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日本史の始まり [歴史への旅・古代]

もちろん歴史は原始の時代から続いているのだが、日本史としての始まりは、やはり石器時代が終わり、独得の個性を発揮し始めた頃ということになるだろう。日本に青銅器や鉄器が現れたのは、弥生時代の後半、一世紀頃のことだ。

多くの古代文明は、長い青銅器の時代を経て鉄器に至るのだが、これは、銅と鉄の融点の違いによるものだ。鉄器の使用は炉技術の発達を待たねばならなかった。ところが、日本では、銅と鉄の使用が間髪を入れずに始まっている。これは金属技術が徐々に発達したのではなく、技術流入があったことを示している。おそらく金属技術を持った民族が流入してきたのだろう。

しかし、遺跡からは、1000度を超す高温を発生するような、「ふいご」を備えた炉跡は見つからない。普通に炭火を使った炉は800度程度で、銅そのものは溶かせないが青銅なら溶かせる。鉄も800度では溶けないが赤熱して加工することは出来る。鉱石から金属を得るのではなく、金属材料を中国・朝鮮から得て加工していたのではないかとは従来から言われていた。

近年、銅の鉛同位体による分析が進展し、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡でないことが確定的になったが、同様の分析で、さらに古い時代の青銅も中国で合金化されたものであることが確定した。これは非常に大きな発見である。

銅鐸・銅矛の分布から日本には二つの文化圏があったと理解されてきた。畿内では銅鐸が作られ、北九州では銅矛が作られていた。いずれも実用というより祭器的に使われたものだ。文化・宗教が異なる区域だったのだが、これらの銅原料は、どちらも共通して中国から来たものなのである。

どのようにして金属材料が来たかといえば、朝鮮半島を経由して北九州に来るしかない。しかし金属は北九州に留まらず絶えず全国に流通していた。

銅鐸と銅矛は明らかに異なる文化だから、単一の国家であったはずがない。まだ未発達な社会で小さな集団が基礎になっていたはずだ。あちこちに小さな国が分立し、その間で銅鉄が受け渡されていたということは、北九州と畿内の国々には文化・宗教の違いを超えた交流があり、しかも平和な共存が保たれていたと考える他ない。

流通を支配する機構などといったものはなかったから受け渡しは物々交換で行われなければならない。では何が銅鉄と交換されていたのか?しかも、その流れは朝鮮にまで続かなくてはならない。交易が一時的なものではなく持続するには、必ず双方向でなければならない。

金属材料が朝鮮から輸入されたとして、当時の日本から対価として出せるものは労働力と米しかない。気候は温暖で、水が豊富で平地もある。米作には非常に有利な土地であり、食料があれば人口も増える。

朝鮮から日本へは金属材料、日本から朝鮮へは米と人と言う流れがあったはずだ。しかもこの流れは日本全国の金属需要を満たすだけの太いものでなければならない。海峡の行き来は盛んで、同一の言語、同一の文化を共有する海峡国家といったものが形成されただろう。

倭族はもともと、朝鮮半島の南部にいた。江南から伝わった米作の技術を獲得したが、北からの海流のせいで、朝鮮は米つくりには寒すぎる。温暖な気候と肥沃な土地を求めて狭い海峡を渡るのはごく自然な成り行きだ。

倭族が北九州に進出し、そこで生産した米を朝鮮に運び、その代わりに銅鉄を日本に持ち込んだ。本国には銅鉄があり、日本には米がある。これが海峡国家を形成する要因になった。

九州の倭族は銅鉄の輸入にのため自国だけで足りない米を近隣の国々から手に入れ銅鉄を渡した。その国もまた隣国から米を得て銅鉄を渡す。こうして銅鉄は日本に広く広まったのである。銅鉄は米を買う通貨として流通していたとも言える。青銅は腐らないので、蓄財の手法にもなった。銅鐸が多数埋められていたりするのは権力者の蓄財だったのではないだろうか。この社会資本の蓄積が後に強力な統一国家を形成する条件となっていった。

速やかな銅鉄の流通は、倭が海峡をまたいだ海峡国家であることで保障された。倭が海峡をまたいだ海峡国家であったと言うことは奇抜な発想と思われるかも知れないが、実は古文献を素直に読めば、倭は海峡国家だったことにならざるを得ない。

