皇に譲位したものの、結局、同じ天武系でも、舎人親王系を認めることができなかった。第二の宣命でもこの点を強調している。
天智系など、もっての他であったから。草壁皇子系統が絶えるとすれば、聖武天皇以来の仏教帰依を進めて政教一致の新たな天皇制にしたほうがましだ。称徳天皇自身も聖武天皇に習った熱心な仏教主義者だ。祭政一致の仏教国家を目指した。これが道鏡に皇位を譲ろうとした動機である。ところがこのための工作は清麻呂の裏切りにより破たんさせられてしまった。

第二の宣命にある皇位は天の定めるものであるとする言い方は、は称徳天皇の皇位継承問題に対する居直りと読める。淳仁天皇を立てて後悔し、今度は道鏡を立てようとして反対された。皇位については、もう、なるようにしかならない。あたしゃ知らないよという宣言である。清麻呂に対する処罰は続け、道鏡の重用は続ける一方、皇位継承については何も語らなくなった。事実、道鏡の失脚、光仁天皇の擁立など全ての動きは称徳没後になってしまった。

宇佐八幡宮神託事件は称徳天皇の皇位継承策である祭政一致の仏教国家への転換が失敗したというだけの事件であり、道鏡が皇位を狙って策謀したり、清麻呂が反道鏡で奮闘した事件ではないだろう。この点では、続日本紀の解説は鵜呑みにできず、やはり後世藤原氏の脚色が含まれているとみるべきである。藤原氏の庇護のもとにある天皇の正当性が続日本紀の主題だからだ。

小野妹子の行き先 [歴史への旅・貴族の時代]

聖徳太子が607年に小野妹子を隋に送った、遣隋使がわが国外交の始まりであると教科書にあり、少年達はこれを信じて年号を覚えたりもした。遣隋使を歴史的事実と考える根拠は日本書紀の記述なのだが、実は日本書紀にも遣隋使のことは一言も書いてない。

どう書いてあるかと言えば、小野妹子は「遣唐使」と書いてあるのだ。607年にまだ唐の国は無く、隋の時代だからということでこれを勝手に遣隋使と読み変えた本居宣長の解釈が今も引き継がれている。

日本書紀が編集されたのは、遣隋使よりも100年経ってからなのだが、その目的は姉妹書である古事記の前書きにあるように「いろんな俗説があって万世一系の歴史が正しく伝わっておらず、これを正す」ためであった。それまでにも「日本旧記」などいくつかの歴史書があったのだが日本書紀によって「統一」された。

だから目的に合わない所は容赦なく書き換えられた。編者は隋のことを知らなかったのではない「隋書」もよく読みこんだあとが見られる。隋が滅びて唐に変わったなどという易姓革命の思想が万世一系の皇国史観に不都合なので、唐は昔から万世一系唐であったという立場で貫いたのだ。4回出てくる遣隋使の記述は全て大唐に派遣されたことになっている。日本書紀を書いた頃には、もう当時の人は生きていない。好きなように書いても文句は言われなかったのだろう。

遣隋使以前にも中国との交流はあった。魏志に卑弥呼が載っていることを考慮して神功皇后の統治を書いた。倭の五王が朝貢もしていがこれは完全に無視している。別の系統の政権なのか、ともかくもその時代の記録は大和朝廷にはなかったようだ。大和政権にはナショナリズムが芽生えており、中国に対して臣下の礼を取る姿勢を持たなかった。だから五王の取り扱いに困ったあげくに無視することにしたのだろう。実効的には大和朝廷としては遣隋使が初めての外交ということになる。

中国側にも遣隋使の記録はあるが、こちらは当然、日本が辺境の東夷であり野蛮な民族であると言う立場で書いてある。隋書にも倭の使節の記録が4回出て来るが日本書紀とは符号しない。最初の600年のものは日本書記にまったく記述が無く、2回目の607年が日本書紀の一回目と合致する。答礼使裴世清を送り返してきた608年の3回目のあと610年の帝記にも記述があるが、日本書紀にはなく、「その後遂に絶えぬ」とそれ以降になる622年の遣隋使をも否定している。

