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万次郎と彦の接点 [歴史への旅・明治以後]

長い鎖国の時代を超えて、日本人の目が世界に見開かれるようになった時に、いち早く英語を身につけたのは、漂流した庶民だった。中浜万次郎とジョセフ彦が、鎖国日本に風穴を開けたと言える。二人が、世界をどのように理解したのか、そして日本が二人をどのように受け入れたのかは、大変興味深い。同じ時代に、同じ分野で活躍した二人ではあるが、実は驚くほど接点が少ない。共同して何かをやり遂げる意思を持ったのではなく、それぞれに時代を生き抜いたということだろう。

万次郎は一八二七年に生まれた土佐の漁師のせがれだった。父が死に、子供のときから漁に出た。何の教育も受けず、日本語の読み書きもできなかった。一四歳の時に、足摺沖で遭難し、十日間漂流して鳥島にたどり着く。絶海の孤島で半年あまりを過ごし、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された。ハワイで下船して帰国を望む仲間と別れて捕鯨船に残り、一年四ヵ月の航海を続け、マサチューセッツ州・フェアヘーブンについた。万次郎の英語は、この航海中に耳から学んだものだ。若さゆえの好奇心が、日本で最初の英語習得者を生んだ。

船長に見込まれ、ここで教育も受けた。三年間の教育で、数学、測量、航海、造船なども学んだ。航海士となった万次郎は、大型捕鯨船に乗り込み、二年がかりで世界一周を果たしている。船を下りたあと、カリフォルニアで金鉱探しに参加して、これで金を稼ぎ、帰国を策した。学んだことを日本に伝えたいと言う気持ちもあったし、故郷には帰りたかったであろう。ハワイから上海に渡り、日本への便船を待ち、翌年沖縄に上陸した。

一八三七年に播磨で生まれた彦が一三歳で遭難したのは、二三歳の万次郎が上海にいたころになるから、丁度すれ違いということになる。彦は漁師ではなく、見習いに過ぎなかったが、船乗りあるいは商人だった。寺子屋にも通い、多少は読み書きも出来たことが、万次郎との大きな違いだ。伊勢大王崎沖で廻船栄力丸が暴風雨に巻き込まれ、二ヶ月洋上を漂流して、米商船オークランド号に救われた。

サンフランシスコで一年余り、船員たちの庇護の下、下働きをして暮らし、ペリーの日本遠征に乗船して帰国することになった。彦の最初の英語は街で覚えた生活英語だった。香港まで来たが、ペリーの船を待つ間に、気持ちを変え、サンフランシスコに戻る。このまま鎖国日本に戻ることに不安を覚えたのだ。日常生活に事かかない英語を身につけていたと見える。自分の意思でアメリカで生活することを選び、教育を受けるために、キリスト教徒にもなった。

こうした心の自由は、当時の日本人にはあり得ないようなものだった。たとえば、同僚の仙太郎は、ペリーと共に浦賀に着いたが、幕府の役人を見ると、土下座するばかりで一言も発することは出来なかった。後年、宣教師に連れられて帰国したが、外国人居留地から一歩も出ることはなかった。鎖国日本の桎梏は厳しく日本人の心まで支配していたのである。実際、同時代に漂流してある程度の英語を習得した日本人は、他にもかなりいたのだが、それを役立たせたという点で万次郎と彦だけが特別だった。

比較してみると、万次郎のほうが帰国の願望が強かったし、そのために日本の制約を受け入れ、決してキリスト教徒にならなかった。帰国してからは、幕府や藩にも従順で身分をわきまえた行動に終始した。彦はもっと解き放たれており、キリスト教徒となることにも躊躇しなかった。アメリカ国籍をとり、日本の身分制度を蹴飛ばしてしまう行動を取った。生まれは十年違うのだが、激動期の10年の違いが大きいのかも知れない。

琉球に着いた万次郎は、薩摩に送られ、さらに土佐に送られ、白州に引き出されての詮議を受けた。蘭学が盛んになり、土佐藩でも万次郎が得てきた知識に関心があった。万次郎を城下に留め置き、士分に取り立てた。士分といっても、御扶持切米を与えられる「御小者」だから、中間のさらに下で、苗字もなしである。

黒船が来航し対外対応が必要となった幕府は、情報を得ようとして万次郎を江戸に差し出させた。このとき、普請役格となり、中浜万次郎を名乗ることになった。直参であるが、二十俵二人扶持だから、下役であり、結局一度も江戸城に登城することはなかった。江川英龍の住み込み秘書といったところだ。江川邸で多くの幕臣に英語を伝授したが、二度目にペリーが来たときも、幕府からの信頼が得られず、通訳はしていない。英語以外の専門知識は捕鯨と航海術だったので、幕府在任中は、この指導が大きな仕事になった。

彦のほうは、教育を受けたあと商人を目指した。ブキャナン大統領と面会したりして、活動の範囲も万次郎より広い。米国市民権を取り、日本に帰っても鎖国令の処罰を受けないように考えた。日本には、神奈川に領事館を作る公使ハリスの私的通訳としてやってきた。アメリカ人に日本の身分制度は通じない。幕府の重役といえば殿様なのだが、彦はものおじすることなく対等な交渉相手として振舞っている。このあたりは、完全に時代を超えている。

彦が神奈川に来たころ、万次郎は江戸の軍艦教授所で航海術を教え、「鯨漁之御用」となり、洋式捕鯨の定着を試みていた。外国人は江戸に立ち入りが許されなかったので、万次郎と彦が出会うことはなかった。黒船騒ぎは一段落して、日本で求められることが言葉だけから、言葉で伝えられる内容に移っており、万次郎も文明を伝えようとしていたことがわかる。しかし、航海術は文献も豊富になって来ていたので長くは続かなかった。捕鯨は万次郎の専門分野であるが、これについては、日本の漁師に学ばせることがなかなか難しく、あまり進展しなかったようだ。

幕府は、一八六〇年に遣米使を渡航させることになったが、これは両者が関わるものであった。ハリス公使の通訳である彦は派遣調整の窓口でもあったし、万次郎は幕府が抱える最良の通訳である。しかし、この時も、万次郎は幕府には信用されなかった。身分制度のもとでは、漁師出身者を表舞台に立てることはなかったのだ。正使が乗るポーハタン号ではなく、護衛船咸臨丸の通訳となった。彦はポーハタン号を訪れ、村上摂津守などの使節と会見しているし、友人ブルック大尉を咸臨丸に見舞っているが、自伝にも万次郎と会ったという記録はない。

咸臨丸の航海については、福沢諭吉が詳しく書き残しているが、これにも万次郎は、ほとんど出てこない。諭吉と万次郎がウエブスターの辞書を買った、と一言出てくるだけだ。初めて訪れるアメリカの事を知っている万次郎に、色々と教わっても良さそうなものだが、その様子がない。土佐の漁師であった万次郎がアメリカで得た知識は、捕鯨と航海に限定され、社会制度や自然科学の広い理解は出来ていなかったのではないだろうか。諭吉も通訳の資格で乗船している。諭吉、彦、万次郎は得意分野が被り、お互いに敬遠するところがあったのではないだろうか。


彦は、サンフランシスコの街中で暮らし、社会制度や、商取引についても知見を持っていたから、万次郎よりも視野が広い。ハリスの通訳を退任して、横浜での商売を試みている。日本初の新聞紙を発行したりもした。大政奉還に揺れる日本で、「国体草案」を提言し、この中で二院制議会を作り、諸大名が合議する院と百姓町人を代表する院を設けることを提言しているのは画期的だといえる。坂本竜馬の船中八策どころではない。

咸臨丸が出航したあと、日本は反動で尊皇攘夷熱が高まり、ヒュースケンの暗殺などもあって危険が感じられたので、彦は一度アメリカに戻る。このときリンカーン大統領とも面会し、今度は、アメリカ領事館の正式な通訳官として日本に戻った。遣米使節団から戻った万次郎は、鳥島や小笠原に出かけての調査を行うなどの任務をやっているから、彦との接点はない。大政奉還の大波が訪れ、幕府も調査をやらせる余裕がなくなり、万次郎を薩摩に貸し出すことになった。