後漢書東夷傳には、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」とあり、朝鮮半島を通じて中国大陸にまで通交があったことが確実である。「漢倭奴国王」と言う金印が志賀島で見つかったことで、この文言の信頼性は極めて高いものになった。

建武中元二年(AD57年)に「倭奴国」という国があり、漢の光武帝から金印を受けたことがわかる。倭奴(ヰド)国の位置は、金印が発見された北九州糸島半島付近であっただろう。この倭奴国を含んで、倭国という国のまとまりがあったこともわかる。金印だから、倭奴国が倭国全体の代表として認められたものだ。単なる倭国の分国であれば、金印ではなく銅印になったはずだ。倭奴国は、九州以外にありようがなく、ヤマト政権や記紀とのつながりをつけようがないので、議論からも軽視され続けてきたが、日本最初の代表国家は、邪馬台国ではなく倭奴国なのである。

この倭奴国は倭国全体から見れば、極南界すなわち一番南にある国だという記述がある。また倭の位置に関する記述では「去其西北界拘邪韓國七千餘里」とあるから北の端は拘邪韓國である。そうすると、倭国というのは朝鮮半島の南部から海峡をまたいで、糸島半島に及ぶ領域だったと考えざるを得ない。倭国は海洋国家だったということになる。

倭が海峡国家であったということは、銅鏡の考古学とも一致する。北九州の古墳群から中国製の銅鏡が多く発見されているがこれは一世紀の漢代から始まっている。大きさも後代のものより小さい。重要なのは、同じものが朝鮮半島にも見られると言うことだ。後代の銅鏡は大和から多く出土するのだが、この時期、大和の遺跡には、まだ銅鏡は現れていない。これは、こういった中国製の鏡が海峡をまたいだ倭国によって保持されていたことを物語るものである。

朝鮮半島の倭族の役割は金属材料を獲得することだったから、韓族と度々衝突することになった。高句麗や新羅の歴史には倭の襲撃が何度も出てくる。これらの戦闘で注目すべきなのは海に追い払ったという記録がないことだ。倭は海から来るのではなく朝鮮半島に常駐する軍事勢力だったのである。軍事力を維持するためにも北九州から拘邪韓国への人口の差し戻しが絶えず必要だったのである。

畿内には、北九州から遅れて三世紀に銅鏡が現れることになった。これを大和王権の支配が北九州に及んでいた証拠だとする説もあるが、これまでの経緯をみれば、その必然性はない。他の銅材料と同じように、支配領域は別個のまま、三世紀には銅鏡も北九州に留まらず畿内にも運ばれるようになったと考えていいと思う。銅鏡の性格も権威の象徴から装飾品に変化していったからだ。

魏誌倭人伝の描く三世紀には、倭国の中心は邪馬台国に移り、糸島半島に当たる部分は伊都国となっている。ここでも狗邪韓国は倭国の一部という記述になっており、海洋国家の名残があるが、伊都国はもはや倭国の極南界ではない。倭国を取り仕切る女王の国はもっと南にあり、さらに南に奴国という強力な国があり、これは女王国と対立していた。邪馬台国がどこにあったかの議論が盛んに行われているが、これまでの経過を見れば、ここで急に邪馬台国を畿内に持ってくるのはいかにも唐突だ。

魏志倭人伝の景初2年(238年)の項には、邪馬台国の女王卑弥呼に親魏倭王の称号をさずけ、銅鏡100枚を与えたことが載っている。畿内を中心として大量に出土する三角縁神獣葡萄鏡がこれに当たるという議論があり、邪馬台国が畿内にあった根拠とされた。景初三年の銘が入った鏡があったことが大きな根拠となったが、出土する古墳は四世紀のものだから時代が違う。不純物同位体の分析から、古墳出土の鏡は国産であることがわかってきたのでこの議論は終わりつつある。

後代の銅鏡は広く分布しているが模様は地域によってすこしづつ違う。国内生産された鏡もやはり材料は中国・朝鮮のものだった。中国鏡も広く分布しているが、これも米との交換による流通があったったからだったと言える。

大きく様相が変わったのは、砂鉄による鉄の国内生産が始まってからだ。青銅器の実用性はなくなったのだが銅も国内の鉱石から精錬されるようになった。もはや海峡国家の必然性もなくなり、これ以降、朝鮮と日本は分離して行った。