隋書は50年後に書かれた物だから日本書紀の記事より同時代性は高い。中国には帝記、起居注の記録を残す伝統があるし、言い伝えなら50年後と100年後では随分違うだろう。日本を蛮族と見る偏見は考慮しても、裴世清が日本に行って来て、報告もしたわけだから、日本の様子等についての信頼性は高い。日本書紀の編者も隋書を読みこんで、それに合わせた記述をしたはずだ。607年の記事も隋書に合わせて書いた創作の可能性さえある。なにしろ隋を唐とさえ書くくらいだ。

日本書紀が無視した第一回の遣隋使の記録を見てみよう。尋問記録だから倭王の事を聞かれてオオキミと答えた。日本では偉い人を名前で呼ばない。この地位の根源は天孫アマタリシヒコなのだが、これを隋では姓が阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雉彌と捉えた。王妃は倭語でキミ(后)になるし王子はワカミタフリである。源氏物語に出てくる「わかんとおり」の語源だろう。

政情を聞かれて「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けざる時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねる」とわけのわからないことを口にした。おそらく倭王は天と日を兄弟とするような大人物で、朝は夜明け前から仏道修行に励み、夜が明けたなら現実世界の諸事を取り仕切るというような事を言いたかったのかもしれないが、結果は「此太無義理」でたしなめられて終わった。

風俗としても刺青が多く、文字は無いし、貫頭衣のような原始的な衣類となれば、100年後の大国日本としては芳しい記事ではないので無視したのだろう。倭王が男だったと読めることが問題になっているが、720年代の常識ではオオキミは大王でも大后でも構わない。法隆寺薬師如来光背の銘文では推古天皇(女帝)を大王と書いている。無視して後世問題になる記事ではないと判断しただろう。

第二回の記事は608年でこれが遣隋使の最初とされているが中国側から見れば二番煎じで印象が薄いし、日本側にも、ただ「行った」と言うだけでしかない。小野妹子は蘇因高という中国名まで持って達者に渡り合ったとしているが中国側の記録には全く登場しない。小野妹子が隋煬帝に謁見しておれば書が与えられたはずだが、日本書紀は百済人に盗まれて無くなったと書いている。おそらく面会は出来なかったのだろう。

持って行った国書は、「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」といった空気の読めない内容で叱られてしまい、面会に至らなかったのだ。後世、国威発揚の名文として持ち上げられたりしているが、他にも匈奴が出した「天所立匈奴大単于、敬問皇帝、無恙...」といった文例も多くあり、特に尊大な文章ではない。文自体に問題はないのだが隋の皇帝にしか使ってはいけない天子という語を使ってしまったのが間違いと言うことになる。日本書紀の編者もこれを国威発揚とは受け取らずむしろ文法の間違いとして恥じたのだろう。国書のことは、意外と思われるかも知れないが、日本書紀に一切書いてない。

この使節の重要なところは文林郎の裴世清を答礼使として倭国に派遣させたことだ。高句麗に手を焼いていた隋としては高句麗の背後を脅かす倭には興味がそそられただろう。608年裴世清の来日は飛鳥寺の丈六光背の銘文からも確認できる。中国からの使者が来たことで大歓迎した様子が日本書紀にも隋書にも述べられている。日本書紀には「裴世清親持書。両度再拝、言上使旨而立之」と書いてあるがこれはウソだろう。隋の使節が東夷の族長に最敬礼することはあり得ない。逆に天皇が再拝して書状を受け取るのが隋の「礼」である。後に訪日した唐使高表仁は天皇に礼を守らせられずに国書を渡さずそのまま帰っている。裴世清が大歓迎を受け、満足して帰ったということは、隋使に対して天皇が「礼」をつくした事になる。