この頃、彦は、グラバーに誘われて領事館を辞して、拠点を長崎に移した。やはり、商売で身を立てたいというアメリカンドリーム的な発想が続いていたようだ。茶の輸出をもくろんでいたし、鍋島炭鉱開発にも関与した。薩摩に呼ばれた万次郎は、上海などに行って軍艦や武器の買い付けを手伝うことになった。グラバーは武器商人でもあったので、薩摩藩士と共に長崎にも出張した。長州が薩摩名義で武器を購入したのはこのときである。一八六七年一月六日に、万次郎と彦が対面したことは確実である。しかし、その感想とか、二人が何を話したかについては何も記録がない。

1968年は明治の政変があり、世の中が変わった。もはや武器も高値で売れなくなり、グラバー商会は倒産して、彦は神戸に住み着くようになった。彦はグラバー商会つながりで薩長と通じていたし、神戸で伊藤博文などと知り合い、明治政府とのつながりができた。神戸事件は無名の伊藤博文が政府中枢に駆け上がって行くきっかけとなった事件であるが、政治的な立ち回りが早い伊藤のような人物が、自ら通訳するようになり、もはや彦などに頼るようなことはなくなっていた。

彦は大蔵出仕となって、造幣局の設置や商業教習を行うが、ビジネスをやりたいという気持ちは変わらず、茶の輸出を行う。彦のビジネスはそこそこ儲かったようだが、一市民としての暮らしに終わった。浜田彦蔵を名乗ったが、最後は外人墓地に葬られている。結果としてはあまり成功だったとはいえない。万次郎は、幕府がなくなったあと土佐に帰るが、新政府から呼び出されて、開成学校で英語を教えることになった。明治政府の遣欧使節団に加わり世界をもう一度回ったが、大きな表舞台に出ることはなかった。

日本国憲法と国連憲章 [歴史への旅・明治以後]

日本国憲法は見事な体系性を持っており、法律条文としては、完成度の高いものだ。これが、軍人の集まりに過ぎないGHQから出された草案に基づいているとは驚くしかない。GHQ民生局は、実は、法学者集団であり、日本国憲法は、当時の最高水準の法学的英知を結集したものであった。民生局長ホイットニー准将は法学博士でもあったくらいだ。当然、同時期に作られた国連憲章とも関連がある。

日本国憲法と国連憲章の前文を比較してみよう。

日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と先の大戦に関する深い反省と人権を基礎とすることへの移行を宣言している。

国連憲章は、「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し」と、やはり大戦の反省と人間の尊厳を共通の価値観とすることを強調している。

人としての権利=人権を価値観の基礎に据え、平和と民主主義実現を目指す考え方は両者に共通したものと言える。この他にも日本国憲法と国連憲章は相補性を持っており、同じ考え方に基づいたものだと考えられる所が多い。日本国憲法はGHQ民生局次長のCharles L. Kades大佐が中心となって起案したとされているが、この人は、ハーバード大学大学院で学び、ルーズベルト大統領のニューディール政策を担当している。GHQ民生部に配置された優れた法学者の一人だ。

国連憲章を起案したのは米国務省特別政務室長のAlger Hissだが、この人もCharles L. Kades大佐と同じ年(1926)にハーバード大学法科大学院に入っているから同級生だ。ニューディール政策で政府機関入りをしているのも共通だから、年来の同僚ということになる。国連憲章と日本国憲法は、こうした人的つながりからも密接な関係がある。Alger Hissはヤルタ会談からサンフランシスコ会議で事務局を率い、国連憲章を起草しただけでなく、国連の枠組みも彼の手によるところが大きい。国連の生みの親とも言える。

国連憲章の平和に関する考え方は、国連憲章2条4項に示されているように、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力よる威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」と、武力行使を全面的に否認する立場だ。

これは、日本国憲法では9条1項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と示されている。

日本国憲法9条2項では、それを具体化するために「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と軍備の放棄と交戦権の否定を定めているが、国連憲章はこれにどう対応しているのだろうか。

国連では、平和を守るために「集団安全保障」という考え方をする。これは集団的自衛権とは全く異なる。集団的自衛権=軍事同盟、集団安全保障=相互制裁協定とすれば、わかりやすいかもしれない。

一国が単独で自国の安全を保障しようとすれば、他国に優る軍事力を持つ以外に方策はない。各国が皆これを追求すれば、際限ない軍拡を引き起こす。二度にわたる世界大戦はこうした軍拡競争の結果とも言える。古くからこれを補う方法として軍事同盟が考えられていた。しかし、軍事同盟は、仮想敵国を想定して対立を深めるばかりであり、双方の軍事同盟が広がることで、より深刻な大戦争になる結果を引き起こした。

「集団安全保障」は、もし加盟の一国が他国を侵略したりする非道を働いた場合、他のすべての国が一丸となってこれに対処することを前もって約束する仕組みだ。仮想敵国を作らず、自ら制裁を受け入れることを表明する協定になる。国連加盟により、各国はこの協定に参加することになり、この運営は安全保障理事会が担っている。

こうした仕組みが機能すれば、どの国も他国に優る軍事力の必要が無くなり、軍拡競争の連鎖を断ち切ることができる。軍事力を低減した国の安全も保障することができる。これが国連の目指す方向性なのだ。日本国憲法9条2項は最も先進的にこうした国連の目標を実践しようとするものであったと言える。逆に、憲法9条の文言が現実性をもっているのは、軍備がなくとも国の安全が保障されるという、国連機構の存在に基づいている。国連憲章と日本国憲法は相互に強い関連性を持っていることがわかる。

軍備と戦争は必ず自衛という形で現れる。国連が世界の恒久的な平和のために集団安全保障の体制を取るということは、集団的自衛権は勿論のこと、各国の個別自衛権をも基本的に否定する立場であることを示している。将来的には世界から軍備をなくして行くことを目指しているのだ。こうした国連の示す道筋を一国の憲法として体現したものが、日本国憲法第9条ということになる。国連を基盤とする限り、よく言われるように国家は、個人の自衛権と同じく、永遠不滅の自衛権を持っているなどという議論は成り立たない。

そもそも個人の自衛権なるものも、少なくとも日本では認められていない。アメリカでは、個人の自衛権を認める立場で、銃の保有を許可している。腕力の強い相手に対して、自衛するためには銃の保持が必須だからだ。アメリカの銃保持論者がいつも言うことは、「警察が来るのが間に合うとはかぎらない。銃なしで君はどうやって家族を守れるというのか」である。

日本人は経験からも個人の自衛権を放棄したほうが却って安全であることを理解している。個人の自衛権に固執するのは過去の考え方であり、人類の進歩は、個人の自衛権を放棄する方向にある。アメリカでもそうした道が模索されているところだ。実は国家にしてもまた同じ事が言える。国連に依拠して自衛権を放棄していくのが文明の進む道である。日本国は世界に先駆けて、憲法9条で国連の目指すところを実践しようとしたのだ。

自衛権の議論では、軍事技術の発達も考慮に入れなければならない。ミサイルなどの兵器が発達してしまった現在、隣接する国から発射されたミサイルは短時間で目標に到達してしまい、これを防ぐ手立てはない。社会は発達した交通網や通信網に大きく依存するようになっており、戦時体制の構築も実際上はできない。すべての国は貿易に大きく依存するようになっており、戦争で貿易が途絶えただけでも経済が崩壊する。こういったことから、もはや、武力による侵略も、武力による自衛も現実的なものでなくなったと言える。軍備は、実際の役には立たず、軍事産業の利益を保護するだけのものとなっている。この現実に直面して、アメリカでさえ、軍備の縮小を始めているくらいだ。

