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日米はなぜ戦ったのか --太平洋戦争の原因 -- [歴史への旅・明治以後]

太平洋戦争は日本軍による真珠湾の奇襲に始まった。開戦への経過については様々な俗論がある。曰く「海軍は反対したが陸軍が押し切った」。曰く「タイピストが休みで通告が遅れてしまったが奇襲のつもりはなかった」曰く「天皇は開戦に反対だった」。どれもこれもいい加減な話ではあるが、それもいろいろと謎が多いことの反映である。

戦争に至る前になぜアメリカとの対立を深めたかも経過的には不可解なところが多く残されている。日本帝国のまず第一の敵はソ連だった。シベリア出兵以来の敵国でもあり、社会体制が全く異なる国で、天皇制廃止などと恐ろしいことさえ平気で言うから、帝国軍人には許しがたい存在でもあった。陸軍は満州・中国についで蒙古から絶えずソ連への侵入を企てていた。1936年11月25日の日独伊三国防共協定は同じくソ連を敵視するヨーロッパとの連携で、ソ連を挟撃する体勢を組んだことになる。この確固とした戦略方針からはアメリカとの戦争は出てこない。むしろソ連軍に挑みかかった1939年 5月11日のノモンハン戦闘の方が本道である。

ところが、ドイツはノモンハン戦闘の真っ最中にソ連と10年の中立条約を結んだ。ドイツのやりかたは全く信義にもとることになる。しかるに、日本帝国はドイツに抗議することもなく、なおいっそう連携を深めていくのだ。秘密資料は明らかにされていないが、ノモンハン事件は独ソ不可侵条約を促進するために仕掛けた日独連携プレーだったかもしれない。これはこの後の日ソ中立条約でも言えることだが、ソ連との条約は日独共にまったく実をともなっていない。最初から虚偽の条約なのである。

ドイツは第一敵国ソ連と不可侵条約を結んで、フランスとポーランドをまず手中に収める。当然これは英国等との戦争になる。1940年 9月23日 にはドイツのフランスに対する勝利に便乗して日本が北部仏印進駐を果たした。これで日独伊の三国の協定は軍事同盟に格上げされた。もともと中国を支援する英米は日本の友好国と言うわけではなかったが、日本も英米との対立を強め、ドイツに倣ってソ連との5年の中立条約を結ぶ。ところが、日ソ中立条約が結ばれるやいなや、ドイツはソ連に攻撃をかけた。日ソ中立条約はソ連に隙を作らせてドイツの電撃作戦を成功させるための芝居だったかもしれない。

日本が本気でソ連と友好を結ぼうとしたのなら、これまたドイツの信義が問われる問題であるが、日本はますますドイツとの信頼関係を深める。日本がソ連との友好を全く考えていなかったことは関特演つまり関東軍特種演習に示されている。特演というのは単なる演習ではない。陸軍の動員には時間がかかるから戦争は必ず特演という形で始まるのだ。真珠湾出撃もニイタカヤマノボレの電文がこなかったら特演と呼ばれていたはずだ。ドイツの電撃作戦に呼応して70万の大軍を満州国境に集結させ、その総力ぶりは、甲子園野球すら中止させるほどのものであった。日ソ中立条約からわずか三ヵ月後のことだがまったく中立どころではない。

このとき天皇も裁可した『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』では、「独「ソ」戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」と言う条約破りの決定までしている。このことで日ソ中立条約も実質廃棄されたとみるべきだろう。後にソ連が終戦間際に連合国側で参戦したことをあげつらっても噴飯物でしかない。しかも不意打ちではなくソ連は1945年4月に条約破棄を通告しているのだ。

結局、関特演は戦争にいたらなかった。その理由はノモンハンで苦汁をなめた陸軍はソ連との全面戦争に踏み切れず、海軍が主張する南方侵出に大方向転換をしたからだ。日米開戦はむしろ海軍主導だ。もし、今すぐソ連に立ち向かわないなら、長引く世界戦争を勝ちぬくには南に行くしかない。同盟国ドイツとの戦争にアメリカが加わるのは時間の問題だし、そうなれば日本は石油の供給源を失う。南方の石油を確保しておくことが戦争遂行の上では絶対に必要だ。1941年6月にはオランダとの石油交渉を打ち切った。武力で石油を確保する宣言のようなものだ。 7月28日の南部仏印への進駐で、アメリカとの対決姿勢も明確にしたことになる。仏印進駐でアメリカがそこまで怒るとは思わなかったなどという回想もあるが、それは「オトボケ」だろう。開戦は7月2日の御前会議で決定したと言える。