ともあれ、隋から使いまで来たのに気を良くして608年には大訪問団を送った。これは3回目になるが、高向玄理や僧旻といった後に政界で活躍する人物が同行しているから日本書紀としても重要であった。しかし隋から見れば裴世清を送るのに大勢で来たとしか受け取られなかった。裴世清の報告以上の記事は無い。

日本書紀には犬上三田鍬たちの第4回がかかれているが隋では「この後、遂に途絶えた。」と無視されてしまっている。特に新奇なことがなかったからだろう。その後に送られた遣唐使は国名を日本と名乗り、明らかに唐に対して臣下ではないとの矜持を持って接しており、過去の倭の五王の臣下の礼とは縁を切る姿勢が見られる。あるいは倭の五王の政権とは関係のない新しい政権だったかもしれない。遣隋使はその中間の部分であり、名前だけでなく中身も遣唐使的に脚色されている存在なのだ。

水時計は何故四段仕掛けなのか [歴史への旅・貴族の時代]

20110204205348c0d.gif当然ながら大昔には時計がなかった。人々は明るくなれば起きて働き、夜になれば寝ればいいのだからそんなものは必要もない。しかし、律令国家なるものが出来て役人が生まれると、一日に何度も会議やプレゼンが必要となり、時刻を知る必要が生じてしまった。多くの国々では国家の成立以前から日時計が使われていたが、エジプト等と違って日本は湿気が多い。日時計が実用になるのは一年の3分の一もないから実際に使われることもなかった。

だから日本の最初の時計は水時計である。時刻は人為的に作られたのである。日本書紀の660年に中大兄皇子が初めて漏刻つまり水時計を作ったと記されている。逆に言えばそれまでの国家というのは会議もろくにやらない、いい加減なものであったということだ。時刻を定めるということは国として成り立つための最低条件でもあった。

その漏刻というものがどのようなものであったかというとき必ず出てくるのが上の図の様なものである。もちろん日本書記に図解はない。これは唐の呂才という人が書いた書物に出てくるだけで現存しているものでもない。中国文化の輸入に熱心だった大和朝廷はどうせこのような当時の最新技術を取り入れたに違いないと言う推定でしかない。飛鳥水落遺跡は石作りで周りには水堀が張り巡らされているから呂才の水時計と関係があるとも思われない。四段式は後述するように座敷に置いて特に大量の水がいらないことがポイントなのだ。

四段式水時計には高度な技術がいる。普通に上の容器から下の容器に水を落とせば、流れは一定ではない。流量は上の水位の平方根に比例するのだから、始めは多く流れてだんだんと流れは小さくなる。これでは比例で時間を計る訳にはいかない。

高低差が滝のように大きくて、水量豊富であれば、上の容器を絶えずあふれさせて水位が一定になるようにすることが出来る。飛鳥水落遺跡はあるいはこのようなものだったかもしれない。しかし、これは地形が限られており、山の中にでも作らないことには難しい。時計が必要とされるのは、全く反対の場所、役所の中、屋内である。

そこで工夫されたのは、上の容器の上にさらに容器をつなぎ、水位を一定に保つ仕掛けだ。呂才の漏刻は4段式で上から「夜人池」「日人池」「平壷」「萬分壷」とあって最後に「水海」に注ぎ込まれた水量が時間に比例するようになっている。各段の間はサイフォンで結ばれているから、水位が下がれば高低差が増えて流量が増えるというフィードバックメカニズムが働く。これならどこの座敷にでも置ける。
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うまくフィードバックが働くかどうかをシミュレーションで計算してみたのが左の図である。図をクリックすると拡大できる。「夜人池」に水位100cmまで入れた水がカラになるまで30時間の各段の水位がプロットしてある。各段の高低差は50cmにしてある。「日人池」「平壷」の水位は変動するが「萬分壷」の水位は一定に保たれ、その結果、「水海」の水位はほぼ完全な直線で増加している。「萬分壷」の水位誤差は0.5%以下である。