しかしながら、歴史の進歩は平坦ではない。国連と日本国憲法は共に様々な苦難を強いられることになった。日本では、国連憲章の起草者がAlger Hissであったこともあまり語られない。実は、Alger Hissとその他の政府機関スタッフの13人が、共産党の秘密党員だったとしてその後排斥されたのである。Alger Hiss自身はスパイだということで査問され、結局、5年の実刑を受け、弁護士資格も剥奪された。

ソ連の崩壊後暴露されたの機密文書でも、スパイ行為の事実はなく、密告者が自己の密告価値を高めるための虚偽であった可能性が高い。証拠とされた文書の内容も何等秘密となるものではなかったのだが、秘密だということで中身を十分公開しないまま、秘密保護法違反の判決が下された。日本でも問題になっている秘密保護法というのは、このような使われ方をするものだということを認識する必要がある。

1975年になって、「秘密文書」がでっち上げであったことがわかり弁護士資格の回復は果たしたが、いまも完全な名誉回復はされていない。起草者のことを語ってしまうと、アメリカは、国連設立が共産主義者の陰謀であったという立場に立っている事になるし、事実、軍事同盟を広げ、G5、G7といった国連を外れた枠組みを推進するようになった。

日本国憲法も歴代自民党政府によって、蹂躙されて行くようになった。その後の日本政府は自衛権を固有の権利とする立場を取り、自衛は軍備ではないという屁理屈で軍備を拡大した。そして最近は歴史の流れに逆らって、自衛の範囲を集団的自衛権にまで拡張した。

日本政府によれば、集団的自衛権(right of collective self-defense)は「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」である。自衛は武力ではないという立場での言い回しだが、普通に言えば軍事同盟に基づいて他国の戦争に参戦する権利ということになる。ここまで拡張すれば、任意戦争権と同じようなものである。かつて日本は満州国を作りこれを足場にしてさらなる中国侵略を進めた。日満議定書は、

「日本國及滿洲國ハ締約國ノ一方ノ領土及治安ニ對スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約國ノ他方ノ安寧及存立ニ對スル脅威タルノ事實ヲ確認シ兩國共同シテ國家ノ防衞ニ當ルベキコトヲ約ス之ガ爲所要ノ日本國軍ハ滿洲國内ニ駐屯スルモノトス」

とまさに集団的自衛権をその侵略戦争の正当化の根拠としている。集団的自衛権なるものを認めれば、あらゆる戦争が正当化されてしまう結果になる。集団的自衛権の導入が、これまで政府が取ってきた自衛力は武力ではないといった憲法解釈すら崩してしまい、立憲主義の根本に抵触することから改憲論者からも批判が起こるのは当然である。このような「権利」が国連憲章でも認められているという主張が、自民党政府によってなされているが、こういった「権利」は国連の設立趣旨に反することは、明らかである。

しかしながら、国連憲章が、個別的・集団的自衛権を容認する文言を持っていることもまた事実ではある。

第51条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基づく権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。」

と、集団的自衛権を容認する文言になっている。実際、集団的自衛権という文言は国連憲章で初めて使われたものである。しかし、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という限定をつけており、その後の安全保障理事会による処置より下に位置付けている点もあって、手放しで奨励しているものではなく、非常に限定的に仕方なく認めていることがわかる。国連の主旨を損なう恐れのある51条には経緯があり、実は国連憲章の原案には入っていなかったものだ。

国連憲章は1944年9月にワシントンDC郊外にあるダンバートン・オークス邸で起草された。しかし、ここでは完全な合意に至らず、1945年6月のサンフランシスコ会議で最終的に署名された。何が問題になったかというと、安全保障理事会の採決方法であった。サンフランシスコ会議では5大国の拒否権が導入された。国連憲章の第2条1項には「そのすべての加盟国の主権平等の原則」を謳っているが、5大国の拒否権は明らかにこれに反する。

アメリカでは、「大統領の権限を他国にゆだねるようなものだ」と、国連加盟に反対する意見が強かった。アメリカは国際連盟にも加盟していない。結果的にはわずか6週間の審議で加盟を決議した。世界大戦の惨禍を前にして、何とかしなければいけないという機運の高まりが、伝統的なアメリカの姿勢を覆したのだ。拒否権はアメリカ議会をなだめるための妥協だった。しかし、議会保守派には、Alger Hiss一派にしてやられたとの悔悟が残った。これが、Alger Hissたちを陥れる動機にもなったのだろう。

その結果、大国の拒否権によって集団安全保障機能が麻痺するという危惧が出てきた。ラテンアメリカ諸国は、チャプルテペック規約に署名し、第二次世界大戦終了後に相互援助条約を締結することを約束していた。こういった地域的な集団安全保障も5大国の承認なしには動けなくなる。この危惧は、援助義務を約束したアラブ連盟規約に署名したアラブ諸国にも共有されていた。

地域的集団安全保障についての議論が行われたがうまく合意することができなかった。 52条では「地域的取り決め又は地域的機関が存在することを妨げるものではない。但し、この取極又は機関及びその行動が国際連合の目的及び原則と一致することを条件とする。」と、地域的な集団安全保障を認めることにしているが、53条では、「いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基づいて又は地域的機関によってとられてはならない。」と結局これを否定している。

地域的取きめによる安全保障の代わりということで、51条を入れることをアメリカが主張して決着したのが現在の国連憲章である。小国の集まりとなる地域的取り決めに代わって、大国も利用しやすい集団的自衛権を部分的であれ、容認する条項とした。これは地域を飛び越えた軍事同盟に道を開くものであったし、事実、北大西洋条約機構や日米安保条約など、その後のアメリカの国際政策は大きく、この条項に依存し、またソ連もワルシャワ条約を結んで冷戦の体制が築かれていった。

国連憲章51条の集団的自衛権は、大国の権限を容認しなければ発足が難しかったという歴史的経緯から、やむを得ず限定的に許容されたものであり、国連本来の主旨からは、消滅して行かねばならないものである。冷戦構造が消滅した今日、軍事同盟の解消が言われており、国連の目指す平和な世界の実現を進めるべき時であるにもかかわらず、日本が集団的自衛権を持ち出すのは、まったく歴史に逆行する行為と言えよう。

アメリカは、国連を都合よく利用しようとしたが、Alger Hissたちにより設立された国連は、アメリカの思い通りになるものではなかった。軍事同盟や、G5、G7といった別の枠組みを作り出すことで、国連をないがしろにしてきたことは、日本国憲法が歴代自民党政府によってゆがめられて来たことと符合する。

それでも、現在ほとんどの国が加盟する国連を無視して世界は成り立たなくなっているし、確かに国連は半世紀以上も大戦争をくい止めてきた。日本国憲法が、日本政府の急速な軍拡の歯止めになっているのも明らかである。日本国憲法は、わずか57年しか持たなかった大日本国憲法を越えて、深く日本に定着してきており、もはや民主主義や人権も、言葉の上では改憲案でさえ消すことは出来なくなっている。昨今の性急な改憲の動きは、こうした日本国憲法の浸透を食い止めようとするあせりから生じているとも考えられる。人類は進歩しなくてはならない。粘り強く改憲に抵抗し、日本国憲法を生き延びさせることが歴史に対する我々の貢献である。

日本国憲法の成り立ち [歴史への旅・明治以後]

日本国は1947年5月3日に施行された日本国憲法に基づき、以来60年以上に渡り存続している国家である。日本列島にはそれ以前にも大日本帝国があり、別の憲法に基づいていた。大日本帝国憲法は1890年に施行され、57年間だけ続いて終わった。

今日の目で見れば、大日本帝国憲法は憲法としての体を成さない粗雑なものと見える。憲法というのは法律作りの法律であり、権力を持つものが勝手に法律を作ることを規制するものである。ところが、大日本帝国憲法ではどんな法律も作り放題で、憲法自体は天皇の命令がなければ改正も提起出来ない代物だ。内閣や総理大臣の規定もなく、教育については何も記述がない。軍部の独走を許す統帥権条項などは大日本帝国を自滅させる欠陥であったとも言える。憲法の重要な役割りは為政者が何を目標として国民のために努力するかを示すことなのだが、そんなものはどこにも見当たらない。だから、極右派の人でさえ、日本国憲法を変えることを主張しても、帝国憲法にもどせなどとは言わないのだ。

