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2.26事件を解明する [歴史への旅・明治以後]

2.26事件は、日本が戦争の泥沼に踏み込んで行く端緒となった反乱事件である。しかし、これが何に対する反乱であったのかが定かでないし、何を意図し、何が青年将校たちを思い詰めさせた原因だったのかも、実のところ、よく理解されてない。

実は2.26事件の原因は帝国憲法にあり、明治維新の過ちから来る当然の帰結であった。
法律の素人である伊藤博文が作った大日本帝国憲法には、いろいろと欠陥があるのだが、最大の問題は、ありとあらゆる権能を天皇に集中してしまった点にある。全ての大臣は天皇が直接任命する。総理大臣という規定はなく、首相は大臣たちの中の非公式なリーダーに過ぎない。大権を軍事と民政に分けてその両方を統括するのは天皇だけである。陸軍大臣・海軍大臣は大元帥の直属の部下であるから、首相といえども、天皇を通してしか、指示を出せないことになる。政府が軍のする事に口出しするのはの統帥権の干犯である。

それでも、維新元勲が政治を担っていた明治の時代には、軍と政府間に問題は生じなかった。元勲は全て武士であったから軍人だったとも言える。誰もが軍人として戊辰戦争を戦った経験を持っていたから、直接的に軍の内部にも影響力を持っていた。軍人と政治家の区別はなかったのである。しかし、維新元勲の時代が終わると事情は変わってくる。軍人は職業として戦争をするようになったし、当然のことながら政府は軍人でない官僚たちが担うようになった。政府は軍から分離されざるを得ない。

軍人にとってはこれが不満だった。軍事を知っている自分たちが維新元勲の跡継ぎであるはずなのに、政府中枢から排除されるようになったと感じたのである。明治維新の理想からはずれ、様々な社会問題が生まれたのは、政治を軍から遠ざけだせいだという考えが軍の中に染み渡るようになった。この頃、士官学校・陸軍大学といった職業軍人の養成課程が確立され、社会からは分離された閉鎖的な集団を形成するようにもなっていた。

第一次世界大戦が終わり、世界が軍縮に向かうころから、世界の趨勢を無視できない政府と権益を守ろうとする軍に溝が広がり始めた。困ったことに、こういった事態が起こると収拾がつかなくなる構造を大日本帝国憲法は、最初から持っていたのだ。

平時の軍は戦功での評価がないので、完全な学歴社会になる。帝国憲法の構造上、士官学校を首席で卒業すれば、その時点で何年か後に、総理大臣といえども口出しできない地位に就くことが決まってしまうのだ。だから、青年将校をおろそかに扱うことは出来ない。

こんなことから、青年将校たちは、社会経験が薄いにも関わらず、自らが特権を持ったエリートであると意識し始める。平時には、本務である戦闘がないので暇でもあり、関心は政治に向かう。桜会、一夕会といった政治団体が軍の内部に生まれ、派閥化して行った。

こうした政治派閥がお手本にしたのは明治維新であり、彼らは昭和維新を標榜することになった。明治維新は、結局、薩長の青年将校たちが起こした武力クーデターであった。明治維新を礼賛する限り、天皇を担いでおきさえすれば、クーデターは許されると言う考えを否定することは出来ない。

彼らは平然とクーデターを実行する主張を繰り返し、特権意識をあらわにしていた。議論を尽くすよりも、命を懸けて武力を用いるのが美徳だとする価値観まで見受けられる。実際に10月事件、3月事件といったクーデター未遂事件を起こしているが、まともな処分はされていない。クーデター容認論は軍全体に染み渡っていたのだ。明治維新を正当な行為とみなす限り処分などできない。「軍部の独走」は、大日本帝国憲法のもとで、最初からプログラムに組み込まれてしまっていたのである。

この当時、政府を運営していたのは、政党の代表者たちであったが、その実態は官僚出身の政治家だった。財閥や地主層の意向を受けて、経済政策を軍事に優先させようとしたのだが、折からの世界恐慌で困難に陥り、そのしわ寄せは労働者・農民に困窮を強いるものとなっていた。これが政党政治の腐敗と映り、クーデターの必要性を確信させるもととなっていたことも否めない。しかし、救民を口にはしたが、具体的な施策はなく、もちろん、これがクーデターの目的であったわけではない。