流量は高低差の平方根でしか変化しないからフィードバックのゲインは高くない。だから段数の多いほうが誤差が少ないということになるが、3段でやってみると約4%になった。2段では20%にもなる。4%では積み重なって数分の違いになるから四段との差がある。0.5%以下は当時としては較正のしようもなくこれ以上の精度は無理だっただろう。五段にしても、水温など他の要素の誤差のほうが大きくなるから全体の精度は上がらない。だから水時計は四段式なのである。
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左図は一日2回「夜人池」に水を継ぎ足した場合のシュミレーションだ。「夜人池」が大きく変動するにも関わらず高い精度が保たれていることがわかる。「漏刻博士」が置かれてその任にあたっているが、この実際の運転はなかなか大変だったろう。多分天体位置で較正してバルブを調節したのだろう。水の粘性は気温によっても変わるし、木製の漏刻は漆などで保護しても結局腐食して長持ちしない。常に補修も必要だっただろう。

水時計は奈良時代平安時代を通して長らく宮中で使われはしたが、南蛮人から機械式時計の技術がもたらされるとたちまち新技術にとって変わられた。江戸時代に使われた形跡はない。古い技術である線香時計などはその後も補助的に使われたがメンテの大変な水時計はもはや全く使われることもなかった。日本の理系研究職の元祖ともいうべき漏刻博士がいつまで続いたかもあきらかでない。

和気清麻呂 [歴史への旅・貴族の時代]

戦前の歴史教育では、道鏡の悪企みを打ち破り、萬世一系の天皇家を守った忠臣として和気清麻呂の名は欠かすことのできないものだった。具体的にどうやって守ったかというと、「血縁のないものは天皇になれない」という八幡神の「お告げ」を、迫害を恐れず正直に伝えたと言うことであるから、この話自体が神話でしかない。宇佐八幡宮神託事件と言われるものであるが、これでは歴史として扱い様がないから戦後の歴史教科書には名前も出てこない。

しかし、和気清麻呂という人物が実在し、神話的な業績が伝えられるほど大きな働きがあったこともまた事実の反映だろうと思われる。続日本紀には宇佐神宮の神託以外にも何度か和気清麻呂が出てくる。

もともと和気の一族は備前磐梨郡あるいは藤野郡あたりの地方豪族だった。その元をたどれば、おそらく製鉄技術を持って大陸から渡来した一族だっただろう。渡来系として知られる秦氏と近く、また先祖神に鐸石別命とか稚鐸石別命といった石にちなんだ名前が出てくることから推察される。藤野郡の地方豪族は七世紀になって大和族の支配が全国に及ぶとこれに従属して地方官となって行った。国司は中央から派遣されるが、郡司は土着の豪族に与えられた地位である。平城京が出来て律令制が整って来ると地方官はその子女を釆女あるいは衛士として都に送ることが義務付けられた。磐梨別乎麻呂の娘、広虫とその弟清麻呂が都に出仕したのは七五〇年頃のことだ。

大和の国は豪族の連合体から天皇家を中心とする統一国家への変貌を見せており、行政を担当する官僚の出現が必要だった。それまでは、蘇我、物部といった有力豪族の連合体で出来ていた政権を大和朝廷が単独で支配するようになり、独自の政策を、有力部族に頼らずとも隅々まで行き渡らせることが出来る機構が生まれていた。しかし、そういった機構の実質は権力を持った有力者が握り、政争が繰り返されることになった。藤原不比等、長屋王、藤原四兄弟、橘諸兄、そして藤原仲麻呂と、目まぐるしい政権の変遷があった。奈良時代というのは皇位をめぐって大和族内での争いが絶えず、血を血で洗う内紛の連続だった。十七条憲法も律令も、下々に与えられた法であり、天皇や有力者を規制する条項は何も無いのだから止むを得ない。