大日本帝国憲法は伊藤博文の主導で極めて政治的に作られた。参考にしたと言うプロシア憲法でさえ、もう少し権力を分散させているが、なんでも大権にしてしまう考え方は、「玉」を手にした方が勝ちという、明治維新クーデターの思想を色濃く残していると見ることもできる。幼少の睦仁天皇を手中に入れた薩長が、大政奉還後も最大の勢力であった徳川を始めとする公武合体派を駆逐した手法も、これなら正当化されるからである。井上毅が実務を担当したとされているが、伊藤が書簡で「忠実無二の者」と評しているように、伊藤の秘書に過ぎず、起草も伊藤の別荘で行われたくらいだから、伊藤の主導は動かない。伊藤は長州藩の足軽だったから、一応松下村塾に通ったりしたが、教育も十分でなく、老練な政治家ではあったが、法律には素人でしかない。法律としての完成度を求めるのが無理というものだ。

これに対して日本国憲法は見事な体系性を持っており、法律条文としてははるかに完成度の高いものだ。これが、軍人の集まりに過ぎないGHQから出された草案に基づいているとは驚くしかない。民生局長ホイットニー准将は、フィリピンでゲリラ部隊を指揮して日本軍と戦った歴戦の勇士であるが、兵隊あがりだ。二等兵から准将にまで昇る経歴もすごいが、実は夜間大学に通って弁護士資格を得ているし、法学博士の学位まである法律の専門家なのだ。次長であるケーディス大佐は、ヨーロッパ戦線から東京にまわされたのだが、その理由は彼がハーバード大学出身の優秀な法学者だったからだ。当然彼らの配下には多数の法律専門家がいた。つまり、GHQ民生局は最初から新たな日本国憲法を目指して準備された法学者組織だったのだ。米軍の動員体制は、本当の意味での総動員で、日本とは歴然とした違いがある。日本では、士官学校出の将校だけが威張り、法学者などは招集しても二等兵にしかしなかった。

第一次世界大戦は純然たる帝国主義戦争、すなわち、発達した資本主義国が植民地の利権を争って互いに争う戦争であり、戦勝国が戦敗国を裁いて、領土や利権あるいは賠償金をせしめる戦争だった。しかし、第二次世界大戦は帝国主義戦争の側面も残してはいるが、露骨な暴力主義であるファシズム勢力と民主主義勢力との闘いという側面も強かった。ソ連は第二次世界大戦を帝国主義戦争と見て、自国に侵攻したドイツ軍とは戦うが、連合国に加担はしないという冷ややかな姿勢を持っていたが、終盤では英米の説得で、この第二の側面に同意して連合国として参戦した。第二次世界大戦の終末期には、これを最後の世界戦争にしようとする平和志向を色濃く打ち出すことにもなった。カイロ選言、ポツダム宣言の頃には、戦勝国に利権の拡大や賠償金の取立てを放棄させ、原則的に領土の拡張も認めず、既存の植民地も独立させるべきであるとの方針を持つことになった。こういった連合国の理想主義的な考え方の協同が発展して国際連合が生み出された。

日本占領の根拠はポツダム宣言にある。連合国が合意して、日本に「降伏の機会を与える」として条件を示したのだ。「日本を世界征服へと導いた勢力を除去」「占領の受け入れ」「戦犯の処罰」「民主主義」「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重」「非軍備」「軍隊の無条件降伏」を条件とし、「これについては譲歩しない。執行の遅れは認めない」と言明している。日本はこれ以上の原子爆弾を含む爆撃や、ソ連の日本進攻を避けるために、ポツダム宣言を受諾するから降伏を認めてくれと頼んだ。降伏を認めるとは、現政府を日本を代表する交渉の相手方として認めるということだ。ヒットラーもムッソリーニも降伏せず、政権自体が崩壊するまで戦ったのだが、天皇ヒロヒトは降伏により生き延びる道を選んだ。

降伏を認められたのだから、その代わりにポツダム宣言の内容を忠実に実行する義務が生じたのだが、これまでの日本の国際対応からみて、到底そんな事は考えられない。法学者を動員して、日本国憲法の制定を用意して置くべきだと考えただろう。だからGHQはそういった陣容になっている。案の定、日本政府が作った松本試案は、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのを「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」に変える程度のもので、ポツダム宣言とは程遠いものだった。民間では新しい憲法を目指していろんな案が出され、日本共産党なども憲法草案を提示していたが、松本試案には全く反映されていない。軍人は除外されたが、帝国政府の官僚をそのまま残した政府に起草させるのは所詮無理なことだろう。

GHQからいわゆるマッカーサー草案を示して議論の土台を作った。GHQから出されたとは言え、憲法草案の中身は優れた法学者により、周到に検討されたものだった。思想的底流としてはフランスの人権宣言やアメリカの独立宣言に基づいており、GHQの法学者たちは一種の理想的憲法の作成といった気持ちで起草に取り組んだように思われる。各国の憲法や、民間での草案議論などもよく研究しており、天皇崇拝が染み付いた当事の日本国民の状況も勘案して第一条で天皇を「日本国民統合の象徴」などとする工夫も凝らしている。

平和に関する条項である第9条も、パリ不戦条約の第一条「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言スル 」を元にした文言だ。この条約には1928年に日本も加盟したのだから、満蒙問題の解決を戦争に求めた日本は明らかな条約違反だったことになる。この条約は今でも生きており、国際平和の原則となっている。さすがに日本側でも戦争に対する反省は強く、一月二四日に幣原喜重郎首相がマッカーサー元帥と会談した時に戦争の放棄を新憲法に入れることを日本側から提案した。

このように日本国憲法の成立には、多くのことが取り入れられ、ある意味で世界の法学的英知を結集したものだったのではないだろうか。日本国憲法の今日でも輝きを失わない格調の高さはこのことによるものだろう。

草案は急速にまとめられて行き、国会で何箇所かの修正をして、形式的には帝国憲法の改正として制定された。新しい憲法は国民の圧倒的支持を受け、国会でもほぼ全会一致で採択された。日本共産党が改憲の主旨をもっと徹底させろという主張から反対の投票をしたが、新憲法の施行には賛成だったので、実質的には全会一致である。簡単に過半数で改正すべきでない重みがある制定だったことがわかる。

なぜ征韓論が内戦にまでなったのか [歴史への旅・明治以後]

征韓論が大問題となった明治6年と言う時期は、重大な内政問題が山積みであり朝鮮と戦争するどころではなかったことが今では誰にでもわかる。だから征韓論が大勢を占め、その始末が政府の分裂から内戦にまで至ったことはなかなか理解しがたい。明治政府の参議筆頭であった西郷隆盛が政権を放り出してしまう必要がどこにあったのか。

これを解くには明治維新とは一体何だったかに遡らなければならない。明治維新は大きな変革ではあったが、庶民にとっては、幕府でも天皇でも結局おなじことであり、言わばどうでも良いことだった。政争の中身的にも武士と武士の争いでしかなく、民衆には社会的な必然性もなかった。だから近代化などということは、当時の文献の何処にも勿論出てこない。明治維新は、全く観念的な武士たちの哲学論争の結果なのである。

徳川幕府崩壊の大元を作ったのは水戸光国である。幕府が発足し、民心も安定したところで、国のイデオロギー的基礎を固める作業が必要となり、それが大日本史の編集であった。かつてヤマト政権が行ったように、歴史を書き換え、日本が徳川氏の支配になることが運命付けられており、萬世一系の徳川氏が唯一の正当政権であることを基礎付けるべきだった。少なくとも日本書記などが都合よく歴史を改竄したものだということをはっきりさせておくべきだった。ところが、水戸光国はヤマト政権の作った日本書記などをそのまま正史として採用してしまった。徳川氏は2代目以降も、天皇から征夷大将軍を委託されて政権を担当する形式になったのである。

