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道鏡事件はなかった? [歴史への旅・貴族の時代]

中西康裕さんの講演を聞く機会があった。道鏡事件はなかったという大胆な学説だ。道鏡事件は、悪僧道鏡が称徳天皇をたぶらかして、皇位の簒奪を狙った事件だとされている。宇佐八幡宮の神託を偽造したのだが、和気清麻呂が八幡神の正しいお告げをもたらして撃退したという続日本紀の物語だ。道鏡と称徳天皇の男女関係がセンセーショナルに扱われることも多い。しかし、称徳没後も、清麻呂が表彰されたわけでもく、道鏡も失脚はしたが処罰されたわけではない。謎の多い事件である。

続日本紀の宇佐八幡宮神託事件部分は、2つの宣命と、その間に挿入された解説文からなっている。宣命は天皇の声明文であり、書記が記録したものだ。むろん解説文は、後日続日本紀が編簿されたときに誰かが執筆したたものである。

最初の宣命は、和気清麻呂に対する怒りと処罰が述べられている。しかし、後の宣命は、聖武、元明の事績を語り、自己の天皇としての正当性を強調し、皇位に関しては天が定めるものであり、あれこれと論議するべきでない、と読める内容だ。

道鏡を皇位につけようとして、皇位問題を持ち出したのは天皇自身だ。それに対する妨害に怒ることと、皇位について議論することを戒めるのとでは180度方向が異なる。それがわずか6日の間隔で出されていることについては、古くから疑問があった。本居宣長は、二つ目の宣命は記載する場所を間違えたものであり、本来淳仁天皇を廃帝にしたところに挿入すべきものだったのではないかとしている。

中西康裕さんは、文体研究を通して、二つの宣命が同時期に書かれていることを見出し、本居宣長などの説を否定した。宣命は漢文でなく読み下しで、助詞などが間に小さく書いてある。この書き方は一定ではなく、書記によって異なることから、二つの宣命は同じ書記によって書かれていることが明らかになったのだ。

そうすると二つの宣命の矛盾はどうしたことだろう。この間に称徳天皇は方針を変更して改心したという解釈もあるのだがそれはおかしい。和気清麻呂に対する処分は、因幡員外介への左遷から大隅への島流しへと段階的にエスカレートして行き、この時はまだそれが進行中だからだ。

途中の解説を無視して、宣命だけを分析してみると、第一の宣命では清麻呂がウソの神託を報告したと怒っているが、その神託の内容については全く語っていないことに気が付く。解説文が述べているような道鏡事件とは関連がなかった可能性がある。むしろ清麻呂が誰か皇位継承者候補(他戸王?)を挙げての皇位継承神託を上奏して怒りを買ったという方が、後の宣命との整合性がある。

二つの宣命の間にある解説文は、後世勝手に付け加えた藤原氏の策謀にすぎず、道鏡事件なるものは実在しなかったというのが所論だ。称徳没後、皇位は天智系に移り、藤原氏が擁護する皇統となったが、その正当性を強調するためには、称徳を否定してしまってはまずいのだが、ある程度貶める必要があったのだということだ。道鏡はそのために利用されたのである。

しかしながら、この説には納得できないところが多々ある。続日本紀が書かれたのは事件からわずか25年後のことだ。事件はまだ人々の記憶にあるのだから、歪曲はあるとしても、全くの捏造解説を挿入するのは難しいのではないだろうか。

ただ宇佐八幡宮の神託があっただけでなく、清麻呂をわざわざ確認に行かせた理由は何だったのか。直前に、清麻呂を六位から五位に昇進させて、大きな結果を期待していたことは間違いがない。中西さんが推測するように由義宮の造営に関する神託なら何もこんな下工作をする必要はない。清麻呂が問われたことと関係のない皇位問題を勝手に持ち出したというのも不自然すぎる。

称徳天皇にとって皇位継承問題が最大の課題だったことは言うまでもない。宇佐八幡宮の神託で演出しなければならない重大問題は皇位継承以外にあり得ない。清麻呂に宇佐八幡宮のお告げを確認する報告をさせて自分の皇位継承問題に対する決着を承認させようとした。その目論見が破たんしてしまったのがこの事件だったとみるべきだろう。

持統天皇以来の歴代女帝の草壁皇子系統へのこだわりは極めて強い。しかし、期待を寄せられた聖武天皇は皇位伝承への意欲が薄く、仏道修行への傾斜を強め、前代未聞の生前退位まで行い、出家してしまうということに至った。年若くして皇位を託された称徳天皇にとっても、歴代女帝の宿願であった草壁皇子系統へのこだわりは絶対のもので、一旦は淳仁天皇に譲位したものの、結局、同じ天武系でも、舎人親王系を認めることができなかった。第二の宣命でもこの点を強調している。
天智系など、もっての他であったから。草壁皇子系統が絶えるとすれば、聖武天皇以来の仏教帰依を進めて政教一致の新たな天皇制にしたほうがましだ。称徳天皇自身も聖武天皇に習った熱心な仏教主義者だ。祭政一致の仏教国家を目指した。これが道鏡に皇位を譲ろうとした動機である。ところがこのための工作は清麻呂の裏切りにより破たんさせられてしまった。

第二の宣命にある皇位は天の定めるものであるとする言い方は、は称徳天皇の皇位継承問題に対する居直りと読める。淳仁天皇を立てて後悔し、今度は道鏡を立てようとして反対された。皇位については、もう、なるようにしかならない。あたしゃ知らないよという宣言である。清麻呂に対する処罰は続け、道鏡の重用は続ける一方、皇位継承については何も語らなくなった。事実、道鏡の失脚、光仁天皇の擁立など全ての動きは称徳没後になってしまった。

宇佐八幡宮神託事件は称徳天皇の皇位継承策である祭政一致の仏教国家への転換が失敗したというだけの事件であり、道鏡が皇位を狙って策謀したり、清麻呂が反道鏡で奮闘した事件ではないだろう。この点では、続日本紀の解説は鵜呑みにできず、やはり後世藤原氏の脚色が含まれているとみるべきである。藤原氏の庇護のもとにある天皇の正当性が続日本紀の主題だからだ。
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