清麻呂が出仕して登用されたのは兵衛という警備担当の下級職で従八位下の位階だったはずだ。年季があければ国に帰ることも出来たのだが、姉弟は都に残った。文書が巧みだったので、おそらく当番表の作成とか見回り計画の設定とかの、計画管理の手腕を認められたのだろう。当時、読み書きのできる人はそう多くなかった。文章力、企画力が評価され、七六五年には従六位になっている。従六位は少佐であり、衛士から番長、少志、大志、少尉、大尉を経なければならない。四年に一度の進級試験があったのだが、全部合格したとしても本来ならここまでで二〇年かかるはずだ。それを一五年で駆け上がったのだから異例の出世ではある。中国の制度をまねていたが、科挙ほど厳格なものではなかったようだ。高官の師弟でないものは、清麻呂のように従八位から試験で進級しなければならなかったのだが、高官の師弟はもっと上位から始められる隠位の制があり、地位は世襲的側面も含まれていた。

清麻呂の場合も、孝謙天皇のお側付きとなった姉広虫の引きがあったことは十分伺える。女官の場合、位階を世襲できないのだが、試験制度はなく、気に入られれば役割りに合わせて位階が上がり、弟への配慮を天皇に頼むことも出来たはずだ。孝謙天皇も、藤原仲麻呂の傀儡から離脱し、自分なりの政治を進めるために子飼いの官僚を必要としていた。藤原仲麻呂の乱があって、その後の混乱を治めるには有能な官僚が役立ったから、このときの貢献も大きかったと思われる。それまで藤野別真人清麻呂などと呼ばれていたはずだが、このころから和気宿禰清麻呂を名乗るようになっている。

孝謙天皇は女帝であり、草壁皇子の皇統を次代に引き継ぐ使命を帯びて即位したのだが、未婚で自分には子孫がおらず、見通しが立たなかった。相次ぐ内紛・粛清で継承権者も枯渇し、天武系列は自滅しかかっていた。血を血で洗う抗争にも疲れ、仏教への傾斜を強めていたところに現れた道鏡を重んじるようになった。藤原仲麻呂の指図で淳仁天皇に譲位をして上皇となっていたが、これにも不満を持っていたのだろう。仲麻呂を追放して自ら重祚して称徳天皇に返り咲いた。しかし、皇太子を選任できない状況は変わらず、皇位承継への展望を失った称徳天皇は、日本をチベットのような祭政一致の仏教国として行くことを思いついた。

一方で留学生や識者の間では唐に習った専制国家としていく方向が模索されていた。世襲権力を無色の官僚が支えて行くという形態だ。宗教国家か専制国家か、この分岐点に立ち、祭政一致の実現を拒否する矢面に立ったのが清麻呂だったのではないだろうか。

称徳天皇自身は仏教に帰衣し、天皇でありながら道鏡を師とする出家の身であった。しかし、国全体としては、チベットのようには宗教化しておらず、皇位をめぐって、新たな政争の元になるのは明らかだった。抵抗が強く、そう簡単に宗教国家に進むことは出来ない。「道鏡を皇位につければ天下泰平」と言う宇佐八幡宮の神託というのは、これを進めるための方策の一つだっただろう。この神託を確認する任務が清麻呂に与えられた。この出発を前に、清麻呂は従五位下に進級し、貴族の中に入ることになった。六位までは地下と言われる一般人である。広虫は常に天皇の身辺にあったし、孝謙上皇とともに出家したりしている。称徳天皇は清麻呂を協力者とみなしていたように思われる。

宇佐八幡宮の神託を確かめに行けとは、どういうことだったのだろうか。宇佐に行っても八幡神に会えるわけがない。巫女の口から出てくる言葉は同じはずだ。称徳天皇は、清麻呂の報告を皇位禅譲に官僚たちを同意させる儀式として演出するつもりだったのではないだろうか。清麻呂は出発までにかなりの時間を取っている。この間、周囲の官僚たちとの議論を繰り返し、重大な結論を出したに違いない。なにくわぬ顔で出発して、八幡神のお告げとしての報告で、祭政一致路線を挫折させたのである。