これでは将軍が徳川氏であることに何の必然性もない。武家の中心規範は理屈をこねずに主君にしたがうことだから、天下泰平のうちはそれでもよかった。多少異論があっても「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」と言う朱子学のテーゼで議論を終わらせた。しかし、外国船が出没し、外国と条約を結ぶなどということになると国の主体がどこにあるのかが当然問題になってくる。黒船の大砲の威力に対抗できず、右往左往の醜態をさらすとなれば幕府の正当性がますます疑われるようになる。

攘夷で始まった幕府批判は、国学の流行に結びつき、たちまちのうちに日本中が国学イデオロギーで塗りつぶされるようになった。国学とはすなわち狂信的な天皇崇拝の思想だ。神国を護るために、サムライテロが荒れ狂った。おびただしい人々が暗殺されたが、一面、この狂気が外国人を恐れさせて居留地にとどめ、国内市場を外国資本が支配してしまうことを防いだともいえる。

幕府公認の歴史書「大日本史」が正しいとすれば幕府は潰れねばならない。もう誰にも国学思想は押し留めることが出来なかった。国学の帰結である王政復古の要求は日増しに強くなったが、徳川幕府は全く反論していない。幕府には対抗理論が存在しなかったのだから仕方がない。せいぜいが公武合体を画策して日延べするくらいの抵抗策しかなかった。

国学のイデオロギーは萬世一系の天皇を頂く日本が唯一の神の国であり、天皇が世界に君臨する存在であることを主張する。ヤマト政権が権威付けに作り出した神話であり、もちろんこんなものが国際的に通用するはずがない。中国には中華思想を軸とする厳然たる秩序があり、朝鮮や琉球は冊封体制に組み込まれている。キリスト教国から見れば、日本が神の国であるなどと言うことなどお笑いでしかない。しかし、当時の人士はこれをよりどころとして信じ、命をかけたのである。

現実が困難であればあるほど理論は先鋭化する。何が真実かを実力で示そうとする。日本を神の国とする国学イデオロギーの行き着くところは世界制服しかない。佐藤信淵は早くも1823年に「混同秘策」で世界制服論を述べている。吉田松蔭も「獄是帳」で「国力を養い、取り易き朝鮮、満洲、支那を切りしたがえ、」とやはり世界制服論を展開している。明治維新をもたらした思想はそのまま海外侵略へ日本を駆り立てることになる。

しかしヤマト政権が掲げた天皇制のイデオロギーは、実は過去に一度挫折している。中国のあまりの強大さのために、日本も東夷として朝貢せざるを得なかった。中華冊封体制に組み込まれ文化的にも従属した。それゆえ、再挑戦の明治王政復古にとって中華思想の克服は中心的な課題となった。明治維新は中華思想を克服せずには完結しないものだったのだ。朝鮮王朝が明治政府の通商を断り、中華冊封体制の堅持を決めたことは、勤皇の志士には国学イデオロギーの挫折を強要されたに等しかった。

だから、まだ新しい政府の何も整わないにもかかわらず「征韓論」が持ち上がった。これは単なる政策の優先度争いではない。考え方としては明治維新の完成と征韓論は一体のものだった。実際、征韓論に対して真正面から反対を唱えた人は誰もいない。王政復古を推進する限り反対する理由はないのだ。西郷はじめ多くの人々が征韓論を唱え、政府部内でも多数派を形成した。しかし、欧米視察帰りの現実派が陰謀でこれをひっくり返したのだ。公家の戦争恐怖を利用して策略的にこれを押さえ込んだし、天皇の裁可という切り札を使われると征韓派ももう従うほかない。現実主義になりきれない征韓派は、これは我々の目指した明治維新ではないと、下野せざるを得なかった。

おそらく征韓論が現実にそぐわないとは意識していただろう。それでも征韓派は明治維新を貫きたかったのだ。明治維新は国学の理想に熱狂した精神運動だった。この理想のために殉じることがもっとも気高いこととされ、実際に多くの有能な人々が、立派であるからこそ死んだ。吉田松陰、久坂玄随、高杉晋作、坂本竜馬、武市半平太、など数え上げればきりがない。

西郷隆盛や前原一誠には、自分がこれらの人々から死に遅れた自責の念が強かったにちがいない。とりわけ西郷には死に後れ意識が強かった。玄昉と二人で投身自殺を企てたこともある。この時は玄昉だけが死に西郷は助かってしまった。だからあくまでも明治維新の理想を貫き、ことの流れに身をまけせて死んでいくことを望んだのである。

近年、西郷隆盛の征韓論を擁護する論調が出てきているが、先に使節を送る二段階論といきなり兵隊を送る一段階論に大差はない。事実、西郷は朝鮮での軍事作戦まで立てている(広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」)。後年の日清戦争での朝鮮侵攻経路は、このとき西郷が考えたものと同じだ。最終的には征韓派はすべて西郷の二段階案に同調したから西郷が征韓論の中心人物になった。

西郷は自分が使節となり、烏帽子直垂で出かけて日本こそが神の国だと説得するつもりだった。もちろん朝鮮との間に妥協点を見出すような外交は西郷の忌み嫌うことだ。腹を割って話せばわかると本気で思ったかもしれないが、所詮外国には通用するはずがない理屈だ。死に場を求めている西郷はその場で切腹するつもりだったかもしれない。維新の理想に殉じて死ぬことこそ西郷が求めていたものだからだ。

征韓論が頓挫して、大久保や伊藤のような「不純」な志士達が主導するようになってやっと明治政府は近代化を方向とすることが出来るようになった。しかし、国学思想の呪縛は節々で現われ、第二次世界大戦が終わるまで日本を戦争の世界に引きずったのである。

予科練とは何だったのか [歴史への旅・明治以後]

「今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦の 七つボタンは桜に錨」という歌はかなりの人が知っているし、多くの人が予科練を太平洋戦争の飛行士養成機関として認識している。しかし、予科練では毎日操縦訓練を行い、卒業生は飛行機乗りとなって、特攻などで、多くは、愛機と共に空に散って行ったと言う、半ばロマンチックなイメージを持っているならそれは間違っている。

予科練で本格的な飛行訓練をやった事実はないし、修了生全体の中では、戦死は8%でしかない。多くの予科練生は全く空を飛ばなかったのだ。そもそも「予科練」という学校は無かった。予科練習生というのは、海軍航空隊に所属した兵隊の身分の一つに過ぎない。階級としては、最下級の四等水兵にあたる所から始まる。

日本の軍隊は、長州藩の奇兵隊なんかがその先駆けだが、武士が、百姓町人を集めて鉄砲を持たせた所から始まった。だから、身分意識が強く、将校は自らを武士と意識して、兵隊や一般市民を見下していた。軍隊では一般市民を「地方人」と呼ぶのが常だった。地方人を徴兵して兵隊にする。一銭五厘と言われていたように、召集令状の切手代だけでいくらでも集められる。鉄砲を持たせて少し扱い方を教える。あとは上官の命令には、いつでも従うように、いじめて根性を入れればそれで良い。絶対服従を叩き込むのが訓練であった。

これには一応の理由がある。当時の戦争の勝敗を決するものは野戦兵力の突撃だった。突撃の時はなるべく早く前進したほうが、銃撃される時間が短くて被害が少ない。命を惜しんで、逡巡していると却って大きな被害を出すのだ。守る側も、阻止線を破られたら自分の命が無くなるのだから、果敢な突撃には浮き足立ってしまう。だから命令一下で命知らずの突撃が出来る軍隊が強い軍隊だった。そんなわけで日本陸軍の訓練というのは体罰・苛めで命を惜しむ気持ちを麻痺させる根性教育が中心になった。