三世紀後半になると、大和では銅鐸が作られなくなった。替わって古墳を作ることが始まっていた。何らかのインパクトで宗教と文化の大きな変革があり、それが経済発展と結びついていたことは確かだ。古墳文化になってからの発展は目覚しく、規模はどんどん大きくなっていった。その結果、大和地域の発展は、九州を凌駕するものになっていった。

讖緯説と古代天皇の寿命 [歴史への旅・古代]

日本書紀が記述する古代の天皇は、いずれもやたら長生きしている。神武天皇は、一二七歳まで生きたとされるし、十五代応神天皇まで百歳以上が続出していることになる。この不自然さには、誰でも疑問を持つから、これを讖緯説で説明することが古くから行われている。讖緯説とは中国の漢代の末から盛んになった思想で、歴史や政治上の変革を占星術や暦学の知識によって解釈し予言しようとする説である。

明治の初めにこれを言い出したのは、那珂通世であり、神武天皇の即位日が太陽暦の二月十一日であることを算出したことで知られる歴史家だ。那珂通世によれば、干支が一巡する六〇年を一元とし、二一元を一蔀(ぼう)として、一元ごとの辛酉の年や甲子の年には変革がおこり、さらに一蔀すなわち一二六〇年ごとに国家に大変革がおとずれるというのが讖緯説である。神武天皇の即位は、国家の始まりであるから、この一二六〇年ごとの辛酉の年でなければならないからということで、日本書紀の記述は、時間を引き伸ばさざるを得なかったというのだ。

この説が広く通説のごとく受け入れられているようだ。日本書紀の一年を半年に読み替えたり、あるいは記事のない年を省いたりして編年を再生しようという試みが、今もいろいろとなされている。しかし、讖緯説は周期を定めるだけで、絶対年代を定めるものではない。基準となる革命があって、そこから一二六〇年前を神武即位としたということになる。

一体何を基準にしての一二六〇年なのかというと、当然それは六〇一年となるが、この年には特に大きな事は起こっていない。推古天皇が即位して九年目に斑鳩宮を建立した年である。ころころと都が変わる時代に、斑鳩遷都がそんなにも大きな国家の変革であったのかというところで、この説に疑問が生じる。一二〇年後の日本書紀が書かれた頃から見れば、この他にも大事件はいっぱいあった。こんなものを基準にして国の始まりを規定するのは、どう考えてもおかしいことになる。

讖緯説の基準年がおかしいということの原因の一つは、那珂通世の誤解にあるとも言われている。讖緯暦運説というのは、もう少し複雑である。陰陽五行に基づき、日食、月食、地震などの天変地異又は緯書によって運命を予測する。先秦時代から起こり漢代から盛行した。鄭玄(一二七―二〇〇)が集大成したといわれる。原文は失われているのだが、三善清行の『革命勘文』(九〇一年醍醐天皇に献納)には鄭玄の引用と思われる文が残っている。

「鄭玄曰く、天道は遠からず、三五にして変ず。六甲を一元と為す。四六、二六交相乗ず。七元に三変あり。三七相乗じ、二十一元を一蔀(ぼう)と為す。合わせて千三百二十年」とある。よくわからないような計算だが、結論は、一二六〇年ではなく、一三二〇年が周期である。

那珂通世は、「二十一元を一蔀と為す」だけを取り出して、当てはめを行った。だから何でもない普通の年を、辛酉革命の基準にしなければならないなどという変なことになった。では一三二〇年周期で考えると、基準になる年がいつかと言えば六六一年天智天皇が非公式に即位(称制)した年になる。正式な即位は六六四年だ。このほうが少し大事件ではあるが、革命が起きたといえば、四年前の六四五年大化の改新のほうが、大々的に詔勅も出していて、それにふさわしい。だから、この根拠もやはり釈然としない。

原典が読めないので、定かではないが、「四六、二六交相乗ず」は四元、二元が交互に変となると読め、これだと、最初の七元で変は三回ではあるが六元周期で、「三七相乗じ」とする理由がない。「三五にして変ず」は干支か一五巡する一八〇年の周期と理解できるらしいのだが、これとの重なりをとれば、七二〇年周期となる。二巡で一四四〇年だから、一三二〇年には合致しようがない。那珂通世が単純化して、「二十一元を一蔀と為す」だけを取り出しのは、こういう事情からだろう。そもそも、讖緯説は天下世界を対象とした宇宙の原理でなくてはならず、日本だけを対象とした地域によって異なる基準年を導入するなどと言うことはありえない。