八幡神と対話してきたなどといい加減なことを言うな、とはいえない。対話を命じたのは天皇なのである。自らの策略を逆手に取られた称徳天皇の怒りを買い、清麻呂は大隈に流された。この時の称徳天皇の宣命は、感情的な怒りに満ちたものであり、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)、別部広虫売などと改名させたりもしている。しかし、抵抗の大きさを思い知らされ、祭政一致自体はあきらめざるを得なかった。やがて称徳天皇の死去で、祭政一致路線は自滅した。日本にはそれほどに根付いた宗教基盤がなかったから所詮無理な体制だったと言うことだろう。称徳天皇が後継者を決められなかったことから、皇統は天智系の光仁天皇に移った。

清麻呂は中央に復活する。しかし、天皇家を守った功労者という評価が当時からあったわけではなさそうだ。従五位に戻されたが、十年後の七八一年、桓武天皇が即位して、従四位下に進級するまで官位は据え置かれている。道鏡も下野薬師寺別当に左遷はされたが、処罰されたわけでもなく、道鏡事件の真相については謎が残る。とりわけ、最初に神託を持ち込んだ習宜阿曾麻呂がその後多島守そして日向守に栄転していることなどは、事件そのものが道鏡追い落としのために仕組まれた罠だったという説を生み出している。

桓武天皇は母親が渡来氏族であったため、皇位継承者とは見なされず、大学頭などの官職についており、清麻呂とは同僚といった関係にあった。父親の白壁王が光仁天皇となり、皇后井上内親王が廃されることで、予期せず即位することになってしまった。陪臣が必要となった桓武天皇は、かねてその力量を知っていた清麻呂を登用することにした。

桓武天皇の信任を得た高官としての、清麻呂の活躍はむしろここから始まる。播磨・備前の国司となり行政手腕を発揮した。具体的に何を整備したかは記録が明らかでないが、藤野郡は和気郡と改められたのだから、多いに功労があったのだろう。

七八六年には従四位上で摂津太夫・民部卿となり、神崎川と淀川を直結させる工事を達成した。奈良の都は大和川の堆積が進み、下流の河内湖へ淀川水系の水が流入することによる氾濫が日常的となっていた。淀川水系の水を大阪湾に流すことで、大和川の逆流を防いだのだが、同時に淀川水系を使った物流路を作ることにもなり、後の長岡京、平安京の造営への布石ともなった。

七八八年には、上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうとしたがこれは失敗している。九〇〇年後、中甚兵衛の新大和川工事が行われたのと同じルートであるから目の付け所は良かったが、当時の技術に台地の岩盤は固すぎたのである。しかし、むしろ延べ二三万人を投じた大工事撤収の手際よさに着目すべきだろう。こういった工事は、政策担当者の意地で長引いて、政権の崩壊要因となったりするのが普通だからだ。清麻呂の見極めは的確だった。あくまでも冷静な計画判断力が発揮できる人物だったのだ。

奈良仏教の悪弊も有り、部族政治の呪縛が続くだけでなく、流水事情が悪くなった奈良は疫病にも悩んでいた。なんらかの解決策が必要であり、その一つとして、長岡京への遷都が検討されていた。淀川の物流も使えるようになり、難波宮の資材を長岡京の造営に再利用するといったアイデアも清麻呂が提案したものだと言われている。こうした長岡京造営への実務上の効労が桓武天皇の信頼を高めていった。

河川工事で学んだことは大きく、これをもとに長岡京の建設を中止して平安京の造営を建議した。平安京は桂川と賀茂川に挟まれ、さらに南には淀川の大きな水流があるので都の中に縦横に流水を巡らすことができる。これなら、大きな人口が張り付いても、疫病に対策に悩むこともないだろう。七九三年には自ら造営太夫となり建設計画を推進し七九四年に平安遷都にこぎつけた。和気朝臣清麻呂の位階も従三位になった。これは皇族でない官僚としては最高位だと言える。