海軍の場合は少し様相が異なる。陸軍のように兵隊を根性だけで戦わせるわけには行かない。砲術や航海術は士官のものだが、その補助にも一応の知識・経験がいる。これを担うのが古参の志願兵である下士官だった。術科学校で教育した下士官が戦争の兵力となった。一般の水兵といえば、甲板磨きや見張りといった程度の雑用しか無いのである。現場指揮官になり得ず、年功を食っても兵卒扱いされる下士官の不満の捌け口が必要だった。だからここでも、陸軍と同じような「しごき」体罰が横行した。艦船のピラミッド組織を守るためには底辺が必要だったのだ。

日本の軍隊ではこうした身分制度と「いじめ」「しごき」が組織の根幹的要素となっていた。ところが、飛行機となるとそうは行かない。上空では一人でエンジン調整から銃撃、通信など全てやらねばならないし、航空力学や電気回路の知識もいる。そう簡単にだれでも乗れるものではないのだ。飛行機に最下層の兵隊は要らない。当然、ピラミッド組織を作ることは出来ない。航空部隊というのは軍隊組織になじまなかったのだ。これが遅くまで日本海軍が巨艦巨砲主義にしがみついた一因でもある。

初期のころは飛行機は将校の専有物で、飛行訓練を行うのは「海軍飛行学生」という兵学校出身の将校に限られていたが、一九三〇年代になると、海軍の戦闘が爆撃機や戦闘機を多用する航空機戦術主体になってきて、飛行機を指揮官であるはずの士官の専有物としておくわけには行かなくなった。いくら巨艦巨砲主義であっても、やはり、空を飛ぶ兵隊は必要だったのだ。

海軍の飛行機は航空母艦から出撃するのだが、飛行機搭乗員を養成するために陸上に航空隊を作った。海軍の兵隊から選抜して「飛行練習生」あるいは「操縦練習生」として航空隊で操縦訓練をしたが、思わしくなかった。当時の一般の人たちは、もちろん飛行機に乗ったことはないし、自動車の運転もしたことがない。尋常小学校卒が普通だったから学識も足りない。ピストンやシリンダーという言葉も知らないし、エンジンなど見たことも無いのが普通だった。全く経験のないものを学ぶのは、特に年を取ってくると難しい。今でも携帯電話の使い方は高校生が一番詳しい。うんと若いときに飛行機乗りの勉強を始めたほうが良い。

そんな事で高等小学校程度の子供たちを最初は横浜、次いで霞ヶ浦の航空隊に集めた。これが予科練乙種である。だから予科練という学校は無い。予科練習生というのは航空隊における身分でしかない。その後、一般学はもう少し勉強しておいたほうが良いと言う事で、中学四年終了程度の子を集めた。これが甲種予科錬生だ。予科練はあくまでも「飛行予科」練習生であり、飛行練習生となる前の教育を受ける所だ。したがって、カリキュラムは殆どが、手旗信号とか、鉄砲の撃ち方とかの軍隊教育と数学、機関学、爆薬学、弾道学といった座学だった。それに帝国軍人精神を鍛える体育科目が加わった。体罰・苛めも相当なものだった。飛行訓練をする所ではなかったのだ。

アメリカでは航空機が増えたころから、将校をどんどん飛行機乗りに登用し、将校の枠を広げたのだが、帝国海軍では将校は指揮官であって現場で闘う兵隊ではないという観念をくずすことは無かった。海軍兵学校の飛行学生は最後まで少数に留まった。空を飛ぶ魅力につられて、予科練を志願した子どもは多く、選抜はかなりの競争となった。中学四年と五年の一年の募集時期の違いだけだったのだが、予科練はあくまでも下士官養成のためで、幹部養成の海軍兵学校とは根本的に違っていた。

海軍は、航空兵力拡充にはあくまでも消極的で、予科練にしても、太平洋戦争を仕掛けた1940年でさえ、甲乙あわせて1,190人しか採っておらず、次の年でも3,752人でしかない。パイロットの養成には時間がかることを考えれば、この人数は決定的な間違いである。アメリカでは、1940年の時点で、士官候補生16,773人に搭乗員教育を始めたし、次の年には89,973人に増やしている。数が一桁違うし、しかも全員が仕官待遇だ。将校は兵隊を使うものだなどという観念は持たず、学識、技術を持った者は高待遇にするのが当然だという認識だった。教育の内容も、変な軍人精神論ではなく、きっちりと科学的な知識と十分な飛行訓練に時間を取った。乗員訓練が第一の課題だとして優秀なパイロットを戦場から引き戻して教官にすることさえやった。

日本の場合は、マリアナ沖海戦やガダルカナルで熟練飛行士を失って見て初めて航空兵の不足に気が付いた。航空機は生産できても、癖の強いゼロ戦を使いこなせる熟練パイロットがいないのだ。丙種予科練生など即製のパイロットを送り込んだが技量的にも米軍に太刀打ちできないことになって、たちまちのうちに、飛行機自体を消耗してしまった。

1944年になって急に予科練を114,773人に増やしている。時既に遅く、日本にはこれだけの訓練をする飛行機が無かった。それにも関わらす1945年の半年でまた58,599人をいれている。これまたとんでもない大人数だ。もちろん彼等は飛行機には乗らず、一部は他の特攻兵器に乗ったが、大部分は土方仕事に使役されただけで、戦死すべくもなかった。徴兵年齢に達しない者を徴用して飛行場整備などの労務に使役したにすぎない。

人数的にはこうした「飛ばない予科練生」が圧倒的に多いので、初期の予科練生が多く戦死しているにも関わらず、全体の8%しか戦死していないという統計になるのだ。もっとも、飛行場整備が安全なわけではもちろんない。宝塚航空隊所属の第16期予科練生は鳴門海峡の要塞建設に派遣され、途中で住吉丸が銃撃されて、ほぼ全滅の憂き目にあった。15年戦争の公式戦死者で最年少の15歳を記録した。

予科練は志願制だったが、中学では配属将校が志願を強力に勧め、この頃には半強制的なものでもあった。身長が足らず、不合格とわかっていても、志願して受験させられたくらいだ。予科練のための航空隊に飛行場はいらない。高野山宿坊や宝塚歌劇学校など宿舎さえあればどこにでも作られた。飛行機による特攻も、アンパン地雷を抱いて戦車の前に飛び込んでの自爆も、命を差し出す上では同じだということで訓練させられた。予科練とは、結局、徴兵年令にも達しない少年を戦争に狩り出す方策でしかなかったことになる。

飛行機乗りになるという夢を抱いていた生徒は騙されたようなものだ。ここまで来ればそれをごまかし様もない。福岡航空隊司令の飛田健次郎大佐は、予科練生を前に「おまえたちは海軍にだまされたんだ」と謝ったという。しかし、予科練生の不満を押さえつけるように制裁・暴行はエスカレートした。「バッター」と言われる、こん棒を使っての痛打などがその最たるものだった。

終戦になってからも、予科練の不運は続いた。学校でなかったことが禍いしたのだ。海軍兵学校は学歴となって、大学への編入などが認められたので戦後に要職について活躍した人が多い。しかし、予科練は学歴とは認められず、故郷に戻っても、中学中退のままとなった。どこの町でも予科練帰りといえば、軍隊でいじけた不良の集まりとして鼻つまみになった。安藤組の安藤昇などのヤクザはそのなれの果てだ。

予科練自体が悲劇であるが、生き残った予科練生も戦争の被害者である。しかし、予科練時代を華やかな青春時代と懐かしむ人も多い。その後の生活の辛苦からみれば、そうとでも考えざるを得ないのだろう。中には戦後苦労の末、各方面で活躍している人もいるが、それらの中に予科練を評価する人はあまりいない。前田武彦は予科練で受けた教育を「優しさなんか一つも無かった。死んでいく人間に対して棒で殴ったりしていた」と番組の中の発言で批判している。児童文学の寺村輝夫も予科練で毎日「君が代」を歌わされた一人だが、「君が代はどうしても歌いたくなく、その後一度も歌わなかった」と語っている。