天皇が支配する理想的な神の国である日本で、なぜ労働者・農民が苦難しなければならないのか、それは、「君側の奸」が天皇の意向を妨げているからだとする単純な考えは、軍事しか頭にない青年将校たちにもわかりやすかったのである。大川周明や北一輝の「理論」がもてはやされた。出世して重要なポストに就いている「君側の奸」を取り除くことは尋常な手段ではできない。自らの命を捨る覚悟の志士の決起が必要だとするテロリズムの結論は容易にでてくる。

どの派閥も、基本的な政策主張は同じだ。軍事最優先で、軍縮に反対し、軍事予算を増やすことにつきる。それが大元帥である天皇への忠誠であるとするところも同じだ。ただそれをどのように実現するかで、温度差が生まれた。武力を使って強引にやれば良いとする皇道派と、武力を使うことも辞さないが、まず陸軍大臣などの地位を使って政府をねじ伏せるという統制派が主な流れになった。

当然ながら、陸軍大学出身者など、軍の主流に近いところに統制派が多く、連隊など現場に近いところに皇道派が多かった。反軍縮でも、皇道派は兵員の増強を第一の課題としたが、統制派は軍備の近代化に熱心だった。陸軍大学を出た「天保銭組」に対する士官学校だけの「無天組」の反感も対立に輪をかけた。

どちらも、様々な問題の解決を領土の拡大、対外侵略に求めた。皇道派はソ連主敵論を唱え、ソ連領土への侵攻を策していたが、統制派は中国を十分平定してからソ連に立ち向かう主張をした。相手には広大な面積があるのだから、冷静に見れば、どちらもそう簡単ではなく大言壮語の競い合いのようなものだと言える。

考え方もさることながら、派閥の常として、交友関係によるつながりや、機密費の奪い合いという側面もあった。皇道派の陸軍大将荒木貞夫は、取り分けこうした派閥形成に熱心であり、組織を横断して青年将校を集め、酒を飲んだり、議論をしたりで人気を集めた。こうした青年将校の支持をバックに、軍内での地位を高めようとしたのだ。酒席の費用は軍の機密費から出ていた。

荒木が陸軍大臣になったこどで、極端な派閥人事が始まった。統制派と思しき人物を地方に飛ばし、中央を皇道派で固めた。荒木が体調を崩し、真崎甚三郎大将にこれを引き継ごうとしたが、あまりに極端な派閥人事に対する反発からこれに失敗した。永田鉄山が軍務局長になり、今度は統制派による皇道派排除が始まった。

統制派が人事権を握ったことで皇道派には危機感が高まり、相沢三郎による永田鉄山暗殺事件を引起こした。このことで、さらに皇道派は劣勢に陥いる結果となった。統制派に一撃を加え、クーデターで軍事政権を作る主導権を握る以外に派閥の劣勢を回復する道がなくなる。ぐずぐずしていると、外地に飛ばされ勢力が首都圏から失われてしまう。反乱は準備不足のまま2月26日に決行されたのである。

2.26事件は、政府に対する反乱であったと同時に統制派に対する反乱でもあった。軍は皇道派を容赦なく鎮圧するのに依存なかったのだが、政府に対する反乱は軍主流も是認するところだったため、反乱軍に対する態度は揺れ動くことになった。準備不足がたたって、大物と現場の連携が取れず「玉を取る」ことには失敗した。天皇にはクーデターを支持する必然性がないから、「君側の奸」を殺され、激怒するだけであった。荒木・真崎といった皇道派首魁は無関係を決め込み、見放された青年将校たちの蜂起は、部隊を持ちながらも戦闘することもなく終結した。

しかし、政治の実権を軍が握るという思惑は成功し、それがために泥沼への道を引き返すことが出来なくなってしまった。統制派の路線で中国侵略を進めたが、粘り強い抵抗は止まず、資源確保のために南方にも侵略の手を広げて、アメリカなどとも衝突せざるを得なくなった。結果は、周知のとおり第二次世界大戦による帝国の破滅をもたらす結果となった。大日本国憲法のもとでは、避けようのない自滅への道筋であり、2.26事件はその始まりだったのである。
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