それまでの政治というのは、すべからく権力闘争であり軍事だった。それ以外で功労を挙げた人はいなかったと言っても良い。和気清麻呂には民政という新しい分野を切り拓いたとという独創性がある。最下位から最高位まで民政功労で昇った事跡が後日の神話的な伝説を生み出したのだろう。

備前磐梨から中央政界に踊り出て、世襲貴族の仲間入りをしたかに見えた和気氏も、平安京で藤原氏の天下となってからは、政治的には、あまり出番がなかった。しかし技術的・学術的伝統を保持した家系となり、医学薬学を担当するようになって行った。代々典薬頭などを勤めている。和気種成の「大医習業一巻」が和気医道の集大成だろう。その後、もう一つの医道家系である丹波氏と合流して半井を名乗るようになり、明治になるまで半井医道が将軍家御用、和漢医学の中心であった。本家は半井になって、江戸に移ったが、傍系の和気氏も畿内の医道系で続いたようだ。江戸時代の百科事典「和漢三才図会」の序文は京都の和気仲安が書いている。

現在「和気」という姓は全国に600位あり、畿内全域に少しと、あとは岡山、愛媛、栃木に集中的に存在している。畿内の和気氏は、おそらく半井から外れた傍系の子孫だろう。愛媛の和気氏は讃岐国那珂郡の因支首(いなぎ・おびと)が八六六年に和気公の姓を賜ったことによるもので、清麻呂とは別系統になる。清麻呂が都で初めて和気を名乗ったのであるから、清麻呂が備前の出身であったにせよ、もともと岡山に和気を名乗る一族があったわけではない。岡山県和気郡には和気町もあるが、ここには「和気」を名乗る人はいない。

しかし、清麻呂の系統から、平安末期に武士となり、備中で帰農した一族があり、寛永年間に児島湾の干拓を始めた和気與左衛門が知られている。児島湾は当事、倉敷。松島村あたりまで入り込んでいた。弟の六右衛門清照は備中高松城付近に広がっていた沼地の干拓を行った。岡山の和気氏は彼らの子孫と考えられ、松島村と高松村にその系図が残っている。

栃木県の和気氏は「ワキ」と読み、塩谷郡の高原山麓に分布している。玉生村に系図があるが、これによれば清麻呂の子孫、典薬頭和気葉家が、「罪なくして下野国塩谷郡に流さる」ということが栃木和気氏の祖ということである。代々高原山神社の神官を務めているので、親族だけでなく、氏子へも苗字分けして広まったかも知れない。現在栃木県が「和気」姓の最も多い県となっている。

遣唐使の憂鬱 [歴史への旅・貴族の時代]

古来交易は多くの利益を生み、人々の冒険心をかきたてた。フェニキア人は帆船を駆使して地中海を渡ったし、アラビア人は隊商を組んでシルクロードを踏破した。ところが、古代の日本ではそのような貿易文化は生れなかった。朝鮮半島や中国大陸との行き来はあったのだが大きな発展に結びつかなかったのだ。

おそらく、日本は小さいながらも、当時必要なものは何でもある豊かな土地だったからだろう。水が豊富でどこでも米が取れたし、木炭の材料には事欠かなかった。海は近くてどこでも魚は取れた。衣類は麻から作れたし、木綿もすぐに自給できるようになった。鉄や銅でさえ当時の精錬技術からすれば十分な産出があった。

これは中国も同じで、ヨーロッパと異なり、ことさら貿易に頼ることがなかったので、統治の都合上鎖国が基本的な政策となった。強大な中国は中華思想から周辺諸国を隷属させて当たり前であり、交易は国家間の朝貢ということで行われた。中国の天子の徳を慕って貢物を持ってくる蛮族に、多大な褒賞を与えるのが朝貢貿易の形だ。中国は権威を高めることが出来るし、蛮族の方は大きな利益を得られる。