本土爆撃の始まり [歴史への旅・明治以後]

本土爆撃といえば、太平洋戦争の末期に日本全土が空襲を受け、一方的なダメージをこうむった事と理解されている向きがある。しかし、本土爆撃は戦争末期ではなく、開戦後すぐに始まっているし、全く一方的なものではなく、攻撃側のアメリカ軍にも多くの戦死者が出ている。

本土爆撃の最初は真珠湾攻撃による開戦のわずか四ヵ月後である。真珠湾の奇襲攻撃は大勝利と宣伝されたが実は失敗だった。戦略の全ては奇襲攻撃で米機動部隊を壊滅させてしまう事の上に組み立てられていた。真珠湾から出払っていたアメリカの機動部隊を取り脱がしてしまった時点で、大日本帝国の戦略は破綻したと言える。

真珠湾攻撃が失敗に終わった結果、米軍の真珠湾基地も、その出先であるミッドウエー基地も健在なままだった。それでも、すぐに東京が爆撃されるわけではない。当時の爆撃機に目一杯燃料を積み込んだとしても、十二時間の飛行が限界だったが、ミッドウエー基地から東京へは片道で九時間かかり、往復は無理だった。

東京から六時間以内と言えばグアムとかテニアンになるが、さすがにこれはまだ日本の勢力圏になっていた。日本の連合艦隊は健在であり、まだアメリカが日本近海を制圧するような状況ではなかった。

この時点で東京を空襲すると言うのは、民間航空あがりのドウリトル中佐のアイデアによるものだ。航続距離の長い陸軍のB二五爆撃機を改造して海軍の航空母艦に積んだら、遠方を爆撃できると考えた。陸海軍が対立し、硬直した考え方の大日本帝国には思いも及ばないような作戦だ。第一、民間航空のパイロットを中佐にしたり、ましてそのアイデアを参謀本部が取り入れたりするはずも無かっただろう。日本軍は爆撃後も一体これらの飛行機がどこから来たのか皆目見当がつかなかったくらいだ。

制海権が無くとも、一時的に空母を日本に近づけることはできる。爆撃機を飛ばして、攻撃を受ける前に逃げ帰ればいいのだ。ミッドウエーと東京の中間点まで空母を進出させれば六時間の射程に入るから、十分攻撃できる。しかし、空母が逃げ帰ってしまったのでは、爆撃後の帰還が出来ない。いや、大型爆撃機の、揺れ動く空母への着艦自体がそもそも不可能だろう。

帰還せず、そのまま飛んで大陸の中国軍支配地域に着陸するとすれば、なんとか十二時間の飛行時間でたどり着ける。燃料はぎりぎりだからかなりの冒険ではある。大きなB二五を短い空母の甲板から発進させることだけでも冒険だ。空母が向かい風を全速で走れば、海面すれすれで飛び立てるが、ちょっと失敗すればお終いだ。フル装備の航空隊基地が一杯ある日本本土を、戦闘機の護衛もなく爆撃するのは無謀とも言える。

よく日本軍の特攻隊とかの勇敢さが語られるが、なかなかどうして、アメリカ軍も勇敢なものだ。人間は戦場に送り込まれると命に対する感性を失ってしまう愚かさを持っている。後のミッドウエー沖海戦でも、米爆撃隊の損失を恐れぬ攻撃は、特攻隊のようなものだ。戦力はほぼ互角であったのに、日本海軍が破れたのは、このためと言っても良い。ゼロ戦にことごとく撃ち落されながらも、わずかな援護で爆撃機の出撃を続け、ついに命中弾が出て、一挙に勝敗が決まったのがその経過だからだ。

空母をどこまで日本本土に近づけられるかが成否のポイントであったが、予定より早く日本軍に発見されてしまった。ぐずぐずして迎撃体制を整えられてしまえば、撃ち落されるだけだ。燃料不足を承知で一六機が発進した。

日本側は、空母を発見はしたが、艦載航空機の射程に入るのは翌日になるだろうとの観測をした。まさか陸軍のB25を空母から発進させるとは思わなかったのである。翌日の海戦を担う第二艦隊を迎撃に向かわせが、米空母は逃げ帰ったあとだから、もちろんこの出撃は空振りに終った。

覚悟の上だったとはいえ、爆撃後の燃料不足は深刻だった。浙江省のいくつかの滑走路を国民党軍が確保し、ここで給油して重慶に向かうのが飛行コースだったが、たどり着けず東シナ海や沿岸部に不時着してしまった。一機はウラジオストックに向かいソ連軍の捕虜になった。結果的に一六機全部が失われた。しかし、乗員の多くは中国人に助けられて生還することが出来た。

爆撃機は、昼頃に日本上空に到着、東京、横浜、名古屋、神戸を爆撃した。二五〇キロ爆弾数発を積んでいるだけだから、大きな戦果は挙げていないが、八七人が死に、四六六人が負傷しているからかなりの爆撃ではある。初の本土爆撃は米国の士気高揚にとっては大きなものだった。それよりも大きな成果は、帝都爆撃という、未だかってない事態で帝国軍人に大きな衝撃を与えた事だ。日本上空を縦断した爆撃だったのに、一機も撃墜出来なかったというのは汚辱だっただろう。本土爆撃はまったく想定外で防備体制が整っていなかったのだ。

真珠湾の大勝利に続き、各地で連戦連勝のはずなのに首都が爆撃される。あってはならない爆撃で、威信を傷つけられた帝国軍人は何が何でも米陸軍の前進基地ミッドウエーを制圧する作戦を立てなければならなくなった。ミッドウエー海戦を決意したのだが、これは戦略的には行き詰まりでしかない。遠く離れたミッドウエーを制圧するには、陸上部隊で占拠するしかないが、ハワイ攻撃の前進基地とするには日本から遠すぎる。弾薬補給が出来ないから維持も難しい。ミッドウエー作戦は本土爆撃に対する報復で面子を立てる意味しかない。

面子のために意味の無い戦闘をするわけにも行かない。ミッドウエー海戦の作戦要領に「敵機動部隊を、おびき出して殲滅する」ことを付け加えて意義付けた。とんでもない。おびき出されたのは日本軍のほうだ。両面ねらいは如何にもまずい作戦だ。地上爆撃の上陸作戦なのか、魚雷攻撃の対艦作戦なのか、目的がはっきりしなくなってしまった。これでは弾薬の積み替えに時間を浪費するばかりで戦術的にも勝ち目はない。周知の通り、ミッドウエー海戦は帝国海軍の完敗だった。威容を誇る帝国連合艦隊は壊滅した。

開戦四ヶ月ですでに本土を爆撃され、六ヶ月で艦隊を失い、もはやアメリカに攻め込む手立ても無い。軍首脳部には、この時点で戦争に勝つ見込みのある作戦の立てようが無くなってしまった。事実これ以降の作戦は、戦争を引き伸ばして、敗戦を遅らせるための作戦ばかりだった。結局、この後の三年間でやったのは犠牲者を増やすことだけだ。高級軍人の意地と面子のためだけに命を捧げさせられた国民にとって、これ以上に迷惑な話はない。

日本もアメリカに名目的な本土爆撃を仕掛けたが、潜水艦で運んだ偵察機によるものだったし、折からの雨で森が湿っていたので、小さな焼夷弾では山火事も起こせなかった。潜水艦による本土「艦砲射撃」もやっているが、ポンプ小屋をつぶしただけで全く戦争のレベルではない。現地ではFBIが対応し、捜査の結果日本軍の仕業とわかったというから、テロの扱いでしかない。

グアムやサイパンを米軍が奪取してからは、B29による爆撃が恒常的に行われるようになった。ターボチャージャーを付けたエンジンで高々度の飛行ができ、酸素マスクも持たない日本の戦闘機には攻撃のしようもないのだから、一方的な攻撃に思える。しかし、実際には四千機中七百機もが撃墜され、米軍も三千人以上が戦死している。