当然ながらアメリカは石油の禁輸という経済制裁に出た。外交的にはまだアメリカとの石油輸入交渉を続けているが、日本はもう7月の段階で「戦争も辞さずの決意で交渉に臨む」と決定しているから、この交渉の成り立ち得ないことは自覚していただろう。アメリカの盟友であるイギリスを攻撃しているドイツとの軍事同盟に身を置きながら、中国侵略を続けるための石油を供給しろとは虫が良すぎる交渉だ。まさかアメリカが要求を呑むはずもないのだが、ハルノートではっきりと断られるまで交渉を続けた。記録によれば交渉の当事者は結構真剣に交渉している。これは、アメリカにはヨーロッパやアジアの戦争に巻き込まれたくないという世論も強かったからで、日本に万が一の期待を抱かすような態度もあったようだ。

ハルノートではアメリカの要求が中国からの撤退と日独伊3国同盟の解消であることをはっきりと示した。しかし、日本が要求を呑まなかったらどうするとは書いていない。経済制裁はすでに行っており、要求に答えなくとも何もしないというのだから論理的にはこれが真珠湾攻撃の理由ではあり得ない。しかし日本側には事情があった。アメリカと断絶したままで戦争するために日本は南方諸島に侵攻して石油を獲得するつもりであったが、そうなればフィリピンを領有するアメリカとの衝突は避けられない。戦争を覚悟して出撃したアメリカ艦隊と正面衝突してもかなわない。交渉が続いているうちに奇襲することが必至なので、最後回答が出てしまうと一刻も早く戦闘を開始する必要があった。軍と政府の温度差がなくなり一路戦争へと突き進むきっかけは確かにハルノートではあった。

軍の動きは政府に先行しており、ハルノートが出た11月26日にはもうとっくに戦争に出発してしまっていた。公式に開戦を決めたと言われる12月1日の午前会議は2時間で終わり、天皇は発言もしていない。連合艦隊旗艦の戦艦長門は10月6日に横須賀を出港。「9軍神+1」の特殊潜航艇による特攻隊などは早くも4月15日に編成され、11月18日には真珠湾に向けて「伊22」で倉橋島を出港している。その他の空母群も早くから12月7日の真珠湾攻撃を目指した航海を開始しており、戦争はすでに始まっていた。最近の研究では一部の新聞記者でさえ11月13日には12月7日の攻撃予定を知っていたというくらいだ。ハルノートが出ようが出まいが12月7日には戦争が始まっていただろう。日清戦争でも日露戦争でも日本政府が宣戦布告するのは軍が戦闘を始めてからだった。

こうして日米開戦までの経過を見てみると、日本帝国は石原莞爾の世界最終戦総論のような構図に動かされていたことがわかる。ソ連ともアメリカとも場合によってはドイツとも戦う。その相手の順序は単なる戦術に過ぎない。世界は必ず食うか食われるかであり、恒久的な平和共存はありえないという考えは当時の日本では軍部に限らず一般的な認識にまでなっていた。今でこそ笑止な言葉だが、当時としては侵略は「する」か「される」かであり、自衛とはすなわち侵略することだった。だから自衛のための大東亜戦争戦争などと言うあきれるような言辞が飛び交っていたのだ。

第一の敵国がソ連であったことから日独伊三国同盟となり、アメリカとの戦いに必然的に行き着いた。ノモンハン事件中の独ソ中立条約で、3国協定を解消し日英米対独伊ソの路線を取ることも出来たのだが、松岡洋右などの親独派の情報を昭和天皇は信じてしまったのである。昭和天皇はこの事を後世まで根に持っていて、それまで、頻繁に参拝していた靖国神社への行幸を松岡が合祀されたと聞いたとたんに一切取りやめてしまった。

