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小野妹子の行き先 [歴史への旅・貴族の時代]

聖徳太子が607年に小野妹子を隋に送った、遣隋使がわが国外交の始まりであると教科書にあり、少年達はこれを信じて年号を覚えたりもした。遣隋使を歴史的事実と考える根拠は日本書紀の記述なのだが、実は日本書紀にも遣隋使のことは一言も書いてない。

どう書いてあるかと言えば、小野妹子は「遣唐使」と書いてあるのだ。607年にまだ唐の国は無く、隋の時代だからということでこれを勝手に遣隋使と読み変えた本居宣長の解釈が今も引き継がれている。

日本書紀が編集されたのは、遣隋使よりも100年経ってからなのだが、その目的は姉妹書である古事記の前書きにあるように「いろんな俗説があって万世一系の歴史が正しく伝わっておらず、これを正す」ためであった。それまでにも「日本旧記」などいくつかの歴史書があったのだが日本書紀によって「統一」された。

だから目的に合わない所は容赦なく書き換えられた。編者は隋のことを知らなかったのではない「隋書」もよく読みこんだあとが見られる。隋が滅びて唐に変わったなどという易姓革命の思想が万世一系の皇国史観に不都合なので、唐は昔から万世一系唐であったという立場で貫いたのだ。4回出てくる遣隋使の記述は全て大唐に派遣されたことになっている。日本書紀を書いた頃には、もう当時の人は生きていない。好きなように書いても文句は言われなかったのだろう。

遣隋使以前にも中国との交流はあった。魏志に卑弥呼が載っていることを考慮して神功皇后の統治を書いた。倭の五王が朝貢もしていがこれは完全に無視している。別の系統の政権なのか、ともかくもその時代の記録は大和朝廷にはなかったようだ。大和政権にはナショナリズムが芽生えており、中国に対して臣下の礼を取る姿勢を持たなかった。だから五王の取り扱いに困ったあげくに無視することにしたのだろう。実効的には大和朝廷としては遣隋使が初めての外交ということになる。

中国側にも遣隋使の記録はあるが、こちらは当然、日本が辺境の東夷であり野蛮な民族であると言う立場で書いてある。隋書にも倭の使節の記録が4回出て来るが日本書紀とは符号しない。最初の600年のものは日本書記にまったく記述が無く、2回目の607年が日本書紀の一回目と合致する。答礼使裴世清を送り返してきた608年の3回目のあと610年の帝記にも記述があるが、日本書紀にはなく、「その後遂に絶えぬ」とそれ以降になる622年の遣隋使をも否定している。

隋書は50年後に書かれた物だから日本書紀の記事より同時代性は高い。中国には帝記、起居注の記録を残す伝統があるし、言い伝えなら50年後と100年後では随分違うだろう。日本を蛮族と見る偏見は考慮しても、裴世清が日本に行って来て、報告もしたわけだから、日本の様子等についての信頼性は高い。日本書紀の編者も隋書を読みこんで、それに合わせた記述をしたはずだ。607年の記事も隋書に合わせて書いた創作の可能性さえある。なにしろ隋を唐とさえ書くくらいだ。

日本書紀が無視した第一回の遣隋使の記録を見てみよう。尋問記録だから倭王の事を聞かれてオオキミと答えた。日本では偉い人を名前で呼ばない。この地位の根源は天孫アマタリシヒコなのだが、これを隋では姓が阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雉彌と捉えた。王妃は倭語でキミ(后)になるし王子はワカミタフリである。源氏物語に出てくる「わかんとおり」の語源だろう。

政情を聞かれて「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けざる時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねる」とわけのわからないことを口にした。おそらく倭王は天と日を兄弟とするような大人物で、朝は夜明け前から仏道修行に励み、夜が明けたなら現実世界の諸事を取り仕切るというような事を言いたかったのかもしれないが、結果は「此太無義理」でたしなめられて終わった。

風俗としても刺青が多く、文字は無いし、貫頭衣のような原始的な衣類となれば、100年後の大国日本としては芳しい記事ではないので無視したのだろう。倭王が男だったと読めることが問題になっているが、720年代の常識ではオオキミは大王でも大后でも構わない。法隆寺薬師如来光背の銘文では推古天皇(女帝)を大王と書いている。無視して後世問題になる記事ではないと判断しただろう。