それなりに交易の恩恵があり、日本でも新しい文化にあこがれて遣唐使はなり手が多かったのではないかと思われるのだが、実はまったくそうではない。遣唐使の場合、どうも派遣をいやがることが多かったようだ。天平宝字5年の遣唐使、石上宅嗣は紆余曲折のあげく結局辞退した。宝亀8年の大使、佐伯今毛人は羅生門まで出かけたところで動かなくなってしまった。承和元年の副使、小野篁は仮病を使ってまで逃げようとして罰せられた。

遣唐使に選ばれるのを嫌がった大きな理由は航海の危険性にある。まったく無傷で往復する例はないくらい危険の大きいものだった。そもそも、嵐の多い9月に南シナ海に乗り出すのが無謀なのだが、正式使節は1月1日の朝義の礼に参列しなければならないのだから仕方が無い。中国に到着さえすれば国賓待遇なのはいいのだが、だからこそ早く行き過ぎると正式使節だとの説明が難しくなる。一番遭難しやすい時期を選んで出かけるのだから危険この上ない。

航海が困難だっただけでなく、正使に与えられた任務はまともに考えれば達成不可能なものだからたまったものではない。遣唐使の時代の日本は、もはや倭国ではなく、強烈なナショナリズムが支配していた。天孫降臨の神国日本と言う定式化が日本書紀でなされ、日本は世界の中心であるという思想が公式に採用されてしまっていた。これは唐の中華思想と完全に矛盾する。

日本が世界の中心であるなどと言うことが対外的に通用するはずもないのだが、遣唐使にはそれが背負わされた。唐に行って堂々と神国日本を主張するのが当然という風潮だ。しかし、現実には難破船と変わらぬ状態で唐土にたどり着くのがやっとだ。流民だと疑われるのも当然の状態だが、唐の地方役人の取調べを受けて、なんとか誰も知らない日本という国からの使節だと釈明しなければならない。

下手をすれば地方に留め置かれ任務は果たせない。何百人もの一行全員が長安に行きたがるのだが大抵人数制限を受けるから、この交渉も大変だ。長安にたどり着くことが出来たとしても、長安には各国から使節が朝貢に来ており、その中で日本をアピールするのは並大抵ではない。日本が大国だと証明するものなど何もない。唐の皇帝に会見できるかどうかはひとえに大使の才覚にかかっている。大使には容姿端麗であることが必須とされた位だ。空気が読めない唐の皇帝への尊大な国書を持たされていることも気が重い。なんとか会見できたとしても、席次が新羅より下にされたりしたら大変だ。実際、席次では毎回もめた。

唐はもちろん中華思想に凝り固まっている。周辺諸国は天子の徳を慕って朝貢し、臣下の礼を取って皇帝にま見える。礼を欠いては会見すら難しい。平身低頭、土下座したりしてなんとか機嫌を取る必要がある。しかし、帰国すれば、対等もしくは日本が上位であるかの報告をせねばならない。小野妹子は隋からの国書を旅の途中で盗まれたなどと言ってごまかした。随員の多い後世の遣唐使ではそうも行かない。下手な国書を持って帰れば内地でぬくぬくと過ごす官僚たちからの叱責は免れない。唐からの国書は結局1つも記録に残っていない。

大体、遣唐使に選ばれるのは、相応の身分まで出世した人が条件になる。唐の皇帝に対して失礼にならない配慮だ。さらに教養高く容姿などでも日本が高貴な国であることをアピールできなければならない。そういった人は日本におれば元々出世が約束されているようなものだから何も命がけで冒険をする意味がないのだ。

日本と唐の根本的な位置づけの違いから、日本から見て、まともな成果は得られるはずもない。そんなことがわかっていて遣唐使に選ばれるのは政敵による陰謀としか考えられないのだ。だから遣唐使は憂鬱な日々を送る。菅原道真の建議で遣唐使が廃止されて平安貴族たちは一様に胸をなでおろしたことだろう。
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