たしかに欧州の情勢はロンドンに爆撃の手が及び、モスクワ陥落も近いように言われていた。しかし、真珠湾攻撃の時点ですでにレニングラードの独軍は苦戦に陥っていた。松岡の情報網がいい加減だったにすぎない。真珠湾の3日後に独米戦が始まっているから、奇襲はもちろんドイツと示し合わせてのことだ。アメリカと戦う勝算については天皇も何度も質問したし、繰り返し検討された。当時の論調は、著者も出版社も隠してしまって今の日本では手に入らない本に多く記述されている。シカゴ大学の蔵書にはこういった戦時中の日本語文献がかなりあって面白い。

アジアを支配する日本と欧州を支配するドイツがアメリカを挟撃する。奇襲攻撃で太平洋艦隊の大半を沈めておけば、南方で石油を確保する時間的余裕は十分にある。アメリカは日本の20倍の生産力を誇るが、南方資源を手に入れれば日本の生産力は軽く3倍になる。ドイツは全欧州の生産力を投入するのでアメリカの半分はある。それでもまだ生産力に差があるが、戦争は生産だけではなく軍事力の戦いだ。挙国一致で戦える日本と、民主主義と称して勝手な振る舞いを許しているアメリカでは集中力がちがう。戦争が長引けばアメリカ国内には厭戦気分が蔓延し、革命含みの労働争議が頻発するはずだ。日露戦争の時のようにこの機を狙って有利な講和が期待できる。

これが、昭和天皇が率いる日本帝国の読みだったが、見事にはずれた。真珠湾では機動部隊の主力である空母を一隻も捉えられなかった。これで制海権を確保する筋書きが全部狂ってしまった。しかし、最大の問題は松岡洋右によってもたらされた欧州情勢の傲慢な不正確さだった。ドイツが負けて日本だけが世界を相手にしたのでは勝ちようがない。だから昭和天皇にとって、松岡だけはどうしても許せない存在なのだ。昭和天皇は政治家としても軍人としても中々の傑物だった。2.26事件の時の軍部に有無を言わせぬ指揮などを見ても器量がにじみ出ている。それが、40歳の男盛りに松岡ごときに迷わされたのは正に痛恨の極みであったろう。なんとか局地的勝利で和平のチャンスをねらったが、結局ポツダム宣言まで負け戦を繰り返してしまったのである。



1939年 8月23日 独ソ不可侵条約(10年)
1939年 9月15日 ノモンハン事件終結
1939年 9月 1日 ポーランド侵攻
1939年 9月 3日 イギリス・フランスがドイツに宣戦布告
1940年 5月10日 フランス侵攻を開始
1940年 6月14日 パリ占領
1940年 9月23日 北部仏印進駐
1940年 9月27日 日独伊三国軍事同盟
1941年 4月13日 日ソ中立条約(5年)

1941年 6月22日 対蘭石油交渉打ち切り
1941年 6月22日 ドイツがソビエト連邦に宣戦布告
1941年 7月 2日 日本陸軍は関特演70万兵力動員
1941年 7月 2日 御前会議 「国際信義上どうかと思うがまあよろしい」
1941年 7月28日 南部仏印への進駐
1941年12月 7日 真珠湾を攻撃
1941年12月11日 ヒトラーはアメリカに対して宣戦布告

1942年 1月 1日 連合国共同宣言
1943年 2月 スターリングラードでドイツ第6軍が敗北
1944年 6月 6日 ノルマンディー上陸
1945年 2月11日 ヤルタ協定(ドイツ降伏後90日以内にソ連参戦)
1945年 4月 5日 日ソ中立条約 廃棄通告
1945年 8月 9日 ソ連参戦
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コメント 2

はな

そっかぁ・・・・
真珠湾攻撃の原因は
石油欲しさだったのね。

欲しければ 商売して買えばよいのに・・・
by はな (2017-10-19 22:21) 

おら

そうですね。でも、あの時代「武力で取るしか生きる道はない」と信じ込んでいたわけです。1000万人を殺し、300万人が殺されることになったのですが、戦後は武力を使わずとも生きていけることが実証されました。いまだに国には武力が必要だなどと古い考え方をしているもいますが、世界は進歩しているのです。
by おら (2017-10-22 20:48) 

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