第二回の記事は608年でこれが遣隋使の最初とされているが中国側から見れば二番煎じで印象が薄いし、日本側にも、ただ「行った」と言うだけでしかない。小野妹子は蘇因高という中国名まで持って達者に渡り合ったとしているが中国側の記録には全く登場しない。小野妹子が隋煬帝に謁見しておれば書が与えられたはずだが、日本書紀は百済人に盗まれて無くなったと書いている。おそらく面会は出来なかったのだろう。

持って行った国書は、「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」といった空気の読めない内容で叱られてしまい、面会に至らなかったのだ。後世、国威発揚の名文として持ち上げられたりしているが、他にも匈奴が出した「天所立匈奴大単于、敬問皇帝、無恙...」といった文例も多くあり、特に尊大な文章ではない。文自体に問題はないのだが隋の皇帝にしか使ってはいけない天子という語を使ってしまったのが間違いと言うことになる。日本書紀の編者もこれを国威発揚とは受け取らずむしろ文法の間違いとして恥じたのだろう。国書のことは、意外と思われるかも知れないが、日本書紀に一切書いてない。

この使節の重要なところは文林郎の裴世清を答礼使として倭国に派遣させたことだ。高句麗に手を焼いていた隋としては高句麗の背後を脅かす倭には興味がそそられただろう。608年裴世清の来日は飛鳥寺の丈六光背の銘文からも確認できる。中国からの使者が来たことで大歓迎した様子が日本書紀にも隋書にも述べられている。日本書紀には「裴世清親持書。両度再拝、言上使旨而立之」と書いてあるがこれはウソだろう。隋の使節が東夷の族長に最敬礼することはあり得ない。逆に天皇が再拝して書状を受け取るのが隋の「礼」である。後に訪日した唐使高表仁は天皇に礼を守らせられずに国書を渡さずそのまま帰っている。裴世清が大歓迎を受け、満足して帰ったということは、隋使に対して天皇が「礼」をつくした事になる。

ともあれ、隋から使いまで来たのに気を良くして608年には大訪問団を送った。これは3回目になるが、高向玄理や僧旻といった後に政界で活躍する人物が同行しているから日本書紀としても重要であった。しかし隋から見れば裴世清を送るのに大勢で来たとしか受け取られなかった。裴世清の報告以上の記事は無い。

日本書紀には犬上三田鍬たちの第4回がかかれているが隋では「この後、遂に途絶えた。」と無視されてしまっている。特に新奇なことがなかったからだろう。その後に送られた遣唐使は国名を日本と名乗り、明らかに唐に対して臣下ではないとの矜持を持って接しており、過去の倭の五王の臣下の礼とは縁を切る姿勢が見られる。あるいは倭の五王の政権とは関係のない新しい政権だったかもしれない。遣隋使はその中間の部分であり、名前だけでなく中身も遣唐使的に脚色されている存在なのだ。
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コメント 3

両度再拝

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素晴らしい指摘です。日本では隋・唐の儀礼が論じられることはありませんね。管理人さんに敬意を表します。差し支えなければ、参照された資料を教えていただけますか。
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逆に天皇が再拝して書状を受け取るのが隋の「礼」であった。唐使高表仁は天皇に礼を守らせられずに国書を渡さずそのまま帰っている。裴世清が大歓迎を受けて帰ったということは天皇が「礼」をつくした事になる。
by 両度再拝 (2011-03-15 12:34) 

orachan

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どこかで朝儀の礼の情況記述を見たのですがメモが見当たりません。感覚的には将軍家からの使者が「上」と書いた書状を掲げると、大名があわてて平伏するという時代劇によくあるシーンの類推です。改めて調べたらアジア遊学第3号(特集:東アジアの遣唐使)に高明士『隋唐使の赴倭とその儀礼問題』がありました。
by orachan (2011-03-28 00:30) 

両度再拝

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有難うございました。私も高明士教授の論文を読んで気になっていました。どうもこちらが本来の儀礼のあり方と思います。なぜか、わが国の古代史論者の間ではこの儀礼問題が論じられることはありませんね。続日本紀天平12年10月9日の藤原広嗣と勅使のやり取りが参考になるかもしれません。
by 両度再拝 (2011-03-31 08:59) 

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