高々度からの爆撃ではジェットストリームにあおられて命中精度が落ちるから、低空に下りて爆撃することを命じられたからだ。大量の爆弾を積むために機関銃などの防御兵器も取り外された。そのため、高射砲で撃ち落されたり、迎撃機に撃墜されたりするものが増えた。

多くの民間人が犠牲になる都市爆撃は日本が中国で始めたものだが、アメリカもこれに倣った。都市爆撃で大量虐殺の効率を上げるために、自軍の犠牲をもいとわず低空飛行を命じたのだ。アメリカ側でも高級軍人の面子のために多くの兵士が死んだことになる。これは、タワラや硫黄島での不必要に性急な上陸でも同じ事が言える。

戦争とは実におろかなものだと言うしかない。

民族独立と太平洋戦争 [歴史への旅・明治以後]

人類に大災害をもたらした第二次世界大戦を積極的に評価しようとする謬論が再び勢いをつけている。その俗論の一つに日本の南方進出によってアジア・アフリカ諸国の独立がもたらされたと言うものがある。

一般的には、遅れて西洋文明を取り入れながら、経済発展を果たした日本に対する評価は高く、アジアアフリカ諸国にとってこれは励ましになるものではある。しかし、これは戦争中の占領に限定してまで評価されると言うことにはならない。俗論の信奉者は欧米の支配と戦うアジアの国日本の姿が独立運動の契機になり、日本と関係が薄いアフリカの独立運動まで日本の戦争のおかげだとまで言うのだ。

アジア・アフリカの独立運動はもっと早く、第一次世界大戦の時代まで遡る。ガンジーがインドで不服従運動を展開しだしたのは1920年であり、有名な「塩の行進」も1930年に行われている。ビルマでも運動が進み1939年には自治領になった。インドネシアでもスカルノたちが国民党を結成したのは1927年である。エジプト、イラン、イラク、サウジアラビア、アフガニスタンが独立したのも30年代である。孫文や金日成の自立運動も30年代からあるが日本はこれに敵対した。これらはすべて日本の南方進出以前のことである。

確かに日本の占領中に独立した国もある。フィリピン、ラオス、ビルマ、カンボジア、ベトナムがそれだ。しかし、植民地を他国から奪う場合、一旦独立させるのは帝国主義の常套手段である。オスマントルコからエジプトを独立させその後イギリスが植民地にした。メキシコからテキサスを独立させてその後アメリカが併合した。日清戦争の名目は朝鮮独立だったが結局日本が併合した。満州国を中国から独立させたのは日本の支配化に置くために他ならなかった。形式的に独立をさせても、やがては自国の支配下に置くための一歩に過ぎない場合が多い。

ベトナムは日本軍が支配してパオ・ダイに「ベトナム帝国」を作らせたが傀儡でしかなかった。日本軍の徴発により200万人が餓死する事態に対してホーチミンたちはベトミンゲリラを組織し、日本が敗北するとともに蜂起してベトナム共和国の独立を宣言して再支配しようとするフランスと戦った。「ベトナム帝国」は日本軍と共に消えてしまったのでベトナムの独立とは関係がない

日本軍がフランスから独立させたラオス王国は傀儡のようなものだったので敗戦で独立宣言を撤回し、その後ベトナムと対抗させるためにフランスにより、また独立させられた。両国ともラオスの建国を援助したとはいえない。独立運動は共産ゲリラ化してその後もラオス政局が安定しない基を作った。

フィリピンは1934年に自治領となり、10年後に完全独立する法案が成立していたから、すでに独立は目前だった。1943年に日本軍が上陸して1年早く独立させたことになるが、形式的に過ぎず、実際には日本軍の軍政のもとに置かれた。軍票乱発による経済混乱がフィリピンの民衆を苦しめ、独立運動はゲリラ化して日本軍と戦った。戦後、アメリカが新たな政府を独立させ、その政府が続いているが今もゲリラとの抗争は続いている。

ビルマではアウンサンたちが日本軍に期待してイギリスと戦ったが、日本軍は真の独立をいやがり、バーモーに傀儡政府を作らせた。アウンサンのビルマ国軍は傀儡政権に対して反乱を起こし、逆にイギリス軍に協力した。ビルマでの日本軍は宴会に明け暮れる腐敗のあげくインパールに手を伸ばして崩壊した。敗戦とともに首脳が日本に亡命してビルマ国はなくなった。イギリス軍と協力して日本軍と戦った勢力が戦後も独立運動を続け、1948年になって独立を果たしたのが今のミャンマーになっており、日本の作った傀儡政権であるビルマ国とは全く関係がない。

インドネシアはスカルノたちが日本軍と協力して民衆を組織したのでその後の独立と日本の統治が一応つながっているが、日本統治中は独立させずインドネシア人に強制労働を強いてロームシャなどという言葉が残った。結局インドネシアの独立は戦後になってからである。独立を認めないオランダとの抗争に日本軍の武器が使われたり、数千人と言われる日本軍の残留兵が独立運動を助けたりしたが、これは軍の命令に背いた個人の行動であり戦争政策とは関係が無い。

カンボジアは日本軍がインドシナに進攻した機会を捉えてシアヌーク王が独立を宣言したが国民運動を基礎にしたものではなかった。だから、ロン・ノルが軍事クーデターを起こし、クメールルージュがゲリラ戦を展開してロン・ノル政権を倒し、ポル・ポト政権の極端な農本主義を経て王国に復帰しているという複雑な経緯をたどり、日本軍が建国達成に寄与したとはいえない。

いずれの国々も、日本軍のおかげで幸せな独立を果たしたといえる物ではなく、もとからあった独立運動に日本軍の支配介入が重なっただけである。もちろん戦後15年たってアフリカ諸国の独立が相次いだ時にこれらの国々に習ったわけでもない。アフリカ年と言われる1960年当時、東南アジアの国々はアフリカが見習うような状態ではなかった。

独立背景に寄与するのは国連の成立とその援助が大きい。1949年に国連が「世界人権宣言」を採択して植民地支配が不当であると認め、1960年に「植民地独立付与宣言」が採択されると植民地の独立を否定することは何処の国も出来なくなった。日本軍の戦争がこれらの宣言と何のかかわりも無いことは自明だろう。

日本がアジアにありながら、西洋文明を取り入れて独自の経済発展をとげたことは多く賞賛されており、アジア・アフリカの国々で評価が高いし、日本に対して好意的でもある。しかし、それは日本の侵略を正当化するものでは全く無い。

日本の侵略については様々な言い訳がなされている。日本がしたのは「いい侵略」ということらしい。欧米と異なり植民地に教育を普及してその国の発展に役立ったというのもその一つだが、これは単に時代が違うだけの話だ。植民地の思想統制が必要な時代になっていたから教育を普及したまでで、教育の普及は日本だけでなくナチスも熱心に行った。ヨーロッパの国のように教育が本国でも一部の特権階級だけのものだった時代に侵略した場合には、教育の普及などという発想があるはずも無いだろう。

朝鮮の植民地経営は赤字で、朝鮮へのインフラ支出は税金を大幅に上回るものだったと言うのもある。朝鮮からの利益の多くは、三井、三菱といった財閥の懐に入り、これらの本社は東京であったから、朝鮮の税収にならなかったのは当たり前である。

朝鮮が日本の植民地になって以後人口が増えた事を「いい侵略」の根拠にするのもあるが、植民地になったところは、全て人口が増えているのが事実だ。侵略国の軍隊などが常駐するために衛生改善などは当然行われる。植民地化も文明開化ではあるのだが、住民の大きな犠牲が伴う。朝鮮でも植民地になってから、農業技術の進歩で米の増産が大いに進んだ。にもかかわらず、日本への輸出を差し引きすると朝鮮人一人当たりの口に入る米は減った。これが植民地化による開化の実際だ。
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