鄭玄の原典が存在しない理由は、魏以降は、排斥されて禁書になったからだ。易姓革命によって王朝の交代を正当化する物騒な学説なので、安定な政権運営に、大変都合の悪いものだった。実際、新の王莽は、これを利用して漢から政権を簒奪したし、謀反合理化に度々使われた。そのため、儒教からも異端とされたり、偽書と規定されたりもした。ただし、革命が唱えられたことは事実であるが、それに周期性があったり、辛酉年に起こるなどという事を記述する文献は、実は残っていない。禁書で消滅したものかどうかはわからない。

日本では、九〇一年に好事家の三善清行が、讖緯説をほじくりだし、改元を上奏したのがその始まりである。本当の革命が起こらないように、改元して厄逃れをしようと言うのがその主旨だ。それ以来、辛酉年には改元が行われるのが定着したが、逆に言えば、この上奏があるまで、讖緯説は普及していなかったということになる。それ以前には、改元も行われていない。辛酉年に大変が起こったことを列挙して、論証したのだが、この時、神武即位が辛酉年であることに気がついて、根拠のひとつにした。しかし、辛酉年に注目しただけで、蔀による大革命には触れていない。三善清行の目的はライバルである菅原道真を追い落とすために、噂として流した道真たちの挙動を、革命を意図するものだと強調することにあった。辛酉が意識されればそれで良かったのだ。そのためか実例として挙げている歴史事項の統一性がなく、讖緯説の論証としては、ちぐはぐなことになっている。

禁書にされたような考えが、早い時期にしっかりと日本に伝わるとも思えない。日本書紀が書かれた七二〇年頃に、日本で讖緯説が常識的な寿命を無視するほど強く信奉されていたと考えるわけにはいかないだろう。異常に長い寿命の根源を讖緯説に求めるには無理がある。禁書にされたとは言え、実際に讖緯説が定着していたならば、後の中国にもその片鱗があるはずだが、実は、辛酉革命説は日本以外でまったく確認されないのだ。三善清行の創作でしかないとも考えられる。そうすると、讖緯説などとは関係なく、ただ単に適当に年代を引き伸ばしただけということになる。もし、神武即位が壬申に当たっておれば、壬申革命説が持ち出されたことだろう。

日本書紀の成立史が、この問題では大きなヒントになる。森博達氏の研究によると、α群に属する日本書紀記述の第一期は、二一代雄略天皇から始まっていたのだが、ここでは資料に基づき、人間としての天皇の寿命を記述した。歴史を書くという意識が貫かれていたのである。第一期がここから始まったということは、それ以前の資料がなかったということになる。

それ以前を付け足した第二期執筆では、歴史としては書けない部分に足を踏み入れた。神代とそれにつながる天皇の系譜が主題である。資料と呼べるものはなく、言い伝えに創作を継ぎ足した記述にならざるを得ない。この問題に先鞭をつけたのは古事記だ。古事記は、編年体ではなく、年代をあまり意識せずに記述が進んだ。応神以前に15代もあれば、神とつながってもおかしくない、十分に昔のこととして描ける。しかし、日本書紀は本格的な歴史書としての体裁を取った。中国の歴史書には紀元前の記述もあり、普通に考える15代前では、神代として不具合になることがわかった。いまさら天皇の人数を増やすわけにも行かないので、日本書紀では、寿命を引き伸ばしたのだ。

当時の考え方としては、寿命が長くなることは、そう不合理ではなかった。天孫降臨で、天皇は神の末裔であるというのが根本的な考え方であり、神は永遠のものでなくてはならない。神へとつながりを持たせなければならないから、当時の人にとっても神話であった一五代応神天皇以前については、当然寿命は長くなる。病気は「たたり」だとか不純なものの結果であると考えられていたので、人間であったとしても、神に選ばれて国を治めた過去の偉大な天皇の寿命が短くあってはならないことは、いわば常識だっただろう。そうすることによって、魏書にある卑弥呼の部分を、神功皇后に匂わすことも出来て、一石二鳥だったとも考えられる。

紀元前六六〇年、明らかに弥生時代の、まだ大きな集落や、ましては国と言えるものが存在し得ない次期に神武即位を設定してしまったのだが、もちろん、その時代に考古学的知識は皆無だったのだからしかたがないだろう。
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